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[[File:Les Très Riches Heures du duc de Berry mars.jpg|thumb|right|[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]](3月)]]
'''暦'''(こよみ、れき)とは、[[時間]]の流れを[[年]]・[[月 (暦)|月]]・[[週]]・[[日]]といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論('''[[暦法]]''')や、それを記載した'''暦書'''・'''暦表'''(日本のいわゆる「[[カレンダー]]」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、[[月齢]]、[[天体の出没]](日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、[[潮汐]](干満)の時刻などの予測値を記したり、[[曜日]]、行事、吉凶([[暦注]])を記したものをも含める。
 
細分すると、
* 日を記録するものを暦(こよみ、{{en|calendar}})
* 暦による日付の並びを表形式等で表示した<!--及び日本のいわゆる-->暦表・[[カレンダー]] ({{en|calendar}})
* 暦の方法論である[[暦法]]([[新暦]]、[[旧暦]])({{en|calendar}})
* 天象の予報・天体の軌道を記述するものを[[天体暦]](れき、{{en|ephemeris}})
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* 航海用に一年間の天象・天体の視位置を記述した[[航海暦]]({{en|nautical almanac}})
* [[紀年法]]、すなわち[[西暦]]・[[和暦]]など ({{en|calendar era}})
となる。
 
本稿においては、このうちの暦(こよみ、calendar)の説明を行う。
 
== 語釈 ==
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[[中国の暦]]も、月日の決定だけでなく日月食の予報や惑星運行の推算([[天体暦]])などを扱うものであった。過去に関する記録は「歴」、現在から未来に関する記録は「暦」であるが、これをともに扱う役職を[[史官]]といい、今でいう歴史学者と天文学者を兼ねていた。また暦は未来を扱うものであるから、予言的な性格をもち、[[占星術]]と大きく関わる。占いに関わるものは[[暦注]]と呼ばれた。
 
== 単位 ==
暦は、地球の自転を元にした[[日]]、月の公転を元にした[[月 (暦)|月]]、地球の公転を元にした[[年]]など、いくつかの単位に細分化されている<ref>「暦の大事典」p8 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。
 
このうち古代の人々がまず最初に気づいたのは太陽の出没、すなわち1日であった。また、季節の推移と、それが一定の周期で一巡することにも気付き、年の概念が現れる。さらに周期的な月の満ち欠けに気付き、これが12回繰り返すと季節の一巡することに気づいた<ref>「暦の大事典」p1 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。こうして日・月・年の単位が成立した<ref>「暦を知る事典」p2-3 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。暦月が月の満ち欠けと一致するのは太陰暦だけで、太陽暦と月の動きは全く関連付けられていないが<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p31 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>、それでも多くの言語で暦月と月の名称に関連があり、また太陽暦でも通常1ヶ月が30日前後となっているのは太陰暦の名残であると考えられている<ref>「暦を知る事典」p3 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
 
天体の運行に基づいた年月日とは異なり、[[週]]は自然現象に起源を持たない。月と日の間の計測単位は各文明によってさまざまで、例えば古代中国では月を3分し10日を1単位とした[[旬 (単位)|旬]]という単位を用いており、これは現代日本でも使用される<ref>「暦を知る事典」p34 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。また、古代ローマでは7日制以前には8日を1周期とする週が使用されていたほか、4日や5日、6日、15日など、多くの周期が用いられていた<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p125 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>。週と[[曜日]]の起源は古代[[メソポタミア]]文明にさかのぼる。メソポタミア文明では7が聖数であったため、当時判明していた7つの天体(月・[[火星]]・[[水星]]・[[木星]]・[[金星]]・[[土星]]・太陽)にそれぞれ1日を割り当て、7日で1周期となるようにした<ref>「暦を知る事典」p34 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。ただし、7日周期に関しては[[古代エジプト]]が発祥であるとする文献もある<ref>「暦の大事典」p130 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。いずれにせよ古代[[オリエント]]において1週間7日制が成立し、これが周辺文明に伝えられ、ヨーロッパではローマ帝国期に一般的に使用されるようになった<ref>「暦を知る事典」p34-35 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。このため各曜日の名称は本来天体名に由来するが、周辺文明においてはあとから取り入れられた概念であるため天体と曜日の結びつきが薄く、例えばヨーロッパ諸言語においては太陽([[日曜日]])と月([[月曜日]])は天体由来名が残ったものの、[[惑星]]由来の5曜日については独自の名称が取り入れられ、天体との関係が消滅した<ref>「暦の大事典」p130 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。週は中国を経由して日本にも伝わり、10世紀末からは[[七曜]]として暦に記載されるようになったが、これは主に[[吉凶]]を判ずるためだった。その後、明治に入りグレゴリオ暦を採用すると、週は生活の上で重要な位置を占めるようになった<ref>「暦入門 暦のすべて」p29 渡邊敏夫 雄山閣 2012年5月30日初版発行</ref>。
 
== 暦法 ==
{{main|暦法}}
古代の人々は生活の中で[[季節]]の存在やそれにともなう自然現象の推移に徐々に気づいていき、その体験を元にある程度の「月」を定めて農業や狩猟などの目安とするようになった。これが暦の起こりであると考えられている。その性質上、原始的な暦は1ヶ月の長さが不定であり、また後世の暦のように1年が正確に繰り返されるような性質のものでもなかった。こうした原始的な暦は自然暦と総称されている<ref>「暦を知る事典」p4-6 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
[[古代エジプト]]において、[[ナイル川]]の氾濫の時期に周期性があることに気づいたのが暦の始まりといわれている([[シリウス暦]])。人類が[[農耕]]を行うようになると、適切な農作業の時期を知るために暦は重要なものとなっていった。まず昼夜の周期(地球の[[自転]])が日となり、[[月]]の満ち欠けの周期(月の[[公転]])が月に、[[季節]]<!-- [[エジプト]]や[[メソポタミア]]の季節の周期ははっきりしていなさそうだから、農業の収穫の周期とかの方が正確か -->の周期(地球の公転)が年となった。このように暦法は[[天体]]運動の周期性に基づいていることから、その観測と周期性の研究が重要であり、これが[[天文学]]の基礎となった。一方で、石器時代の35000年前に暦を創ったらしいとの意見もある。紀元前3000年頃のシュメール文明では、季節が冬と夏の2つで、1か月29日か30日の12か月の比較的簡単な暦を作り上げたといわれている。
 
次いで、[[月]]の満ち欠けの周期が暦として使用されるようになった。[[太陰暦]]である。太陰暦では「何日」と月のみかけの形が一致するためわかりやすいが<ref>「暦を知る事典」p13 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>、完全な太陰暦においては一年が約354日であり、太陽暦に比べ11日短くなるため、3年間で33日、つまり1か月ほどずれてしまい、実際の季節と大きく食い違ってしまう。このため太陰暦が使用されはじめたころは、1年の終わりと翌年の始まりの間に何日かの空白があったと考えられている<ref>「暦を知る事典」p23-24 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。21世紀において完全太陰暦を使用しているのは[[イスラム教]]圏で採用されている[[ヒジュラ暦]]のみである<ref>「暦入門 暦のすべて」p63 渡邊敏夫 雄山閣 2012年5月30日初版発行</ref>。ヒジュラ暦は閏月を排除し、完全に月の満ち欠けのみによった完全太陰暦であるが、このためイスラム暦は太陽暦に比べ毎年11日程度短く、33年でほぼ1年のずれを生じる<ref>「暦を知る事典」p24-26 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
何を基準として1年を定めるか、閏([[閏日]]・[[閏月]])をどのようにして決めるかなどにより、さまざまな暦法が作られた。大きく分けて以下の3種類がある。
* [[太陽暦]]
* [[太陰太陽暦]]
* [[太陰暦]]
それぞれ、基準は「太陽」、「太陽と月の併用」、「月」である。
 
やがて、月の運行と季節のずれを調整する方法として太陽暦を補助的に使用し、[[閏月]]を挿入することで実際の季節と暦とのずれを修正する方法がとられるようになった<ref>「宇宙観5000年史 人類は宇宙をどうみてきたか」p8 中村士・岡村定矩 東京大学出版会 2011年12月26日初版</ref>。これが[[太陰太陽暦]]である。閏月の挿入は、導入当初は社会の指導者たちが状況に応じ適宜挿入を決定したと考えられているが、やがて天文学の発達によって正確な[[置閏法]]が定められ、決められた時期に閏月が挿入されるようになった<ref>「暦を知る事典」p13 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。置閏法としては、19年に7度の閏月を挿入する[[メトン周期]]がギリシアで使用されており、また中国でもこの方法で閏月が挿入されていた<ref>「暦を知る事典」p13 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。太陰太陽暦は多くの世界で採用され、[[バビロニア暦]]<ref>「暦の大事典」p47-48 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>、[[ユダヤ暦]]<ref>「暦の大事典」p69 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>、[[ローマ暦]]<ref>「暦を知る事典」p29-31 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>、[[ヴィクラム暦]]<ref>「暦の大事典」p191 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>、[[中国暦]]<ref>「暦を知る事典」p10-14 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>など多くの暦法が存在する。
現在、世界各国で広く用いられているのは、太陽暦の一つである[[グレゴリオ暦]]である。
 
これに対し、太陽が[[黄道]]上のある点を出てその場所に戻ってくるまでの周期、いわゆる[[太陽年]]を暦として使用するのが[[太陽暦]]である<ref>「暦を知る事典」p13 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。太陽暦は太陰暦に比べずれが非常に小さいものの、正確な太陽年は365.2422日である<ref>「暦を知る事典」p7 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>ため、適切な間隔で[[閏日]]をおかない限り、やがて季節とのずれが生じる。太陽暦が最初に制定されたのは[[古代エジプト]]で、[[ナイル川]]の氾濫の時期とシリウスの動きの周期が近似していることから考案されたとされる。これは[[シリウス暦]]と呼ばれ1年が365日となっていたが、閏日が制定されていなかったため長い年月のうちに季節と暦のずれが生じるようになった。このため[[プトレマイオス朝]]期に4年に1度の[[閏年]]が設けられるようになり、これが[[ユリウス・カエサル]]によって[[共和政ローマ]]に持ち込まれ、[[ユリウス暦]]として長く使用された<ref>「暦を知る事典」p8-9 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。このほかにも、[[エチオピア暦]]や[[イラン暦]]<ref>「暦を知る事典」p9-10 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>、シャカ暦やコッラム暦といったインドのいくつかの暦<ref>「暦の大事典」p191 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>は太陽暦となっている。
;それぞれの暦法の長所・短所
元々、「何月」というのは、[[月]]の運行を意識したものである。[[太陰暦]]は月の運行を強く意識した暦で、「何日」と月のみかけの形が一致する。したがって月が出てさえいれば、その日が何日であるか暦がなくてもわかる。深夜に月の明かりを頼りとして活動をする場合には、月のみかけの形がわかると都合がよい。また、[[潮]]の満ち引き([[潮汐]])は月の位置と密接な関係があるため、[[漁業]]や釣りなどの海での活動を行う場合に役に立つ。ただし、完全な太陰暦においては一年が約354日であり、太陽暦に比べ11日短くなるため、3年間で33日、つまり1か月ほどずれてしまい、実際の季節と大きく食い違ってしまう。このため、これを調整する方法として太陽暦を補助的に使用し、[[閏月]]を挿入することで実際の季節と暦とのずれを修正する方法がとられるようになった<ref>「宇宙観5000年史 人類は宇宙をどうみてきたか」p8 中村士・岡村定矩 東京大学出版会 2011年12月26日初版</ref>。これが[[太陰太陽暦]]である。
それに対して、[[太陽暦]]は月の形とは関係なく暦が作られている。したがって暦だけではその日の月の形はわからない。また、各月の日数が一定ではない。しかし、太陽の運行と暦の月日が一致しているので、同じような月日に同じ季節の現象が起きる(草花の開花、鳥の渡りなど)。逆に、同じ月日なのに季節の現象が遅れたり早まったりすることを観察することによって、その年が寒い傾向の年なのか暑い傾向の年なのかを知ることができる。このことは[[農業]]や漁業、園芸にとって極めて大切なことである。
 
ユリウス暦はかなり正確なものであり、暦と太陽年のずれは128年に1日に過ぎなかったものの、ユリウス暦施行から1000年以上経つとそのずれは無視できないほどにまで広がっていた。そこで1582年に[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]によって改暦が行われ、より正確な[[グレゴリオ暦]]が導入された。グレゴリオ暦は[[カトリック教会|カトリック]]圏ではほぼ即座に採用され、プロテスタント圏では18世紀、ギリシア正教圏では20世紀に入ってから導入された。また1873年の日本を皮切りに非西欧諸国でも相次いでグレゴリオ暦が採用されるようになり、21世紀にはほとんどの国でグレゴリオ暦が使用されている<ref>「暦を知る事典」p38-41 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
== 様々な国・宗教の暦法 ==
次のようなものが用いられてきた歴史がある。
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* [[ツァドク暦]]
* [[ユリウス暦]]
* [[グレゴリオ暦]]
* [[中国暦]]
* [[月遅れ]](中暦)
* [[バビロニア暦]]
* [[ユダヤ暦]]
* [[ヒンドゥー暦]]
* [[教会暦]]
* [[ヒジュラ暦]]
* [[イラン暦]]
* [[ツォルキン]]
* [[ローマ暦]]
* [[フランス革命暦]](フランス共和暦)
* [[スウェーデン暦]]
* [[ソビエト連邦暦]]
* [[ケルト暦]]
* [[ヴィクラム暦]](太陰太陽暦)
* [[マヤ暦]]
* [[エチオピア暦]]
* [[アルメニア暦]]
* [[朝鮮の暦]]
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== 日本と暦 ==
{{main|日本の暦}}
日本ではかつて[[太陰太陽暦]]が用いられていた。[[元嘉暦]]から[[宣明暦]]までは[[中国暦]]を輸入して使った。これを[[漢暦五伝]]という。[[貞享暦]]から[[天保暦]]までは、日本人の手によって作られた暦法である。
[[中国の暦]]が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『[[日本書紀]]』には[[欽明天皇]]14年([[553年]])に[[百済]]に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも[[6世紀]]には伝来していたと考えられる<ref>「暦を知る事典」p52-53 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。この頃の百済で施行されていた暦法は[[元嘉暦]]であるので、このときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。元岡古墳群([[福岡県]][[福岡市]])出土の金錯銘大刀([[庚寅銘大刀]])には「庚寅正月六日庚寅」の銘文があるが、元嘉暦に基づけば[[570年]]1月6日と推定され、これが日本における最古の暦使用を示す考古資料となる可能性がある<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1414437.html 国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定等](文化庁報道発表、2019年3月18日)。</ref>。また、[[推古天皇]]10年([[602年]])に百済から学僧[[観勒]]が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある<ref>「暦を知る事典」p53 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
 
[[平安時代]]に編集された『[[政事要略]]』という本には[[推古天皇]]12年([[604年]])から初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では[[持統天皇]]4年([[690年]])の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と[[儀鳳暦]]とを行う」という記事が初めてであり、正式採用は持統天皇6年([[692年]])からという説がある。[[文武天皇]]元年([[697年]])8月からは元嘉暦が廃され、[[儀鳳暦]]が専用された<ref>「暦を知る事典」p53-54 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。儀鳳暦は[[唐]]で施行された[[麟徳暦]]のことである。元嘉暦と儀鳳暦の大きな違いは[[朔日]]の決定方法と[[閏月]]の置き方である。朔日については、前者は[[平朔]]を、後者は[[定朔]]を使用していた。また、[[置閏法]]については、元嘉暦が19年7閏月という[[章法]]を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない[[メトン周期#破章法|破章法]]を用いていた。
[[中国の暦]]が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『[[日本書紀]]』には[[欽明天皇]]14年([[553年]])に[[百済]]に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも[[6世紀]]には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は[[元嘉暦]]であるので、このときに伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。元岡古墳群([[福岡県]][[福岡市]])出土の金錯銘大刀([[庚寅銘大刀]])には「庚寅正月六日庚寅」の銘文があるが、元嘉暦に基づけば[[570年]]1月6日と推定され、これが日本における最古の暦使用を示す考古資料となる可能性がある<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1414437.html 国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定等](文化庁報道発表、2019年3月18日)。</ref>。
 
儀鳳暦以降、[[天平宝字]]7年(763年)に[[大衍暦]]、[[天安 (日本)|天安]]2年(858年)に[[五紀暦]]、[[貞観 (日本)|貞観]]4年(862年)に[[宣明暦]]と、唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行されたが、その後改暦は行われず、宣明暦は江戸時代の1684年まで823年間も施行された<ref>「暦を知る事典」p55-57 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。実際の毎年の暦の作成・頒布は[[暦博士]]などの[[暦道]]の人々が行った。
また、[[推古天皇]]10年([[602年]])に百済から学僧[[観勒]]が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。
 
[[File:Jokyo-reki.jpg|thumb|240px|right|[[貞享暦]]。[[1729年|1729]]([[享保]]14)年版。[[国立科学博物館]]の展示。]]
[[平安時代]]に編集された『[[政事要略]]』という本には[[推古天皇]]12年([[604年]])から初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では[[持統天皇]]4年([[690年]])の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と[[儀鳳暦]]とを行う」という記事が初めてであり、正式採用は持統天皇6年([[692年]])からという説がある。
[[江戸時代]]になると日本でも独自に天文暦学が発展した。長期にわたって改暦が行われなかったことから、置閏に必要な[[二十四節気]]測定に、誤差が累積してずれが目立ちはじめ、置閏に問題をきたすようになった(旧暦は朔日(新月)を1日とするルールだが、それは破綻していない)。このような中で、[[渋川春海]]が最初の日本独自の暦法である[[貞享暦]]を作るのに成功し、[[貞享]]元年(1684年)に改暦が行われた<ref>「暦を知る事典」p63-65 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
 
貞享暦以後、[[宝暦]]5年(1755年)[[宝暦暦]]が施行されたがあまり正確なものではなく、[[寛政]]10年(1798年)には[[高橋至時]]や[[間重富]]らによって[[寛政暦]]が作製され施行された。そして[[弘化]]元年([[1844年]])には日本で最後の太陰太陽暦となる[[天保暦]]が施行された<ref>「暦を知る事典」p65-67 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。天保暦はこれまでに実施された太陰太陽暦の中で最も精密なものといわれ、当時中国で用いられていた[[時憲暦]]を上回ったと評されているが<ref>「暦を知る事典」p67 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>、当時の世界の流れに逆行して[[不定時法]]を導入するなどの問題点もあった。
[[文武天皇]]元年([[697年]])8月からは元嘉暦が廃され、[[儀鳳暦]]が専用された。儀鳳暦は[[唐]]で施行された[[麟徳暦]]のことである。元嘉暦と儀鳳暦の大きな違いは[[朔日]]の決定方法と[[閏月]]の置き方である。朔日については、前者は[[平朔]]を、後者は[[定朔]]を使用していた。また、[[置閏法]]については、元嘉暦が19年7閏月という[[章法]]を採用していたのに対し、儀鳳暦では章法に拘らない[[メトン周期#破章法|破章法]]を用いていた。
 
幕末に[[開国]]が行われ欧米諸国との貿易が本格化すると、日付や年のずれからトラブルが発生し、またこれら諸国の採用する太陽暦が使いやすく世界中で広く使用されていることから、日本でも太陽暦採用を求める動きが出はじめ、[[明治]]5年11月に[[明治政府]]によって[[グレゴリオ暦]]施行が決定されて、翌明治6年(1873年)から導入された<ref>「暦を知る事典」p67-70 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
儀鳳暦以降、[[大衍暦]]・[[五紀暦]]・[[宣明暦]]と唐で施行された暦法が相次いで輸入され施行された。実際の毎年の暦の作成・頒布は[[暦博士]]などの[[暦道]]の人々が行った。宣明暦は[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])から用いられたが、その後は中国との正式な国交が絶えたため、江戸時代まで823年間も施行された。
 
現在でも民間では太陰太陽暦は年中行事や占いのために用いることがあり、これを[[旧暦]]と呼んでいるが、これは閏月の置き方を[[天保暦]]に借りはしているものの数値や計算法は現代の理論に従っているので、厳密には[[天保暦]]と同義ではない。現在の中国でも太陰太陽暦が[[農暦]]という名で使われており、基本的に日本の旧暦と同じであるが、1時間の時差のために日がずれることが少なからずある。
[[File:Jokyo-reki.jpg|thumb|240px|right|[[貞享暦]]。[[1729年|1729]]([[享保]]14)年版。[[国立科学博物館]]の展示。]]
[[江戸時代]]になると日本でも独自に天文暦学が発展し、[[明]]の[[大統暦]]や西洋天文学の研究、天体観測が盛んに行われた。このような中で、[[渋川春海]]が最初の自国の暦法である[[貞享暦]]を作るのに成功した。
 
== 紀年法 ==
貞享暦以後、[[宝暦暦]]・[[寛政暦]]・[[天保暦]]と日本独自に相次いで改暦が行われた。[[弘化]]元年([[1844年]])から施行された[[天保暦]]が日本で最後の太陰太陽暦であるが、これまでに実施された太陰太陽暦の中で最も精密なものといわれ、当時中国で用いられていた[[時憲暦]]を上回ったと評されているが、当時の世界の流れに逆行して[[不定時法]]を導入するなどの問題点もあった。
[[ファイル:Yoshihide Suga announcing new imperial era Reiwa 2 (cropped).jpg|thumb|200px|[[2019年]][[5月1日]]、日本の元号は[[平成]]から[[令和]]へと改元された]]
暦法によって定められた年の記し方を[[紀年法]]と呼び、ある起点から期間を区切らず無限に年数が加算されていく[[紀元]]<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p183 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>、君主や統治者、政体の統治期間などによって期限を区切られる[[元号]]<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p169-179 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>、一定の期間で循環する[[周期]]によって年を表わす方法<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p179-181 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>が存在する。
 
紀年法についても、「[[西暦]]」「[[中華民国暦]]」「[[主体暦]]」のように[[接尾語]]として「'''暦'''」が用いられることがあるが、[[暦法]]と混同してはならない。
明治時代に[[グレゴリオ暦]]が導入された。
 
紀元の例としては、[[セレウコス朝]]では[[セレウコス1世]]のメソポタミア占領を紀元とするセレウコス紀元を用いていた<ref>「暦の大事典」p92 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。キリスト教徒の間では、まず[[ローマ皇帝]][[ディオクレティアヌス]]の即位した[[284年]]を紀元とする[[ディオクレティアヌス紀元]]が広まり、さらに6世紀には[[ディオニュシウス・エクシグウス]]によってイエス・キリストが生誕したとされる年を紀元1年とする[[キリスト紀元]](AD)が導入された<ref>「暦の大事典」p131 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。このキリスト紀元は世界で広く使われているが、その起源や名称から非キリスト教信者や世俗主義者の批判を浴びることがある<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p197-199 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>。このほか日本の[[神武天皇即位紀元|皇紀]]、[[中華民国]]([[台湾]])の[[中華民国暦]]、[[北朝鮮]]の[[主体暦]]などいくつかの紀元法が存在する<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p184 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>。
現在でも民間では太陰太陽暦は年中行事や占いのために用いることがあり、これを[[旧暦]]と呼んでいるが、これは閏月の置き方を[[天保暦]]に借りはしているものの数値や計算法は現代の理論に従っているので、厳密には[[天保暦]]と同義ではない。現在の中国でも太陰太陽暦が[[農暦]]という名で使われており、基本的に日本の旧暦と同じであるが、1時間の時差のために日がずれることが少なからずある。
 
[[古代ギリシア]]では、当該年の統治者の名を用いて年を表わすことが広く行われていた。しかしギリシアは多数の都市が存在していたため、複数の都市にまたがる事柄を記録する際には、当該都市の氏名と統治者を全て列記する必要があった。この方法は古代ローマにおいても踏襲され、当該年の[[執政官|コンスル]]2名の名をもって年を表わしていた<ref>「暦の大事典」p90-92 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。
=== 日本における暦法一覧 ===
* [[旧暦]]
** [[元嘉暦]] - [[儀鳳暦]] - [[大衍暦]] - [[五紀暦]] - [[宣明暦]] - [[貞享暦]] - [[宝暦暦]] - [[寛政暦]] - [[天保暦]]
* [[新暦]]
** [[グレゴリオ暦]]
 
古代オリエントでは王の治世期間で年を表記する紀年法が広く使われた<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p174-175 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>。この即位紀元は古代中国においても広く使用されたが、[[前漢]]の時代に在位中に紀元を改める[[改元]]が始まり、[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に入るとこれに名前をつけ、[[元号]]が創始された<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p28-32 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>。改元は君主の代替わりだけではなく、吉事や天変地異などさまざまな理由で行われ、本来は君主の統治期間と連動しているわけではなかったが<ref>「元号読本 「大化」から「令和」まで全248年号の読み物事典」p20-24 所功・久禮旦雄・吉野健一編著 創元社 2019年5月20日第1版第1刷発行</ref>、[[明]]代に[[一世一元の制]]が始まって君主の統治期間と元号が一本化された<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p34 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>。
== 年の記述 ==
いわゆる紀年法についても、「[[西暦]]」「[[中華民国暦]]」「[[主体暦]]」のように[[接尾語]]として「'''暦'''」が用いられることがあるが、[[暦法]]と混同してはならない。
{{div col}}
* [[紀年法]]
* [[紀元]]
* [[和暦]]
* [[西暦]]
* [[干支]]
* [[元号]]
* [[元号から西暦への変換表]]
* [[一世一元の詔]]、[[一世一元の制]]
* [[元号法]]
* [[元号一覧 (日本)]]
* [[神武天皇即位紀元]](皇紀)
* [[中華民国暦]]
* [[主体暦]]
* [[クロノグラム]]
{{div col end}}
 
周期を用いる紀年法としては、古代ギリシアでは4年に1度開催される[[古代オリンピック]]を1周期とし、「第○オリンピア紀第×年目」のように年を表わすオリンピック紀元が用いられた<ref>「暦の大事典」p90-93 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。また中国では、[[十干]]と[[十二支]]を組み合わせ[[60]]を1周期とする[[干支]]が紀年法に用いられ、日本でも長く使用された<ref>「暦入門 暦のすべて」p125-126 渡邊敏夫 雄山閣 2012年5月30日初版発行</ref>。
== 生活暦 ==
 
<!--* [[天体暦]]-->
日本で暦が用いられだした当初は干支を年の表記として使用していたが<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p48-49 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>、[[645年]]に日本最初の年号である[[大化]]が制定され<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p55-57 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>、[[和暦]]がはじまった。その後は幾度かの空白を挟みながら断続的に年号が制定されていたが、[[701年]]に[[大宝 (日本)|大宝]]の元号が定められ、あわせて以後の公文書には必ず元号表記を用いることが定められたため、以後[[元号一覧 (日本)|元号]]制度は固定化され、中断することはなくなった<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p63-65 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>。[[明治天皇]]の即位した[[1868年]]には[[一世一元の詔]]が発せられ、日本でも一世一元制が施行された<ref>「元号読本 「大化」から「令和」まで全248年号の読み物事典」p37-38 所功・久禮旦雄・吉野健一編著 創元社 2019年5月20日第1版第1刷発行</ref>。その後、[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]の失効により一時元号の法的根拠が不明確なものとなったが、1979年に[[元号法]]が定められて元号の法的根拠および改元の要綱が定まった<ref>「元号読本 「大化」から「令和」まで全248年号の読み物事典」p39-42 所功・久禮旦雄・吉野健一編著 創元社 2019年5月20日第1版第1刷発行</ref>。
* [[日本の暦]]
* [[大小暦]]
* [[神宮暦]](本暦・略本暦・大暦・小暦)
* [[お化け暦]]
* [[略暦]]
* [[高島暦]]
* [[三島暦]] - [[大宮暦]]
* [[盲暦]]
 
== 提案されている暦法 ==
現在世界の大部分で使用されているグレゴリオ暦は精度が高いものの、1ヶ月の日数が一定でないことや、1ヶ月が7の倍数でないため[[週]]とのかみ合わせが悪く日付と[[曜日]]が一致しないこと、そしてキリスト教色が強すぎるといった問題点が存在するため、それを改善するための改暦案が数多く提案されてきた<ref>「暦の大事典」p150 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。1793年にはフランスの[[国民公会]]が[[フランス革命暦]]を制定し、グレゴリオ暦からの脱却を図ったものの、週の廃止や時制の[[十進法]]への変更などといった急進的すぎる改革は大きな混乱を生み、1806年には[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]によって廃止された<ref>「暦の大事典」p151-154 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。フランス革命暦の失敗後、1か月を28日で固定し1年を13か月とする[[オーギュスト・コント]]の{{仮リンク|実証暦|en|Positivist calendar}}や[[国際固定暦]]のような[[13の月の暦]]、また暦日と曜日が固定できる[[世界暦]]といったさまざまな改暦案が提唱されたものの、実現せずに終わった<ref>「暦の大事典」p154-157 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。2012年には閏週の挿入によって曜日と日付を固定させる[[ハンキ=ヘンリー・パーマネント・カレンダー]]が提唱されたものの、採用の見込みはほぼ存在しないと見なされている<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/5496/ 「閏週で曜日を固定する新しい暦」ナショナルジオグラフィック 2012.01.18 2023年1月28日閲覧</ref>。
* [[世界暦]]
* [[13の月の暦]]
* [[ハンキ=ヘンリー・パーマネント・カレンダー]]
 
== 地球以外でいられる品としての ==
[[ファイル:Kalender Indonesia.jpg|thumb|インドネシアのカレンダー]]
* [[ダリアン暦]](火星の暦法の一つ)
この場合、暦とはいわず'''カレンダー'''ということが多い (詳しくは[[カレンダー]]の項を参照)。主に予定管理などに使われる。形式は日めくり、月めくりなど様々なものがあり、月めくりのカレンダーの場合だけでも[[月曜日|月曜]]始まりと[[日曜日|日曜]]始まりの2種類がある(稀に[[土曜日|土曜]]始まりもある)。そのほかにも、1日1日が分離されていてパズルのように組み立ててカレンダーにする、というものもある。
 
カレンダーの始まりは年初である1月であるものが多いが、日本の学校や会社などでは[[年度]]の始まりである4月を先頭とするカレンダーも存在する<ref>「暦の大事典」p434-435 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。カレンダーは印刷業者や出版業者によって生産され、おもに翌年に備えて年末に購入されることが多い<ref>「暦の大事典」p434 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。また、日本では[[宣伝]]などのために一般企業が生産業者に社名入りのカレンダーの制作を依頼し、[[粗品]]として配布されることも多い<ref>「暦の大事典」p434 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。カレンダーが各種企業や団体からの依頼で受注生産されることは世界でもほぼ共通で、宗教団体や公的機関、民間団体、企業といったさまざまな団体名義のカレンダーが世界中で発行されているほか、商品として販売されるものが存在することも同様である<ref>「暦の大事典」p440-444 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。
== 架空の暦法 ==
* [[ホビット庄暦]] ([[:en:Shire Calendar|Shire Calendar]])
 
日本では[[大宝 (日本)|大宝]]元年(701年)に[[陰陽寮]]が設置され、そこに置かれた[[暦博士]]が暦を制作し、[[御暦奏]]の後に官庁へと[[頒暦]]していた。ここで制作された暦は吉凶判断のための様々な[[暦注]]が漢文で記されたいわゆる[[具注暦]]だったが、平安時代後期には簡略化され仮名文字で書かれた[[仮名暦]]も広く発行されるようになり、また[[暦道]]が[[幸徳井家]]の[[家職]]化された<ref>「暦を知る事典」p58-61 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。一方、鎌倉時代になると暦の需要が高まって具注暦や仮名暦の筆写では供給が追いつかなくなり、[[木版印刷]]による[[摺暦]]の生産が始まった。摺暦は[[伊豆国]]の[[三島市|三島]]で始まったと考えられており、[[三島暦]]をはじめとして京暦や[[大宮暦]]など日本各地で盛んに発行されるようになった<ref>「暦を知る事典」p130 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。こうした暦は地方暦と総称される。[[江戸時代]]に入ると[[御師]]の手によって[[伊勢神宮]]信仰が全国に広まるが、彼らが御札を配布する際に土産として[[伊勢暦]]を配布したことから、伊勢暦が暦の代名詞となるまでに普及した<ref>「暦ものがたり」p154-155 岡田芳朗 角川ソフィア文庫 平成24年8月25日初版発行</ref>が、各地方でも特色ある暦が作成・配布され続けた。なかには[[非識字者]]を対象に文字を使わず絵や記号で暦を表示した、南部絵暦に代表される[[盲暦]]や<ref>「暦を知る事典」p151-156 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>、[[大の月]]・[[小の月]]の順番のみを記し[[贈答品]]として流行した[[大小暦]]といった暦が作られたのもこの頃のことである<ref>「暦を知る事典」p156-158 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
== 実用品としての暦 ==
 
この場合、暦とはいわず'''カレンダー'''ということが多い (詳しくは[[カレンダー]]の項を参照)。主に予定管理などに使われる。形式は日めくり、月めくりなど様々なものがあり、月めくりのカレンダーの場合だけでも[[月曜日|月曜]]始まりと[[日曜日|日曜]]始まりの2種類がある(稀に[[土曜日|土曜]]始まりもある)。また、日本では[[宣伝]]などのために[[粗品]]として配布されることもある。そのほかにも、1日1日が分離されていてパズルのように組み立ててカレンダーにする、というものもある。
明治時代に入ると、従来の頒暦者たちを統合して明治5年に[[頒暦商社]]が設立されたが、同年にグレゴリオ暦への改暦が行われたため、すでに翌年分の旧暦で暦を作成していた頒暦商社は大損害を受けた。この救済として商社には10年間の専売権が与えられたが、新暦では従来の暦に記載されていた暦注の記載が禁じられたため使い勝手が非常に悪く、商社の専売権が終了した明治15年頃からは暦注を記載した違法の[[お化け暦]]が盛んに発行されるようになった。また明治16年からは[[神宮司庁]]により[[神宮暦]]の発行がはじまった<ref>「暦を知る事典」p69-71 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭著 東京堂出版 平成18年5月8日初版発行</ref>。
 
== 文化 ==
中国の歴代王朝においては、天象を把握して正確な暦を策定し施行することは王朝の責務とされ、強い政治性を持っていた。また臣下や支配地域では王朝の定めた暦を施行することが義務づけられた。このため、暦を受けいれることを意味する「正朔を奉ずる」という言葉が、そのまま王朝の統治に服することを意味するようになった。この暦の使用は[[冊封体制]]下にある全ての国家でも義務づけられ、独自の暦を作成・使用することは禁じられていた<ref>「暦の大事典」p223-228 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。この元号強制により[[朝鮮半島]]では[[新羅]]中期以降は独自元号の使用は停止され中国元号が使用されたものの<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p42-44 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>、日本では645年以降<ref>「元号読本 「大化」から「令和」まで全248年号の読み物事典」p19-20 所功・久禮旦雄・吉野健一編著 創元社 2019年5月20日第1版第1刷発行</ref>、[[ベトナム]]では970年以降独自元号が制定され使用され続けた<ref>「元号 年号から読み解く日本史」p38-41 所功・久禮旦雄・吉野健一 文春新書 2018年3月20日第1刷発行</ref>。
 
世界の暦法はほとんどの地域でグレゴリオ暦へと切り替えられたが、旧暦によって行われていた[[年中行事]]や[[祭日]]が新暦へ直接移行するわけではないことが多い。例えば日本では、[[雛祭り]]のように完全に新暦へと移行したもの、[[お盆]]のように旧暦に配慮して1ヶ月だけ遅らせ、新暦の8月13日から8月16日にかけて行われる[[月遅れ]]、そして[[十五夜]]のように完全に旧暦のまま行うものが存在する<ref>「暦の大事典」p430 岡田芳朗編 朝倉書店 2014年7月20日初版第1刷</ref>。中国や韓国、ベトナムでは新暦移行後も旧暦の正月である[[春節]]を盛大に祝っている<ref>「世界の食文化百科事典」p310-311 野林厚志編 丸善出版 令和3年1月30日発行</ref>。また[[ロシア正教会]]や[[ジョージア正教会]]、[[セルビア正教会]]など一部の正教会は祭日を従来のユリウス暦で行っているため、これらの国々では[[クリスマス]]はユリウス暦の[[12月25日]](グレゴリオ暦では[[1月7日]])に行われる<ref>「暦と時間の歴史」(サイエンス・パレット9)p61 リオフランク・ホルフォード・ストレブンズ著 正宗聡訳 丸善出版 平成25年9月30日発行</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[西暦]]
* [[元号から西暦への変換表]]
* [[クロノグラム]]
* [[ダリアン暦]](火星の暦法の一つ)
* [[ホビット庄暦]] ([[:en:Shire Calendar|Shire Calendar]])(架空の暦法)
* [[日曜日から始まる平年]] - [[日曜日から始まる閏年]]
* [[月曜日から始まる平年]] - [[月曜日から始まる閏年]]