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永禄11年([[1568年]])、[[甲斐国]]の[[武田信玄]]が今川家の本国・[[駿河国]]に侵攻した。これに際して道好は駿府で今川軍に従っていたが、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう氏真より命じられる。道好はその命を奉じて井伊谷に入り、井伊家より井伊谷を横領することとなった。虎松や次郎法師、直盛後家の[[祐椿尼]]は井伊氏菩提寺の[[龍潭寺 (浜松市)|龍潭寺]]に入って難を逃れている。徳川家康は道好の専横に対し、[[近藤康用]]・[[鈴木重時]]・[[菅沼忠久]]の[[井伊谷三人衆]]を派遣し、井伊谷を奪還させた。道好は敗北して井伊谷から退去し、近隣に潜伏していたが、永禄12年([[1569年]])に家康の[[堀川城]]攻撃の際に見つけ出される。4月7日、井伊谷城東方の井伊谷川付近にある、井伊家の仕置き場とされる蟹淵(がにぶち)<ref name="stera">{{Cite journal |和書= |title =高橋一生 政次ゆかりの地へ |date =2017 |publisher =[[NHKサービスセンター]] |journal =[[NHKウイークリーステラ]] |volume = |issue =12/15号 |pages =12-16 }}</ref>にて[[獄門]]により処刑された<ref name="news20170408"/>。5月7日、道好の子2人も処刑された<ref name="kakocho" />{{sfn|夏目|2016a|p=103}}。蟹淵近辺には、地元の人々が鎮魂のために建てた彼らの供養塔と伝えられる石塔群が残っている<ref name="stera" />。
 
== 「奸臣説」に対する疑問 ==
『[[井伊家伝記]]』では井伊谷を[[横領罪|横領]]した「[[悪役]]」として描かれる道好であるが、[[夏目琢史]]は著書で『井伊家伝記』が書かれた[[江戸時代]]、徳川家が絶対的で批判のできない存在となっており、小野家を悪役に仕立てることで徳川家・井伊谷三人衆・井伊家の大義名分を確保した可能性や、当時の井伊家家臣団の間に深刻な内部対立があった影響である説を指摘した{{sfn|夏目|2016a|pp=97-102}}。また井伊家が「横領」のために結果として徳川とも今川とも対峙することなく身の安全を確保できたことは都合が良すぎ、浜名家が家康の遠江侵攻に際し、側近の大矢家に後を任せて逃亡したのと同じようなことが起きていたのではないかと推察した{{sfn|夏目|2016a|pp=101-105}}。
 
[[大石泰史]]は通説とされてきた道好の「専横」を疑問視しており<ref name="iishi208">{{Harvnb|大石|2016|pp=208-209}}</ref>、根拠として、『井伊家伝記』では永禄11年12月の武田信玄による駿河侵攻以後に横領が始まったとされるが{{sfn|大石|2016|p=140}}、それを止めた井伊谷三人衆による徳川の引込はほぼ同時期であり、そのような行動を取る時間的余裕がないこと、さらに家康入国のわずか1か月前である同年11月9日に直虎が井伊谷徳政の文書を発給し井伊家の当主代行者として政務を取り行っているため、この時点で道好が勝手なふるまいはできなかったはずだとしている<ref name="iishi208" />。
 
== 但馬明神 ==