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| combatant1 = '''枢軸国側'''
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| commander2 = {{Flagicon|USA1912}} [[ハリー・S・トルーマン]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[クレメント・アトリー]]<br/>{{Flagicon|SSR1923USA1912}} [[ヨシフダグラスマッカーサー]]<br/>{{Flagicon|USA1912}} [[チェスターリン・ニミッツ]]<br />{{Flagicon|CHN1928USA1912}} [[蒋介石カール・スパーツ]]<br/>{{Flagicon|UK}} [[ブルース・フレーザー]]
| strength1 = [[日本軍|正規軍]]4,335,500人<ref>{{cite book|last1=Cook|title=Japan at War: an Oral History|date=1992|publisher=New Press|isbn=978-1-56584-039-3|url=https://archive.org/details/japanatwaroralhi00cook_0}} p. 403. Japanese strength is given at 4,335,500 in the Home Islands and 3,527,000 abroad.</ref><br>[[国民義勇隊]]28,000,000人以上<ref>[http://www.shizuoka-heiwa.jp/?p=1433 「本土決戦」計画と静岡における準備状況] Retrieved 2021.8.15</ref><br/>・[[第1総軍]](東日本)<br/>・[[第2総軍]](西日本)<br/>・[[第5方面軍 (日本軍)|第5方面軍]](北海道)<br/>・[[関東軍]] (満州)<br/>・[[海軍総隊]]<br/>・[[航空総軍]]<br/>・[[特設警備隊]]<br/>・[[国民義勇隊]]<br/>・[[満州国軍]]<br/>・航空機17,900機(うち可動機10,700機)<ref name="#1">{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=189}}</ref>
| strength2 = [[アメリカ軍|米軍]]<br />12,938000,346000人以上<ref name="#2">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=297}}</ref><ref name="#3">[https://apps.dtic.mil/sti/pdfs/ADA637723.pdf Staff Study Operations "Coronet" 15 August 1945] Retrieved 2021.8.15</ref><br/>[[イギリス軍|英軍]]<br/>20万200,000人以上<ref name="#4">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=204}}</ref><br/>・[[戦艦]]24隻以上<br/>・[[航空母艦]]60隻以上<br/>・[[駆逐艦]]450隻以上<br/>・補助艦艇3,500隻以上<br/>・[[航空機]]6,000機以上<br/>・[[原子爆弾]]の随時投下<br/>・[[BC兵器|生物化学兵器]]の常時使用
| casualties1 = 中止のため無し
| casualties2 = 中止のため無し
}}
'''ダウンフォール作戦'''(ダウンフォールさくせん、{{lang-en|Operation Downfall}}、没落作戦)は、[[太平洋戦争]]時[[アメリカ軍]]や[[イギリス軍]]、[[赤軍|ソ連軍]]をはじめ主力とする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]による日本本土上陸計画<!-- 「日本の破滅、滅亡」 -->の作戦名である。
 
[[日本]]が作戦実施前に[[日本の降伏|降伏]]したため、この計画は中止された。
 
==概要==
ダウンフォール作戦は、1945年11月実施を前提に計画された「オリンピック作戦」と、1946年春に実施を前提に計画された「コロネット作戦」に分かれており、オリンピック作戦では[[九州]]南部を占領し、コロネット作戦では[[関東平野]]の占領を目的としていた。仮にこの作戦が実行されていたなら、1944年6月に行われた[[ノルマンディー上陸作戦]]を遥かに超える史上最大の水陸両用作戦となった<ref name="名前なし-pRMe-1">{{Harvnb|トール|2022b|p=378}}</ref><ref>{{Cite book|author=Richard B. Frank|title=Downfall: The End of the Imperial Japanese Empire|date=|year=1999|publisher=New York: Random House|page=340}}</ref>。ダウンフォールは'''「没落、破滅、滅亡」'''、オリンピックは'''「[[近代オリンピック]]」'''、コロネットは'''「[[コロネット]]」([[王冠]]の一種)'''に因んでいる。
 
{{main2|日本側によって予想された戦闘の全体概要については「[[本土決戦]]」(日本側の呼称)を、[[日本軍]]の防衛作戦については[[決号作戦]]を}}
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また、この計画書においては、中国大陸の日本軍が本土防衛の増援とならないように、九州侵攻と同時にソ連が対日参戦するのが望ましいとも述べている{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=58}}。
 
[[第2回ケベック会談]]においてイギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]は日本本土侵攻作戦を承認し{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=58}}、これまでアメリカ軍に任せきりであった太平洋戦線でのイギリス軍の貢献拡大についても協議されたが、ヨーロッパから大量の部隊を太平洋に輸送するだけの船舶はイギリスにはなく、またドイツとの戦争で国力が疲弊していたイギリスははるか遠くの日本本土の自国の部隊に補給物資を供給するのは困難であって、所詮はアメリカ頼りであった。また、イギリス軍同じ英連邦の[[オーストラリア国防軍|オーストラリア軍]]、[[ニュージーランド軍]]、[[インド軍]]の参加も申し出たが、陸軍の総司令官に任じられていた[[ダグラス・マッカーサー]]元帥は「軍内部で同一の言語が必要とされるこの複雑な作戦では、インド人の部隊を使用するという方法の妥当性には疑問がある」「イギリス軍は[[アングロ・サクソン]]人でなければならない」と言ってインド軍の参加を拒否した。結局、英連邦軍の地上部隊の参加はイギリス、カナダ、オーストラリアの各1個師団の計3個師団の支援要員を含む75,000人に限られ、参加時期も関東平野侵攻の後期からとされた<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=199}}</ref>。
 
[[1945年]]2月の[[ヤルタ会談]]直前に、[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]とチャーチルが[[マルタ島]]で協議し、1945年9月にヨーロッパの連合軍部隊の1部を太平洋に移動させると同時に九州侵攻を開始、1945年12月に本州に侵攻するといったタイムテーブルがチャーチルに提示された。そしてヤルタ会談ではルーズベルトがソ連の[[ヨシフ・スターリン]]書記長に、日本本土侵攻作戦の陽動として[[ソ連対日参戦]]を促して、いわゆる「極東密約」(ヤルタの密約)が交わされた{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=58}}。3月29日には、これまでの連合軍内の一連の合意事項や戦況の推移も含める形で統合参謀長会議が「対日攻撃戦力最終計画」を作成し、日本本土侵攻作戦全体を「ダウンフォール作戦」、九州侵攻作戦を「オリンピック作戦」、関東侵攻作戦を「コロネット作戦」と命名した{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=59}}。[[アメリカ陸軍参謀総長]][[ジョージ・マーシャル]]はマッカーサーに「コロネットは日本にとどめを刺す作戦となるが、それはオリンピックの延長として実施される運びになろう」「ヨーロッパの戦争が1945年7月までに終わるという仮定に基づけば、オリンピック作戦の開始時期は12月1日、コロネット作戦の開始時期は1946年3月1日を目標に、計画を作成することとなる」とタイムスケジュールを説明している<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=184}}</ref>。
 
しかし、[[1945年]][[4月12日]]にルーズベルトが[[脳卒中]]で突然死し、[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]が大統領に昇格したが、トルーマンはこれまで世界大戦の戦況や[[ソビエト連邦]]と既に繰り広げていた地球規模の戦略地政学のことを殆ど知らされていなかった<ref name="名前なし-pRMe-1"/>。日本本土侵攻の「ダウンフォール作戦」の計画は進められてはいたが、太平洋戦域も軍事戦略と外交政策の基本的な問題はまた白紙に戻った感があった。そこで、日本本土侵攻は本当に必要なのか?海上封鎖と空襲の強化で日本を降伏に追い込めるのではないか?連合軍は中国沿岸に上陸すべきではないのか?ソ連の参戦は必要なのか?などの再検討がなされた<ref>{{Harvnb|トール|2022b|p=376}}</ref>。アメリカの指導者層はごく一部の知日派を除いて、天皇や日本に対する知識は[[ウィリアム・S・ギルバート]]脚本、[[アーサー・サリヴァン]]作曲による二幕物のコミック・オペラ(英国式[[オペレッタ]])「[[ミカド (オペレッタ)|ミカド]]」で得た程度のもので、[[昭和天皇|天皇裕仁]]が戦争を終わらせるほどの力と影響力を行使できるのかも未知数であった<ref>{{Harvnb|トール|2022b|p=504}}</ref>。
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{{main|飢餓作戦}}
[[チェスター・ニミッツ]]元帥率いるアメリカ海軍は日本本土周辺に対する機雷による海上封鎖作戦を立案し「飢餓作戦」と命名した。海軍はもともと犠牲の大きい本土侵攻には否定的で海上封鎖と爆撃による戦争終結を主張していた。作戦期間中に機雷で沈没した日本商船は約30万総トン、損傷船も約40万総トンに達したのに対し、アメリカ軍の損害はわずか15機喪失(損耗率1%未満)であった。延べ出撃機数は、日本本土空襲を担当した第21爆撃集団のB-29全体の約5.7 % にとどまり、アメリカ戦略爆撃調査団からは空爆より効率的な作戦だったと評価されている。飢餓作戦は日本の最後のシーレーンを麻痺させ、瀬戸内海は[[機帆船]]などの小型船以外は航行不能となった。特に日本の5大港のうち残存していた大阪港と神戸港が封鎖されたことは、[[荷役]]能力を大きく低下させたばかりでなく[[造船]]能力も低下させて損傷船の復旧を遅らせた。潜水艦の[[魚雷]]攻撃と異なり、機雷では大型船は損傷しても沈没は免れることが多かった。だが、修理設備のある港湾も機雷で封鎖されると修理できずに船腹が減少した。機雷の危険を避けるために沖に出て航行すれば、今度は潜水艦の餌食となった<ref>US Strategic Bombing Survey([[米国戦略爆撃調査団]]), [http://www.anesi.com/ussbs01.htm ''SUMMARY REPORT (Pacific War)''], US Government Printing Office, 1946</ref>。朝鮮半島との日本海航路の遮断は[[満州国|満州]]方面からの[[雑穀]]や[[食塩|塩]]の輸送を妨げ、本土の日本[[国民]]を文字通り[[飢餓]]状態に陥らせた。食糧事情の悪化は[[日本国政府|日本政府]]に[[暴動]]の発生を恐れさせるほどであり、飢餓作戦と並行して[[鉄道]]網への攻撃が本格的に行われていれば、日本はもっと早期に[[降伏]]していたとの見方もある。出典とされているUS Strategic Bombing Survey SUMMARY REPORT (Pacific War)には上記のような飢餓作戦に関する詳細な記述なく、検証不能なため検証可能となるまでコメントアウト-->
==== 化学兵器・生物兵器の使用計画 ====
[[ファイル:B-w-scientists.jpg|thumb|250px|アメリカ陸軍生物戦研究所のフォート・デトリックで生物兵器の研究をしている研究者]]
[[第一次世界大戦]]で毒ガス戦を経験したアメリカ軍は戦後も[[化学兵器]]の研究と生産を継続していた。しかし、化学兵器に充てられた予算は少なく、1941年時点では500トンの備蓄しかなかったが、これは第一次世界大戦でアメリカ軍が1日に使用した量にも満たないものであった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=244}}</ref>。太平洋戦争が開戦すると、化学兵器の予算は30倍に増やされ、[[アバディーン性能試験場|エッジウッド陸軍兵器工廠]]を中心として大量の毒ガスが生産された。生産された毒ガスはアメリカ軍が第一次世界大戦で使用した[[マスタードガス]]・[[ホスゲン]]が中心となったが、それを充填する化学弾薬も驚異的な速度で生産されて、1945年までには550万発の毒ガス砲弾、100万発の毒ガス爆弾、10万以上の航空機による毒ガス散布タンクが生産されていた<ref name="#5">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=247}}</ref>。また[[生物兵器]]の生産と研究も行われた。アメリカ軍がエッジウッド陸軍兵器工廠に生物兵器研究部隊「医療研究師団」を立ち上げたのは1941年8月であったが、これはドイツ軍と日本軍が生物兵器の研究を進めているという情報からその対抗策として設立されたものであった。生物兵器を製造するため、[[テレホート (インディアナ州)|インディアナ州・テレホート]]にヴィゴ軍需工場が建設された。ヴィゴでは主に[[炭疽菌]]が製造されたが、月産100トンもの細菌が培養されて100万発の炭疽菌爆弾が生産される計画であった<ref name="#5"/>。
 
日本軍に対する化学兵器の使用が本格的に検討されるようになったのは、1943年11月の[[タラワの戦い]]でアメリカ軍海兵隊が多大な損害を被ってからであった。陸軍化学戦担当の責任者ウィリアム・ポーター少将は「毒ガスを適正に使用すれば、太平洋戦争を早期に終結させ、多くのアメリカ人の損失を防げるであろう」と積極的な化学兵器の使用を提案している。[[アメリカ陸軍参謀総長]][[ジョージ・マーシャル]]も「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=242}}</ref>。やがて、[[日本本土空襲]]が開始されると、アメリカ軍は、[[東京市]]に効果的に[[化学兵器|毒ガス]]を散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を初めとして散布するガスの検討を行い、[[マスタードガス]]・[[ホスゲン]]などが候補に挙がっていた<ref>[http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article6579417.ece Britain considered chemical attack on Tokyo in 1944] Times June 26, 2009</ref>。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年に{{仮リンク|メリーランド州ベルツビル|en|Beltsville, Maryland}}にある[[アメリカ合衆国農務省]]研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる[[生物兵器]]となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である[[米]]や[[サツマイモ]]などは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、[[2,4-ジクロロフェノキシ酢酸]]を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた<ref name="#6">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=251}}</ref>。
 
それでも、[[日中戦争]]で[[BC兵器|生物化学兵器]]を使用した日本軍がアメリカ軍相手には生物化学兵器を使用しなかったので、アメリカ軍も使用することはなかった。[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に強い影響力を有した[[ウィリアム・リーヒ]]合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 (<span lang="en">Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy, the President of the United States</span>) が「化学兵器や生物兵器の使用は[[キリスト教]]の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律に背いていることになり、また我々が使用すれば敵も使用する」と主張しており、ルーズベルトも「日本軍がこの種の非人道的な戦争(中国軍に化学兵器を使用したこと)を続けるなら、アメリカ軍は毒ガスで報復するだろう」と警告するなど、アメリカ軍の使用方針はあくまでも日本軍が使用した場合の報復的なものに限っていたが<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=257}}</ref>、[[硫黄島の戦い]]や[[沖縄戦]]でアメリカ軍が甚大な損害を被ると、きたるダウンフォール作戦に向けてアメリカ軍の損害を減らすためとして、積極的な生物化学兵器の使用の主張が強まった。沖縄戦でアメリカ陸軍[[第10軍 (アメリカ軍)|第10軍]]を指揮した[[ジョセフ・スティルウェル]]中将も、「毒ガスの使用が考慮に入れられるべきです。攻撃を軍事目標に限定すれば、民間人への使用という不名誉は回避できます」と主張していた<ref name="#7">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=252}}</ref>。アメリカ統合参謀本部が、生物化学兵器の使用を世論に認めさせるため、[[報道機関|マスコミ]]と協力して世論づくりをしていたことを記録した極秘資料が情報公開により明らかになっている<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20111211_74662.html?DETAIL 第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備]SAPIO2011年12月28日号</ref>。当局の世論工作もあって、[[シカゴ・トリビューン]]は「彼ら(日本軍)をガスで片付けろ」という社説を紙上に掲載したが、「毒ガスを非人道的とする非難は誤りでもあるし、的外れでもある」「ガスの使用は数多くのアメリカ国民の命を救うと同時に、日本人の命もある程度は救う可能性がある」などと、アメリカ国民に生物化学兵器使用の罪悪感を軽減させるような主張をしていた<ref name="#7"/>。
 
アメリカ軍はオリンピック作戦準備として、オーストラリアとハワイに生物化学兵器を貯蔵する大きな倉庫を大量に建設し、太平洋上の島々にも小規模な貯蔵施設が設置した。やがて[[ルソン島]]と沖縄を攻略したアメリカ軍は、生物化学兵器7,500トンをルソン島に、16,000トンを沖縄に貯蔵する計画を立てた。そしてオリンピック作戦が開始されると、8,500トンの生物化学兵器を積載した輸送艦を[[マニラ湾]]に待機させて、いつでも前線に送り込めるようにする予定であった<ref name="#6"/>。
 
==== オリンピック作戦 ====
[[ファイル:Operation Olympic (Japanese).jpg|thumb|250px|オリンピック作戦]]
オリンピック作戦は九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦である[[#コロネット作戦|コロネット作戦]]のための飛行場を含む拠点確保であった{{sfn|ウォーナー|1982b|p=237}}。作戦予定日は「[[Xデー]]」と呼称され、[[1945年]][[11月1日]]が予定されていた。なお上陸作戦前に重視されたのが航空戦力日程は日本撃滅であった。そのため、アメリカ参謀本部米英課は沖縄戦堀栄三少佐に完全に読まれて戦局の見通しがついたことが明らかとなり、後1945年6月は、作戦密漏洩疑う騒動となった(沖縄周辺での任務から、南九州、宮古島、[[堀栄三八重山列島]]著作参照)。への空襲や制空戦闘に振り向けており、日本側は軍飛行場に加えて高射砲陣地や各種航空関連施設東北地方へ集結させて徹底的に叩いた<ref>{{Harvnb|林博史|2018|p=69}}</ref>。同時に[[鉄道や道路などの交通インフラの破壊も重視された。アメリカ合衆国|軍は当初、鉄道や道路の破壊は行わず上陸後に利用しようと検討していたが、日本の鉄道や道路の規格はアメリカ]]もこの機関車や大型車両が運航するのには狭すぎたため大規模な改修が不可避と判断さた。そのため、まずは日本軍の移動察知妨害するため徹底的に破壊ており、8月910日占領後かけて爆撃工兵隊実施大量動員た<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180812/k00/00e/040/211000c 米軍:日本軍て、アメリカ規格偽装見破り東北の軍事施設鉄道や道路空襲] - 敷設するといった[[毎日新聞スクラップアンドビルド]]</ref>。まの手法を行うこととしが、これは1944年6月の[[大湊空襲ノルマンディ上陸作戦]]や[[釜石艦砲射撃]]により艦艇や地上と同様施設も破壊している方針であった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=60}}
 
1945年7月の時点で、史上最大規模となる侵攻艦隊は太平洋全域の各港に集結しつつあり、その数は輸送艦、貨物船だけで1,371隻、その輸送能力は兵員539,290人、戦車を含む車輛61,190輌にも上った。しかし、兵員数についてはこれだけ膨大な人員を準備することはできず、当初の計画では陸軍兵士337,000人、海兵隊員87,000人が九州に上陸する予定であったが<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=324}}</ref>、その後の計画の進展によってさらなる増員が図られ、マッカーサーが示した統合参謀本部に報告した兵員数は合計で681,000人に達した。作戦計画では、この半数が最初の15日間に投入され、その後に残ったすべての兵力が投入される計画であった<ref name="名前なし">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=325}}</ref>。
海上部隊は空前の規模であり、アメリカ軍とイギリス軍、オーストラリア軍と[[ニュージーランド軍]]、[[カナダ軍]]、[[南アフリカ軍]]からなる空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した[[沖縄県|沖縄]]を経由して投入される。
 
オリンピック作戦の主目的は、あくまでも次のコロネット作戦のための拠点確保であり{{sfn|ウォーナー|1982b|p=237}}、占領地域は南九州の約3,000平方マイルだけとされた。しかし、山地が多い南九州には大規模な飛行場を構築したり、大軍が侵攻できる土地は少ないと考えられており、アメリカ軍の地理担当官は、九州の詳細な地図や航空偵察写真を参照して、条件に適した場所を4か所見出した<ref name="名前なし"/>。
事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により[[種子島]]、[[屋久島]]、[[甑列島]]などの島嶼を、日本上陸5日前に占領することも検討された。これは、沖縄戦の時と同じく、本土上陸海岸の近傍に良好な泊地を確保することが目的である。この泊地は、輸送艦やダメージを受けた艦の休息場所に使われる。
# 鹿児島市から東シナ海方向へ西に伸びる細長い土地
# 志布志湾から伸び広がる沿岸平野
# 鹿児島湾の東岸付近の町、鹿屋から放射状に広がる平野
# 南東沿岸の港。宮崎から北に向かって走る沿岸の細長い土地
アメリカ軍はこれらの候補地が実際に上陸や大軍の進軍地として使用できるのか調査することとし、軍の工兵隊のみならず、[[地質学者]]や[[古生物学者]]といった専門家まで動員し、その地形や土壌の組成に至るまで詳細に調査した。調査に関与した地質学者によれば、南九州の[[シラス台地]]は、フィリピン[[ルソン島]]の[[バタンガス州]]と酷似しており、道路の敷設状況や側溝の配置、また地面の凹凸状況も一致しており、ルソンの戦いで日本軍が地形を巧みに利用し、アメリカ軍を苦戦させた状況の再来の懸念があった。また、九州は傾斜の急な坂が多く、谷は深く急峻であり車輛の運行が困難と判断された<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=331}}</ref>。
 
緻密な検討の後に、上陸地点は以下の3海岸とされ、アメリカ[[第6軍 (アメリカ軍)|第6軍]]の各軍団が上陸することが決定した<ref name="名前なし-3">{{Harvnb|太佐順|2001|p=178}}</ref>。
また、九州主要戦略目標地域に対して、[[マスタードガス]]を主体とする毒ガス攻撃も検討されていた。
# [[吹上浜]]沿岸(アメリカ軍呼称[[ロードスター]]ビーチ)[[串木野市|串木野]]から[[日置市|神之川]]までが主上陸地点。{{仮リンク|第5海兵上陸軍団 (アメリカ軍)|en|V Amphibious Corps|label=第5海兵上陸軍団 }}98,914人が上陸予定。
# [[志布志湾]]正面(アメリカ軍呼称[[ステーションワゴン]]ビーチ)志布志から[[肝属川]]河口までが主上陸地点。{{仮リンク|第11軍団 (アメリカ軍)|en|XI Corps (United States)|label=第11軍団}}112,684人が上陸予定。上陸予定地点では唯一、機械化された装備を持つ部隊が上陸でき、その後の機動作戦を遂行できる地形と分析されたため、機甲師団などの機械化部隊が割り当てられ、作戦最大戦力が上陸予定であった<ref name="名前なし-2"/>。
# [[宮崎平野|宮崎海岸]](アメリカ軍呼称[[リンカーン・タウンカー|タウンカー]]ビーチ)[[川南町|川南]]から松崎までが主上陸地点。 [[第1軍団 (アメリカ陸軍)|第1軍団]] 93,266人が上陸予定。
アメリカ軍海岸呼称は自動車に因んで名づけられた。うち海浜地区の呼称は上記の通り、自動車の形状由来であり、他には[[リムジン]]海岸と[[タクシー]]キャブ海岸があった。また、海浜地区は海岸ごとに呼称が分けられたが、これは[[アルファベット]]順に自動車メーカーの名前がつけられ、Austin([[オースチン・モーター・カンパニー|オースチン]])、BUICK([[ビュイック]])、Cadillac([[キャデラック]])、Chevrolet([[シボレー]])、Chrysler([[クライスラー]])などと呼称された<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=333}}</ref>。
 
まずは「Xデー」の5日前に、{{仮リンク|第40歩兵師団 (アメリカ軍)|en|40th Infantry Division (United States)|label=第40歩兵師団}}が[[甑島列島]]に上陸する計画であった。これは、沖縄戦で沖縄本島上陸前に[[慶良間列島]]を確保したのと同じであり、主要上陸地点の近くにある島嶼を攻略し、そこに[[レーダーサイト]]と[[水上機]]基地及び損傷艦などが避難する緊急避難用の泊地として利用する計画であった<ref>{{Harvnb|太佐順|2001|p=180}}</ref>。[[種子島]]については、[[大隅海峡]]に[[震洋]]などの特攻艇が出撃してくれば、 {{仮リンク|第158連隊付戦闘部隊 (アメリカ軍)|en|158th Infantry Regiment (United States)|label=第158連隊付戦闘部隊}}が上陸して、日本軍の反撃を断つ計画であったが、種子島の日本軍が夥しい数の連合軍艦隊を突破して反撃してくる可能性は低いと考えられていたため、その際は第158連隊付戦闘部隊は「ステーションワゴンビーチ」上陸部隊の予備戦力となる計画であった<ref>{{Harvnb|太佐順|2001|p=181}}</ref>。
上陸部隊はアメリカ[[第6軍 (アメリカ軍)|第6軍]]であり、隷下の3個軍団がそれぞれ[[宮崎県|宮崎]]、[[大隅半島]]、[[薩摩半島]]に上陸することとなっていた。これは日本軍の3倍以上の兵力になると、アメリカ軍では見積もっていた。大隅半島には日本軍の防御施設があったものの、宮崎や薩摩半島は手薄であったということも判断材料となった。
 
「Xデー」に3か所から上陸する各軍団は、まず海岸橋頭保を確保し、その後は第1軍団が内陸に向かって進軍し[[佐土原]]-[[国富町|本庄]]-[[高岡町 (宮崎県)]]-[[青井岳温泉|青井岳]]を結ぶラインを確保、第11軍団は[[曽於市|檍]]-[[岩川町 (鹿児島県)|岩川町]]-[[高隈山地]]-[[鹿屋]]を結ぶ線を確保、そして両軍は可能な限り早く[[都城市|都城]]での合流を目指していた。第5海兵上陸軍団は[[川内]]と[[鹿児島]]に進軍する計画であった。そして、海上に待機している予備部隊の {{仮リンク|第9軍団 (アメリカ軍)|en|IX Corps (United States)|label=第9軍団}} (司令官 {{仮リンク|チャールズ・W・ライダー|en|Charles W. Ryder}}中将)の3個師団79,155人を、上陸開始後5日目で戦場に投入して日本軍守備隊を追撃させると共に、[[第11空挺師団 (アメリカ軍)|第11空挺師団]]が[[串良町]]、[[笠野原台地]]、[[鹿屋]]の高台一帯に構築してある飛行場付近に空挺降下し、日本軍守備隊を背後から脅かす計画であった<ref>{{Harvnb|太佐順|2001|p=141}}</ref>。これらの目標地点が全て確保されると、西海岸の川内から東海岸の[[都農]]を結ぶ線以南の南九州地区を日本本土から“分断”され、きたる関東侵攻作戦の拠点や他の日本全土を破壊し尽くす航空基地として運用する計画であった{{sfn|ウォーナー|1982b|p=241}}。
アメリカ軍の動員される兵力は、25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団であり、[[ヨーロッパ]]戦線の部隊は予定されていない。上陸作戦を支援するため、[[アメリカ海軍]]は[[チェスター・ニミッツ]]提督に[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]と[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]を与えたが、これは[[太平洋]]で利用できるすべての艦隊に等しかった(それまで第3艦隊と第5艦隊が同一の作戦に参加することはなかった)。
 
そして、この上陸部隊を支援する艦隊及び航空部隊も史上空前規模であった。[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]](司令官[[ウィリアム・ハルゼー・ジュニア]]大将)と[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]](司令官[[レイモンド・スプルーアンス]]大将)は、これまで同じ艦隊であり、司令官と司令部の人員が交代するときに、日本軍に対する欺瞞も兼ねて形式的に艦隊名を変更してきたが、オリンピック作戦においては、実際に別々の艦隊として編成されることとなった。両艦隊合計での主要艦船だけでも、[[正規空母]]14隻、[[軽空母]]6隻、[[護衛空母]]36隻、[[戦艦]]20隻、巡洋艦45隻、駆逐艦462隻以上、それに{{仮リンク|イギリス海軍太平洋艦隊|en|British Pacific Fleet|label=イギリス海軍太平洋艦隊}}(司令官[[ブルース・フレーザー]]大将)の正規空母6隻、軽空母4隻、{{仮リンク|航空機補修空母|en|British Pacific Fleet|label=航空機補修空母}}2隻、護衛空母9隻、戦艦4隻、巡洋艦10隻、駆逐艦35隻が加わった。輸送艦でも[[戦車揚陸艦]]だけで555隻、合計は約2,900隻にもなったが<ref name="名前なし-3"/>、これは、狭い[[ドーバー海峡]]を渡るためだけにかき集められた、錆びだらけの旧式の貨客船や、ずんぐりした[[曳舟]]、平底の[[上陸用舟艇]]なども含めて約4,000隻の陣容であった[[ノルマンディー上陸作戦]]<ref>{{Harvnb|ライアン|1967|p=89}}</ref>を上回る、史上最大の艦隊となる予定であった。
第3艦隊([[ウイリアム・ハルゼー]]提督)は、17隻の空母と8隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した。[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]([[レイモンド・スプルーアンス]]提督)は、10隻の空母、16隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行う予定であった。
[[ファイル:FH-1 Phantom taking off from CVB-42 1946.jpg|thumb|300px|「[[ミッドウェイ級航空母艦]]」2番艦「[[フランクリン・D・ルーズベルト (空母)|フランクリン・D・ルーズベルト]]」を発艦する「[[FH (航空機)|FH-1 ファントム]]」]]
装備される兵器も最新型が準備された。連合国側の軍事技術は大戦期間中に加速度的に進化してきたが、ダウンフォール作戦にその進化した兵器が大量投入される予定であった。それも単純な進化型ではなく、頑強に抵抗してきた日本軍に対抗するため独自進化した“対日特殊進化兵器”が多数準備された{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=108}}。艦載機は従来のレシプロ機の完成形となる「[[F8F (航空機)|F8Fベアキャット]]」の他に、一度射出されたらまともな迎撃が困難で「これまでに遭遇したもっとも手に負えない攻撃目標」とアメリカ海軍が評していた[[特攻兵器]]「[[桜花 (航空機)|桜花]]」に対抗するため、開発や配備が急がれた「[[FH (航空機)|FH-1 ファントム]]」や「[[ロッキード]][[F-80 (戦闘機)|P-80シューティングスター]]」の[[ジェット]]戦闘機{{sfn|ウォーナー|1982b|p=102}}。これまでの日本軍との戦いの戦訓から、艦上機の爆撃機と攻撃機を一本化し、より打撃力を高めた「[[A-1 (航空機)|A-1 スカイレイダー]]」などの航空機の他、それらの航空機を運用できる大きなサイズと、また前級の「[[エセックス級航空母艦]]」の[[飛行甲板]]が木材と薄い鋼板であったため[[特攻機]]によって度々甚大な損害を被っていたことから、飛行甲板を89mmの装甲板として防御力を高めた「[[ミッドウェイ級航空母艦]]」も投入される予定であった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=108}}。
 
地上兵器も、河川三角地や田畑といった軟弱地盤の多い日本本土で、重砲を容易に移動するための「[[M40 155mm自走加農砲]]ビッグショット」などの自走砲、沖縄戦で「[[M4中戦車|M4シャーマン]]」を多数撃破した日本軍の対戦車肉薄攻撃に、その重装甲で対抗可能な「[[M26パーシング]]」{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=108}}、また、沖縄戦にも投入され活躍した、日本の山岳地帯でも人力で容易に運搬可能な重量で、なおかつ砲撃の反動が少ない[[M18 57mm無反動砲]]、[[M20 75mm無反動砲]]、などの[[無反動砲]]{{Sfn|米国陸軍省|1997|p=48}}、他にも[[グライフ作戦]]で活躍した[[オットー・スコルツェニー]][[親衛隊中佐]]率いる[[特殊部隊]]{{仮リンク|第150SS装甲旅団|en|SS Panzer Brigade 150|}}を壊滅させ、スコルツェニーにも重傷を負わせた[[近接信管]]付きの重砲弾<ref>{{Harvnb|ホワイティング|1972|p=143}}</ref>、他にも[[エレクトロニクス]]技術を結集した[[暗視装置|暗視スコープ]]付きの[[狙撃銃]]や対砲兵の音波探知機なども投入される予定であった{{Sfn|米国陸軍省|1997|p=48}}。
イギリス連邦軍は、オーストラリア軍やニュージーランド軍 カナダ軍 南アフリカ軍のみならず、[[イギリス領インド帝国]]や[[ビルマ]]に展開する[[インド|インド人]]兵士まで動員することを計画しており、同じく地上兵力だけで万単位の兵力が動員される見込みであった。またイギリス海軍も[[オーストラリア海軍]]と[[ニュージーランド海軍]]、[[カナダ海軍]]、[[南アフリカ海軍]]を含めて、[[インド洋]]から南太平洋、極東方面に展開していた巡洋艦や空母からなる艦隊を派遣することとなった。
 
新兵器の投入に加えて、硫黄島の戦いや沖縄戦でアメリカ軍を徹底的に苦しめた日本軍の地下[[要塞]]と洞窟陣地対策も強化された。工兵隊に破壊専門班が編成され、破壊技術が研究されたが、洞窟陣地の攻略法として、まずは[[燐]]の手榴弾を投げ込んで日本兵の視力を奪ったのち、遅延式の[[雷管]]がついたカバン型の爆発物を投げ込むこととしたが、雷管は本物に加えて[[ダミー]]の雷管もつけた。これは洞窟内の日本兵が雷管を引き抜こうとした際に、どちらが本物が迷っている間に爆発するように考えられたものであった。また、地下要塞対策としては、地上から地中にある日本軍地下陣地まで達する[[パイプ]]を埋め込み、そのパイプから地下要塞内にガソリンを注ぎ込み、また日本軍が空けている換気用導管を見つけ出して、そこには航空機用爆弾を押し込んで塞いでしまい、タイミングを見てパイプから洞窟内のガソリンに向けて種火を投げ込み、洞窟内に火災が起こって日本兵が混乱しているときに航空機用爆弾を爆発させて一網打尽にする計画であった。アメリカ兵はこの地下要塞、洞窟陣地対策の訓練を徹底して行った<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=332}}</ref>。
ドイツが1945年5月に降伏したこともあり、1945年の中期までにアメリカ軍、イギリス軍、[[フランス軍]]、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍、南アフリカ軍を中心とした連合軍は1,200機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は22隻の空母、[[イギリス海軍]]は10隻の空母を用意する予定であり、計1,914機の戦闘機が運用可能で、上陸用舟艇や輸送船を含めた艦船の数は3,000隻に達した。
 
これらの新兵器や新戦術に加えて、予想される頑強な日本軍の抵抗への対抗措置とアメリカ軍兵士の人命重視のために、[[化学兵器]][[生物兵器]]の使用に加えて、[[マンハッタン計画]]で開発中の[[原子爆弾]]の使用が前向きに検討されていた。(詳細は[[#化学兵器・生物兵器の使用計画]]と[[#原子爆弾の使用計画]]参照)
航空基地の確保が目的のため、南部九州のみの占領で作戦は終了し、北部九州や[[朝鮮半島]]、[[四国]]への侵攻は行わないことになっていた。この基地は、翌年3月のコロネット作戦のための前進基地であり、72万人の兵員と3,000機が収納できる巨大基地となるはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができた。
またアメリカ軍は原爆による戦術支援を検討しており、九州南部への上陸前に1発、援軍に来る日本軍にもう1発、さらに山を越えて来る日本軍に3発目を投下する計画だった。
 
作戦の展開については、相応の損害は覚悟していたものの、比較的楽観視されていた。その楽観的な見通しはマッカーサーとその幕僚らによる日本軍戦力の分析に基づくものであったが、アメリカは日本側の暗号を解読しており、[[パープル暗号|マジック]]やウルトラと称された日本軍の極秘情報によれば、九州には続々と日本軍の増援が送られていた。しかし、自分の経験や勘を重視するマッカーサーは、マジックやウルトラを嫌悪しておりその情報をなかなか受け入れようとはしなかった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=316}}</ref>。しかし、1945年7月になると、九州の日本軍の戦力増強は疑いのない事実となっており、マッカーサーも認めざるを得なくなり、楽観的な見通しが大きく見直されることとなった(詳細は[[#アメリカ陸軍]]参照)。アメリカ軍はこれまでの上陸作戦で、従来から戦略の定法とされている「攻撃3:防御1」以上の戦力差を堅持してきたが、ここで初めて「攻撃5:防御8」と単純な兵力数では劣勢な作戦となってしまった。アメリカ軍は[[サイパンの戦い]]の上陸時に、全上陸兵員の10%にあたる2,000人が死傷するという甚大な損失を被ったが<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Marianas/USA-P-Marianas-17.html"United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas"]</ref>、これは、ノルマンディ上陸作戦最大の激戦地となった[[オマハ・ビーチ]]『ブラッディオマハ』の死傷率を上回っていた<ref name="#29">{{Harvnb|ビーヴァー|2011a|p=207}}</ref>。しかし、オリンピック作戦においては吹上浜に上陸する第5海兵上陸軍団と、宮崎海岸に上陸する第1軍団は、サイパン上陸時にアメリカ軍が戦った時より3倍以上も優勢な日本軍守備隊と相まみえることとなった{{sfn|ウォーナー|1982b|p=258}}。
 
日本軍とアメリカ軍の火力差は大きく、単純にこの兵力比が作戦の勝敗に直結するものではないが、アメリカ軍が九州の日本軍を撃破するために十分に戦闘力を集中できたのかは議論が分かれているところである。表面上は大量の兵員を揃えているように見えるが、師団の兵力を個別に検証すると、オリンピック作戦に割り当てられたアメリカ軍11個師団のうち8個師団は、フィリピン作戦に、1個師団は沖縄戦に従軍しておりいずれも大きな人的損害を被っていた。無事であった兵士も多くが激戦により心身ともに疲労しており、特に1/3の兵員は3年間も海外に派遣されたままにもかかわらず、休息もろくにとっていないため疲労困憊の状態にあった。また、兵員の死傷によって生じた欠員の補充も遅々として進んでおらず、師団の戦闘力は想定をかなり下回っていた{{sfn|ウォーナー|1982b|p=256}}。
 
それに対して日本軍は、これまでの島嶼攻略戦において本土に戦場が近づき補給線が短くなるたびに戦闘力が強化されてきた{{sfn|一ノ瀬俊也|2014|p=240}}。そして、九州の日本軍守備隊は、これまでの島嶼防衛隊とは比較にならない装備を有し、さらに本土防衛のため狂信的な勇気を吹き込まれていたため、どれだけの頑強さを示すのかは全く予想がつかなかった{{sfn|ウォーナー|1982b|p=254}}。戦後になって[[オーストラリア国防軍士官学校]]教官のR・L・バーナード准将とジム・アンダーウッド中佐は、オリンピック作戦での日本とアメリカの戦力を詳細に調査したのち、オリンピック作戦の見通しについて以下の様に評している{{sfn|ウォーナー|1982b|p=262}}。
{{Quotation|[[第6軍 (アメリカ軍)|第6軍]]が相当の増援兵力なしに、その任務を完遂するのに足る戦闘力を発揮することができたかどうか疑わしい。<br />オリンピック作戦でのこの増援兵力や人的、物的資源の追加消耗はコロネット作戦に損害を与えたことだろう。<br />第6軍はおそらく足場を獲得維持しただろうが、その後の戦闘で兵士と資材とを途方もなく消耗して、戦争終結を何か月も遅らせることになっていただろう。<br />日本軍が、まだそんなに立派な状態にあったとは、自分は本当に認識していなかった。}}
==== 欺瞞作戦 ====
オリンピック作戦を支援するため、兵力誘導する目的で「[[パステル作戦]] (Pastel)」が計画されていた。パステル作戦は、連合国軍の作戦目標が日本が占領下に置いていた中華民国上海や[[高知県]]に上陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
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また、直前の陽動作戦として、10月23日~30日に、アメリカ軍[[第9軍団 (アメリカ軍)|第9軍団]](8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行うことや、[[グレートブリテン島|イギリス本土]]の爆撃機軍団やイギリス領インド帝国から引き抜かれた対日戦用に航続距離を伸ばした[[アブロ・ランカスター]]が連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として沖縄から出撃する予定であった。
 
一方[[国民革命軍|中国軍]]も10月の後半に中国大陸での全面攻勢を計画していた
 
==== コロネット作戦 ====
[[File:Operation Coronet Kantō.jpg|right|300px|thumb|コロネット作戦のアメリカ軍侵攻予定図と日本軍の配置図]]
同作戦は後に最終調整が行われず複数の作戦計画が存在していた。
各案に共通するのはオリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する点であり、上陸予定日はYデーと呼ばれ、1946年3月1日が予定されていた。コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、対日作戦で最大の上陸作戦となる予定であった。上陸地点は[[相模湾]]の[[湘南海岸]]([[相模川]]沿いを中心に北進し、現[[相模原市]]・[[町田市]]域辺りより進路を[[東京都区部]]へ進行する計画予定)と[[九十九里浜]]から[[鹿島灘]]沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。相模湾には[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]、九十九里浜には[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]]が割り当てられていた。この内主力は相模湾に上陸する第8軍でYデイ初日に投入される兵力は後方支援要員も含めて301,104人と、九十九里浜に上陸する第1軍の241,326人を上回っていた{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=63}}。
 
アメリカ軍が主力を相模湾に置いたのは東京までの距離が近いというほか、九十九里浜は海岸線が長く一見は上陸に適しているように見えるが、太平洋の外洋に面しているのに荒波を緩衝するような地形が殆どなく、普段でも波が高いため上陸には困難が伴うという判断がされたためであった。これは、先の[[硫黄島の戦い]]の際にの二ツ根浜上陸の経験から、環礁などで外洋の荒波が緩和されない海岸線の上陸は非常に困難を伴うという実体験に基づくものであった。また上陸に成功しても、東京に至るまでには[[江戸川]]と[[荒川 (関東)|荒川]]を渡河しなければならず、特に先にあたる江戸川においては空襲である程度焼失したとはいえ東京外縁の住宅地が広がっており、上陸軍は渡河しながらの市街戦を戦わねばならず、困難な事態に直面する可能性が大きいというのも、相模湾を主戦場にするという判断に繋がった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=63}}。また相模湾近辺には[[厚木基地]]などの重要な軍事拠点が多数存在していることと、また交通の要衝で、日本西部からの増援の経路になる可能性が高く、日本軍の防備が最も堅固であるはずという分析もあって相模湾が重視されることとなった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=64}}。
 
マッカーサーは「上陸部隊の直接指揮に当たり、本土での集団作戦を指導する」と明言しており、上陸作戦では最高司令官自ら部隊を直卒するつもりであった。マッカーサーに率いられる戦力は、アメリカ軍の後方支援部隊を含まない戦闘人員のみで575,000人にもなり、これはかつて行われたどんな作戦をもしのぐ兵力であった。上陸に先立っては、これも前代未聞となる180日にも及ぶ艦砲射撃と空爆が海岸の防御陣地に叩き込まれ、森林に潜む陣地は枯葉剤を散布して丸裸にしたのちに砲爆撃を加える予定であった。艦砲射撃を加える艦船は、史上最大であったオリンピック作戦の艦艇数を更に上回る規模で、空爆はこれまで日本本土爆撃を行ってきた{{仮リンク|太平洋戦略空軍|en|United States Strategic Air Forces in the Pacific|label=太平洋戦略空軍}}(司令官[[カール・スパーツ]]大将・[[カーチス・ルメイ]]中将)指揮下の[[第20空軍]](司令官[[ネーサン・ファラガット・トワイニング]]少将)「B-29」 1,000機以上に加えて、ドイツ本土を瓦礫の山にした[[第8空軍 (アメリカ軍)|第8空軍]](司令官[[ジミー・ドーリットル]]少将)も「[[B-17 (航空機)|B-17 フライングフォートレス]]」を「B-29」に機種転換して加わり、さらに{{仮リンク|極東空軍|en|Far East Air Force (United States)|label=極東空軍}}(司令官{{仮リンク|ジョージ・ケニー|en|George Kenney}}中将)の「[[B-24 (航空機)|B-24 リベレーター]]」と新型機「[[B-32 (航空機)|B-32 ドミネーター]]」も加わる予定であった。他にもアメリカ海軍とイギリス海軍の艦載機に海兵隊の航空隊も加わり<ref name="名前なし-4">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=348}}</ref>、その総数は6,000機以上で{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=65}}、投下される爆弾は、1945年9月~12月までが10万トン、1946年1月~2月が17万トン、そして上陸予定の3月には22万トンと1年も経過しない間に、第二次世界大戦中に連合軍がドイツ本土に投下した爆弾の総量を上回る量の爆弾の投下が予定されており、もはや上陸前に、軍事的価値があるターゲットは全て叩き終わっているものと思われた<ref name="名前なし-4"/>。
しかし、アメリカ軍はたとえ東京を占領したとしても、ドイツ軍が[[ベルリンの戦い]]で崩壊したようにはいかないと考えており、戦争の終着点を見いだせていなかった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=356}}</ref>。また、アメリカ軍内の事情も戦争の見通しを暗くさせており、アメリカ軍は「ポイント制度」という制度によって、一定期間戦場にいて戦功を積み重ねれば帰国して軍を除隊できるという制度があったが、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線に従軍している兵士の多くがその「ポイント」が規定に達しており、帰国して除隊できる権利を取得していた。しかし、アメリカ軍はその戦場に滞在しなければいけない期間を後出しで少しづつ延長し容易に帰国を許していなかったが、それも限界に達しており順次除隊を容認せざるを得なくなっていた。ある師団においては、コロネット作戦が開始される頃には25,000人の兵員のうちで40%以上の11,600人の将兵が除隊する予定であったが、除隊する将兵の殆どが実戦経験が深い熟練兵や下士官であって、その補充は訓練が十分でない新兵で行われる予定であった。従って関東では実戦経験のない大量の新兵が戦うという事態が予想されており、不慣れな戦闘で多大な損害が見込まれていた<ref name="#8">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=360}}</ref>。
[[File:T92 (semovente).jpg|right|300px|thumb|アメリカ軍の新兵器「[[M1 240mm榴弾砲]]」]]
オリンピック作戦では地形的制約によって戦車の十分な運用ができなかったが、[[関東平野]]では大規模な運用が可能と判断された。そのため、これまで太平洋戦域では最大規模の機甲部隊が投入される計画であった。海岸沿いには要塞群が強固に構築されていることが予想されたため、それを砲撃で打ち砕くために大量の自走砲の投入も計画された。自走砲の中にはアメリカ軍が保有する最大規模の巨砲「[[M1 240mm榴弾砲]]」を「M26パーシング」の車体に搭載した「[[T92 240mm自走榴弾砲]]」もあった。この巨砲は、厚さ1.5 mの強化コンクリートを貫通する絶大な威力を持ち、「T92 240mm自走榴弾砲」はその巨弾を2分に1発砲撃できた。アメリカ軍はコロネット作戦のため、この自走砲を210輌も発注し、既にアメリカ国内ではこの自走砲を運用する第784機甲野砲大隊が編成されて、[[イタリア戦線]]やノルマンディーでの戦闘を経験した熟練の戦車兵が配属されて訓練を積んでいた<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=347}}</ref>。一方で日本軍も、[[戦車第1師団 (日本軍)|戦車第1師団]]、[[戦車第4師団 (日本軍)|戦車第4師団]]の2個戦車師団が、反撃戦力として関東平野に配置されており、太平洋戦争ではかつてなかった大戦車戦が行われる可能性もあった{{sfn|土門周平|2015|p=69}}。
 
マッカーサーはこの太平洋戦争の締めくくりとも言える戦いを、なるべくアメリカ軍単独で行いたいと考えており、上陸日の『Yデー』に相模湾と九十九里浜に上陸するのはアメリカ人のみとしていた。他の連合軍となる英連邦第10軍 (司令官{{仮リンク|サー・チャールズ・F・ナイトリー|en|Charles Keightley}}中将)の{{仮リンク|イギリス第3歩兵師団|en|3rd Infantry Division (United Kingdom)|label=}}、{{仮リンク|カナダ第6歩兵師団|en|6th Canadian Infantry Division|label=}}、{{仮リンク|オーストラリア第10歩兵師団|en|10th Division (Australia)|label=}}については、「日本本土の心臓部がアメリカ軍の手に墜ちたあとでも、日本がまだ抵抗を続ける場合には投入されるだろう」と考えていた<ref name="名前なし-5">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=354}}</ref>。
そのため、Yデーの3ヶ月前からイギリス軍とアメリカ軍による艦砲射撃と1,900機の航空機による空襲によって大規模な破壊を行なう計画であった。攻撃の中にはミサイルや、対独戦に投入されて間もない最新鋭のジェット戦闘機である「[[グロスター ミーティア]]」や、この頃には実戦配備が進んでいると予想された「[[ロッキード]][[F-80 (戦闘機)|P-80シューティングスター]]」なども含まれていた<ref>『相模湾上陸作戦 - 第二次大戦終結への道』大西比呂志・栗田尚弥・小風秀雄(有隣新書 ISBN 978-4896601329)</ref>。
 
また従来のレシプロ機の完成形となる「[[F8F (航空機)|F8Fベアキャット]]」や陸上でも太平洋戦線初の重戦車「[[M26パーシング]]」なども投入される計画であったが、これら通常兵器に加えて、新兵中心のアメリカ軍の死傷者を少しでも減少させる手段として、オリンピック作戦より大規模な化学兵器の使用も計画されていた。除隊する熟練兵に代わって関東に上陸する予定の新兵には「日本の洞窟要塞を掃討する」ための「毒ガスの攻撃的使用」の訓練が行われた。さらに日本本土に飛来する爆撃機の爆弾の75%を毒ガス爆弾にするという計画もあった。このアメリカ軍の方針について、前大統領のルーズベルトは「毒ガス使用は報復の場合に限る」と明言していたが、トルーマンはそれを否定し「毒ガスの攻撃的使用」を黙認していた<ref name="#8"/>。さらに陸軍参謀総長[[ジョージ・マーシャル]]元帥は[[マンハッタン計画]]によって完成間近であった[[原子爆弾]]を戦術使用するつもりであり「不十分な装備しかしていない兵力でも、上陸部隊に恐るべき損失を引き起こせる。日本人は依然として狂暴であり、我が方には、彼らを一人残らず抹殺する必要があった。そこで、我々は考えた。原爆は防御としても上陸準備を整えるにしても最適な兵器ではないか」と述べている<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=362}}</ref>。
マッカーサーに率いられた上陸部隊は、[[東京湾]]を真ん中に挟んで、東の九十九里浜と西の相模湾から「日本本土の心臓部」である東京を目指して進撃、相模湾から上陸した部隊の一部がそのまま北上し、[[熊谷市|熊谷]]から[[古河市|古河]]まで伸びる線まで前進して、日本軍の増援を食い止めている間に<ref name="名前なし-5"/>、東西から「日本本土の心臓部」東京をあたかも[[万力]]のように左右から挟み潰してしまおうという計画であった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=62}}。しかし、日本側も水際撃滅が失敗した場合は、東京の防衛を強化するはずであり、上陸前の砲爆撃で灰燼に帰しているはずの[[東京|帝都]]を死守するため、日本軍兵士は瓦礫の中でも死に物狂いで戦い、くすぶり続ける瓦礫の山の中で両軍の夥しい血が流されることは確実視されていた。また、一般市民も槍や包丁を手に取って、見つけられる限りのアメリカ兵を殺害するように求められており、ヨーロッパ戦線における最後の戦いとなった[[ベルリンの戦い]]より凄惨な戦闘になることも懸念された<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=357}}</ref>。
 
しかし、アメリカ軍はたとえ「日本本土の心臓部」の東京を占領したとしても、ドイツ軍がベルリンの戦いで崩壊したようにはいかないと考えており、戦争の終着点を見いだせていなかった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=356}}</ref>。また、アメリカ軍内の事情も戦争の見通しを暗くさせており、アメリカ軍は「ポイント制度」という制度によって、一定期間戦場にいて戦功を積み重ねれば帰国して軍を除隊できるという制度があったが、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線に従軍している兵士の多くがその「ポイント」が規定に達しており、帰国して除隊できる権利を取得していた。しかし、アメリカ軍はその戦場に滞在しなければいけない期間を後出しで少しづつ延長し容易に帰国を許していなかったが、それも限界に達しており順次除隊を容認せざるを得なくなっていた。ある師団においては、コロネット作戦が開始される頃には25,000人の兵員のうちで40%以上の11,600人の将兵が除隊する予定であったが、除隊する将兵の殆どが実戦経験が深い熟練兵や下士官であって、その補充は訓練が十分でない新兵で行われる予定であった。従って関東では実戦経験のない大量の新兵が戦うという事態が予想されており、不慣れな戦闘で多大な損害が見込まれていた。そして、新兵中心のアメリカ軍の死傷者を少しでも減少させる手段として、オリンピック作戦より大規模な[[大量破壊兵器]]の使用も計画されていた<ref name="#8">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=360}}</ref>。
 
==== 化学兵器・生物兵器の使用計画 ====
[[ファイル:B-w-scientists.jpg|thumb|250px|アメリカ陸軍生物戦研究所のキャンプ・デトリックで生物兵器の研究をしている研究者]]
[[第一次世界大戦]]で毒ガス戦を経験したアメリカ軍は戦後も[[化学兵器]]の研究と生産を継続していた。しかし、化学兵器に充てられた予算は少なく、1941年時点では500トンの備蓄しかなかったが、これは第一次世界大戦でアメリカ軍が1日に使用した量にも満たないものであった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=244}}</ref>。太平洋戦争が開戦すると、アメリカ陸軍はドイツ軍と日本軍が[[BC兵器|生物化学兵器]]の研究を進めているという情報からその対抗策として、研究を強化しており、1942年9月には「生物戦研究部」(指揮官:ウィリアム・N・ポーター少将)を立ち上げている{{sfn|ウォーナー|1982b|p=214}}。化学兵器の予算は30倍に増やされ、[[アバディーン性能試験場|エッジウッド陸軍兵器工廠]]を中心として大量の毒ガスが生産された。実験施設も各地に設営され、あらゆる種類の毒ガスが研究されたが、対日戦使用のために、より熱帯性の条件が備わった[[フロリダ州]]{{仮リンク|ブッシュネル (フロリダ州)|en|Bushnell, Florida|label=ブッシュネル}}と[[パナマ]]{{仮リンク|サン・ホセ島 (パナマ)|en|Isla San José (Panama)|label=サンホセ島}}に実験施設が設置され、さらに国外にも[[オーストラリア]][[クイーンズランド州]]ブルック島にもアメリカ軍の毒ガス実験施設が設置された<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=245}}</ref>。
 
実験施設には志願により、約65,000人もの軍関係者が集められ、[[ガスマスク]]や[[防護服]]などを着用させて、ガスが充満した部屋内に最長1時間入れるなどの[[人体実験]]が繰り返し行われた。志願者は実験前後に入念な健康診断を受診したが、それでも中毒者は後を絶たず、多数の軍関係者が病院に収容された。日本軍に対する化学兵器の使用が本格的に検討されるようになったのは、1943年11月の[[タラワの戦い]]でアメリカ軍海兵隊が多大な損害を被ってからであった。ポーターは「毒ガスを適正に使用すれば、太平洋戦争を早期に終結させ、多くのアメリカ人の損失を防げるであろう」と積極的な化学兵器の使用を提案している。[[アメリカ陸軍参謀総長]][[ジョージ・マーシャル]]も「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=242}}</ref>。そのため、対日戦使用を見据えて、[[日系アメリカ人|日系二世兵士]]の志願者も募り、毒ガスがアジア人に対して白色人種と異なる効果があるのか?との実験も行われたが、相違は何も認められなかった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=246}}</ref>。
 
毒ガスの実験・研究が進んでいくのと並行して、毒ガス兵器も驚異的なスピードで生産され、1945年までには550万発の毒ガス砲弾、100万発の毒ガス爆弾、10万以上の航空機による毒ガス散布タンクが生産されていた<ref name="#5">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=247}}</ref>。また、従来の毒ガス兵器に加えて新たな兵器も開発されており、中には、ガラス瓶を[[シアン化水素]]で満たし、敵戦車や敵兵の籠る塹壕に投げ入れるといった毒ガス[[手榴弾]]や、容量1ガロンの金属製の缶に[[マスタードガス]]を入れ、[[導火線]]や電子信管を取り付けて、一定の時間が経過したら毒ガスが噴出して周囲一帯を汚染するいったマスタードガス地雷も開発された。毒ガス手榴弾は輸送時の危険性が大きいことや、都合よくガラス容器が割れるかも未知数であったため大量生産されることはなかったが、マスタードガス地雷は製造が容易であったことから、容器だけで200万個が製造され、更にダウンフォール作戦を見据えて、1945年4月迄までには太平洋各地の貯蔵庫にマスタードガスを装填したマスタードガス地雷が43,000発も貯蔵されていた<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=247}}</ref>。
 
やがて、[[日本本土空襲]]が開始されると、アメリカ軍は、[[東京市]]に効果的に化学兵器を散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を初めとして散布するガスの検討を行い、[[マスタードガス]]・[[ホスゲン]]などが候補に挙がっていた<ref>[http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article6579417.ece Britain considered chemical attack on Tokyo in 1944] Times June 26, 2009</ref>。また、[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ナチス・ドイツが降伏]]すると、アメリカ軍は[[ナチス・ドイツ]]が開発を進めていた[[サリン]]などの毒ガスなどの製法を接収し、対日戦で使用する毒ガスの候補に入れていた<ref>{{Cite web |url=https://www.news-postseven.com/archives/20111211_74662.html?DETAIL |title=第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備|publisher=[[NEWSポストセブン]] |date=2011-11-12 |accessdate=2023-3-12}}</ref>。
 
また[[生物兵器]]の研究も行われた。ポーターは学会への協力を求めて、[[ハーバード大学]]や[[ウィスコンシン大学]]の学者と最近研究に関する契約を締結した。1943年に入って「生物戦研究部」は[[フォート・デトリック|キャンプ・デトリック]]の研究施設と、[[ミシシッピ州]]のホーン島と{{sfn|ウォーナー|1982b|p=214}}、[[ダグウェイ実験場]]に隣接した丘陵地グラナイト・ピークに試験場を設置し、大学からの報告書をもとにして研究を開始した。しかし、ホーン島の試験場は本土に向かって風が吹いていることから危険性が高いことが判明し、主要な実験場はダグウェイ実験場となった<ref name="名前なし-6">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=254}}</ref><ref group="注釈">ダグウェイでは第二次世界大戦後も生物化学兵器の研究が続けられ、実験によって周辺の羊が大量死した『[[ダグウェイ羊事件]]』を引き起こしている。</ref>。試験工場では、[[ボツリヌス毒素]]をかなりの規模で製造しており、製造の過程で乾燥した粉末よりは液体に浮かべ微粒子として使用した方が、より効果が高いことが判明した。また[[炭疽菌]]については乾燥粉末か、[[泥漿|スラリー]]として散布する技術も確立した{{sfn|ウォーナー|1982b|p=214}}。当初はこれらの研究はアメリカ陸軍によるものあったが、のちにアメリカ海軍も協力することになり、2つの実験施設と1つに生産工場で約4,000人の軍関係者が従事していたが、うち1/4がアメリカ海軍関係者だった。海軍は[[ペスト菌]]の兵器としての可能性を追求していたが、主に研究された細菌は毒性の高い[[ボツリヌス菌]]と[[炭疽菌]]となった。デトリックでの研究は極秘事項とされ、研究施設周辺の住民にも知らされることはなかったが、施設外での感染事故が多発し、約250件の病原菌感染事故が発生しうち60件が施設からの感染が原因と特定された。幸運にも感染事故による死亡者は出なかったが、万が一のため施設で業務に従事する者は「埋葬に関する同意書」に署名させられた<ref name="名前なし-6"/>。
 
1944年1月には陸軍長官スティムソンから「細菌兵器に関する研究、予備的生産計画の実施」が命じられ、ポーターはこれまでの研究結果を踏まえて、細菌毒素生産工場を[[アラバマ州]]の[[ハンツビル]]に建設するように進言した。この工場の生産能力は月産約280トンとされ、これは炭疽菌爆弾であれば100万発、ボツリヌス菌爆弾であれば22万発に当たる量であった{{sfn|ウォーナー|1982b|pp=215-216}}。この進言は[[アメリカ陸軍需品科]]司令官ブリーホン・ソマベル少将に採り上げられ「日本本土に対する我が軍の進攻が指示されているなかで、この細菌毒素製造により、アメリカは生化学薬剤の補給にかんして、有利な立場に立つことだろう」と承認された。イギリス軍も同様に生物兵器の研究を行っており、アメリカ軍のこの動きを知って両軍の中で活発な情報交換も行われている{{sfn|ウォーナー|1982b|p=218}}。ハンツビルの他にも、[[テレホート (インディアナ州)|インディアナ州・テレホート]]にヴィゴ軍需工場内に生物兵器工場が建設された。ヴィゴでは主に[[炭疽菌]]爆弾が製造される計画で、まずは月50万発の製造が計画されたが、オリンピック作戦計画が進むと、上陸までには100万発の増産が可能になり、その後のコロネット作戦のときにはその2~3倍まで生産能力が高まる予定であった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=256}}</ref>。
 
それでも、[[日中戦争]]で[[BC兵器|生物化学兵器]]を使用した日本軍がアメリカ軍相手には生物化学兵器を使用しなかったので、アメリカ軍も使用することはなかった。しかし、アメリカ陸軍の化学戦責任者のポーターは、日本軍が[[大日本帝国の化学兵器|中国軍に毒ガスを使用]]したため「日本軍は毒ガスの報復的使用権を既にアメリカに渡してしまった」と早急な使用を主張し続け、海軍の [[チェスター・ニミッツ]]元帥や第5艦隊司令スプルーアンスも、[[栗林忠道]]中将率いる[[第109師団 (日本軍)|硫黄島守備隊]]が、[[硫黄島]]に強固な要塞を構築していることを掴むと、毒ガスの使用の許可を求めている{{sfn|ウォーナー|1982b|p=227}}。陸海軍有力者から相次いだ生物化学兵器使用の進言に対しては、[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に強い影響力を有した[[ウィリアム・リーヒ]]合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長 (<span lang="en">Chief of Staff to the Commander in Chief, U.S. Army and Navy, the President of the United States</span>) が「化学兵器や生物兵器の使用は[[キリスト教]]の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律に背いていることになり、また我々が使用すれば敵も使用する」と主張しており、ルーズベルトも「日本軍がこの種の非人道的な戦争(中国軍に化学兵器を使用したこと)を続けるなら、アメリカ軍は毒ガスで報復するだろう」と警告するなど、アメリカ軍の使用方針はあくまでも日本軍が使用した場合の報復的なものに限るとの決定を行った<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=257}}</ref>。
 
その後、[[硫黄島の戦い]]や[[沖縄戦]]でアメリカ軍が甚大な損害を被ると、背に腹は代えられぬとして、アメリカ軍の損害を減らすために、積極的な生物化学兵器の使用の主張が強まった。沖縄戦では、アメリカ陸軍[[第10軍 (アメリカ軍)|第10軍]]を指揮した[[サイモン・B・バックナー・ジュニア]]中将が戦死するほどの苦戦となったが、その後任の[[ジョセフ・スティルウェル]]中将は、「毒ガスの使用が考慮に入れられるべきです。攻撃を軍事目標に限定すれば、民間人への使用という不名誉は回避できます」と主張していた<ref name="#7">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=252}}</ref>。アメリカ統合参謀本部は、生物化学兵器の使用を世論に認めさせるため、[[報道機関|マスコミ]]と協力して世論づくりをしていたことを記録した極秘資料が情報公開により明らかになっている<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20111211_74662.html?DETAIL 第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備]SAPIO2011年12月28日号</ref>。当局の世論工作もあって、[[シカゴ・トリビューン]]は「彼ら(日本軍)をガスで片付けろ」という社説を紙上に掲載したが、「毒ガスを非人道的とする非難は誤りでもあるし、的外れでもある」「ガスの使用は数多くのアメリカ国民の命を救うと同時に、日本人の命もある程度は救う可能性がある」などと、アメリカ国民に生物化学兵器使用の罪悪感を軽減させるような主張をしていた<ref name="#7"/>。
 
アメリカ軍はオリンピック作戦準備として、オーストラリアとハワイに生物化学兵器を貯蔵する大きな倉庫を大量に建設し、太平洋上の島々にも小規模な貯蔵施設が設置した。やがて[[ルソン島]]と沖縄を攻略したアメリカ軍は、生物化学兵器7,500トンをルソン島に、16,000トンを沖縄に貯蔵する計画を立てた。そしてオリンピック作戦が開始されると、8,500トンの生物化学兵器を積載した輸送艦を[[マニラ湾]]に待機させて、いつでも前線に送り込めるようにする予定であった<ref name="#6"/>。
実戦部隊での準備も着々と進んでおり、上記のスティルウェルの毒ガス使用提案に対して、[[アメリカ陸軍航空軍]]司令官アーノルドは「対日戦での毒ガス使用について考慮が払われつつある。化学戦部を有するアメリカ陸軍航空軍は、航空機によるガスに戦略的および戦術的使用の両者について、検討を続けている」と答えており、実際に貯蔵中の毒ガスはいつでも簡単に使用できる状態となっていた。これはアメリカ海軍も同様であり、毒ガスの使用が許可されれば、全爆撃作戦の20%を毒ガス爆弾の投下とし、毒ガス爆弾6万発以上を常に前線に供給できるような体制を整える計画であったが、これは戦闘60日分の備蓄にあたるものであった{{sfn|ウォーナー|1982b|p=228}}。
航空機による散布だけではなく、地上部隊においても「日本の洞窟要塞を掃討する」ための「毒ガスの攻撃的使用」の訓練が進んでいた。このアメリカ軍の方針について、前大統領のルーズベルトは「毒ガス使用は報復の場合に限る」と明言していたが、トルーマンはそれを否定し「毒ガスの攻撃的使用」を黙認していた<ref name="#8"/>。
 
また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年に{{仮リンク|ベルツビル (メリーランド州)|en|Beltsville, Maryland|label=メリーランド州ベルツビル}}にある[[アメリカ合衆国農務省]]研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる[[生物兵器]]となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物である[[米]]や[[サツマイモ]]などは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、[[2,4-ジクロロフェノキシ酢酸]]を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた<ref name="#6">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=251}}</ref>。2,4-ジクロロフェノキシ酢酸は、B-29で編成された第1010爆撃隊によって主に四国と本州南部の水田に散布される計画で、その量は約1,645トンとされた。そしてこの作戦によって、1945年9月までに日本の水稲作付面積の10%の水田を破壊できると試算していたが、この計画は拡大されて、期間を1946年4月まで延長する代わりに水田の30%を破壊すると修正された。終戦直前にこの農作物破壊実験が[[オーストラリア]]で行われることとなり、アメリカから[[農学]]の専門家が派遣された。アメリカのマスコミも毒ガスと同様にアメリカ国民への世論工作に手を貸しており、1945年6月号の[[タイム (雑誌)|タイム誌]]に以下の様な記事が掲載された{{sfn|ウォーナー|1982b|p=229}}。
{{Quotation|日本が行っている総力戦は、さきのナチス・ドイツやいかなる近代的軍事大国のそれよりはるかに総力的である。総力戦では敵を全面的敗北に追い込まなければならない。ということは、あらゆる日本の資源、日本人の男、女、子供で構成される戦力が破壊されなければならないということである}}
 
==== 原子爆弾の使用計画 ====
[[ファイル:Trinity test (LANL).jpg|thumb|250px|[[トリニティ実験]]での原子爆弾の炸裂]]
生物化学兵器に加えて、陸軍参謀総長[[ジョージ・マーシャル]]元帥は、[[マンハッタン計画]]によって完成間近であった[[原子爆弾]]をダウンフォール作戦において戦術使用するつもりであり「不十分な装備しかしていない兵力でも、上陸部隊に恐るべき損失を引き起こせる。日本人は依然として狂暴であり、我が方には、彼らを一人残らず抹殺する必要があった。そこで、我々は考えた。原爆は防御としても上陸準備を整えるにしても最適な兵器ではないか」と述べている<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=362}}</ref>。マンハッタン計画の責任者[[レズリー・グローヴス]]少将の副官であった[[ケネス・ニコルス]]准将によれば、そのまま戦争が続いた場合、「[[ガジェット (爆弾)|ガジェット]]」「[[リトルボーイ]]」「[[ファットマン]]」の3発に加えて、1945年9月までにさらに3発、そしてその後は月産7発の生産が可能となり「マッカーサー将軍の侵攻の兵器リストには数発の原爆も載っていただろう」「実際に上陸が行われていたなら、我々は将兵支援用として、原爆を15発供給していたかも知れない」と述べている<ref name="名前なし-7">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=394}}</ref>。
 
しかし、ダウンフォール作戦計画の策定にあたって、公式には原爆使用に関する言及は全くなかった。これは簡単な話で、[[国家機密]]であったマンハッタン計画を知っている者が作戦計画者に殆どいなかったからである。最高司令官のマッカーサーですら原爆のことを知らされたのは[[トリニティ実験]]成功の10日後であり、他の殆どの作戦関係者も同様であったが<ref>{{Harvnb|ペレット|2014|p=905}}</ref>、海軍のニミッツだけは1945年2月の時点で概要を掴んでいた。これは、日本本土に投下する原子爆弾の燃料となる[[ウラン235]]やその他資材を海軍艦艇によって[[マリアナ諸島]]まで運搬する必要があったため、事前に知らされていたものであったが、国家機密でもありニミッツが作戦関係者に他言することはなかった。この特殊任務は[[重巡洋艦]]「[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]」が行ったが、運搬任務完了後に日本海軍の潜水艦「[[伊号第五十八潜水艦]]」([[回天]]特別攻撃隊・多聞隊、艦長:[[橋本以行]]少佐)に[[魚雷]]で撃沈された<ref>{{Harvnb|太佐順|2001|p=223}}</ref>。
 
従って、生物化学兵器と異なり、原爆使用が作戦当事者によって具体的に検討されたことはなかったが、マンハッタン計画を知っていた関係者や後日知った関係者からは作戦使用について様々な発言が上がっており以下列挙する<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|pp=364-366}}</ref>。
 
マンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴスと[[ロスアラモス国立研究所]]所長[[ロバート・オッペンハイマー]]
{{Quotation|グローヴス「対日侵攻を実施した場合、塹壕に隠れている敵と対決する将兵を助けるために、何か役に立ちそうな兵器は開発できるか?」<br />オッペンハイマー「ファットマンならたぶん戦術使用に改造できる」}}
グローヴス
{{Quotation|「爆心地から800フィート以内で塹壕に入っている兵士は死亡するだろうが、1マイル離れた洞窟にいる兵士はおそらく無傷で這い出てくる」<br />「アメリカ兵は保護眼鏡を必要とし、爆心地から少なくとも6マイルは離れておくべきだ」<br />「戦場の1,800フィート上空で原子爆弾がさく裂すれば、アメリカ兵と戦車は直ちにその地域を抜けて進撃できる。その場合は車輛が望ましいが、必要な場合は徒歩でも構わない」}}
陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル
{{Quotation|「オリンピック作戦では3個軍団をそれぞれ3発ずつの原子爆弾で支援する。まずは上陸前に、それぞれの軍団に割り当てられた沿岸部に1発ずつ落とし、浜辺から内陸に入った地点に集結していいる日本軍を標的に2度目の原爆を落とし、[[北九州市|北九州]]から山脈を通過して近づこうとする敵増援部隊に最後の原爆を投下する」}}
ロスアラモス国立研究所員の科学者(氏名不明)
{{Quotation|「戦場で敵の目を見えなくするために使用できる」<br />「原爆を搭載した航空機に付き添う他の航空機が、強力な光やサイレンで敵の注意を引き付けて、敵の将兵の目を原子爆弾の閃光に向けさせる」<br />「半径5マイル以内で原子爆弾を直視できたり、視力を保っていられる者は誰もいないだろう」}}
アメリカ海軍{{仮リンク|リチャード・コノリー|en|Richard L. Conolly|label=リチャード・コノリー准将}}
{{Quotation|「こんなもの(原子爆弾のこと)を6つもらい、(九州に)将兵が上陸する前に、それぞれの上陸地点の両端に1つずつ置きたい」}}
どの発言も、友軍兵士への[[放射能]]による健康被害を全く考慮していない暴論にも見えるが、当時は[[放射線障害]]についてあまり研究が進んでおらず、この後、[[広島市への原子爆弾投下]]や[[長崎市への原子爆弾投下]]の[[被爆者]]の追跡調査した後の1947年の時点においてすら、権威あるとされている[[ブリタニカ百科事典]]での被爆者への放射能の影響については、「強度の[[X線]]に過度にさらされた結果と類似している。この2都市ではいずれも放射能の有害な蓄積は認められなかった」と記述されていたほどであった。この後、被爆者の健康被害の更なる研究・調査と、繰り返し行われた原爆実験によるアメリカ軍関係者の被爆者『[[アトミック・ソルジャー]]』の放射線障害などもあって、その深刻さが次第と明らかになっていった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=366}}</ref>。
 
オリンピック作戦開始前に原爆は完成し、[[ポツダム会談]]に臨んだトルーマンの元に[[トリニティ実験]]の成功の報がもたらされた。マーシャルら日本本土侵攻推進派は、原爆を日本本土侵攻作戦での戦術使用を考えていたが、陸軍長官[[ヘンリー・スティムソン]]ら慎重派は日本に最終的な決断を促す一つの手段とみており、慎重派、推進派ともに日本に対する原爆の使用を提唱した<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=381}}</ref>。そしてトルーマンはスティムソンらの慎重派の意見を採り上げて、降伏を促す手段として原爆の使用を決定し、8月6日には[[広島市への原子爆弾投下]]、8月9日には[[長崎市への原子爆弾投下]]が行われた{{sfn|五百旗頭|2005|p=149}}。それでも日本が降伏することはなかったため、推進派のマーシャルは[[東京大空襲]]の例を出して「我々は1晩で、10万人の人間を殺害した。だがそれでも、表面的には何の効果も上げなかった」と振り返り「2発の原爆でも日本指導部が降伏に傾かないときは、侵攻は不可避である。それ故、次の使用可能な原爆はダウンフォール上陸を支援するため確保しておくべきだ」と強くダウンフォール作戦の決行と原子爆弾の戦術使用について主張したが、[[ソ連対日参戦]]と昭和天皇の[[聖断]]によって日本は降伏し、3発目の原子爆弾が投下されることはなかった<ref name="名前なし-7"/>。
 
=== 指揮権問題 ===
[[Image:MacArthur-Nimitz.jpg|thumb|200px| 作戦協議するマッカーサー(左)とニミッツ(右)]]
太平洋戦線は大規模な水陸両用作戦を連続して行う必要があることから、陸軍が中心となる[[西部戦線|ヨーロッパ戦線]]とは異なり陸海空3軍の緊密な連携が必要となることからであった。そのため、陸軍の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]元帥が、[[連合国遠征軍最高司令部|連合国遠征軍最高司令官]]({{en|Supreme Commander, Allied Expeditionary Force}}、略称:{{en|SCAEF}})の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]として一帥が統括したヨーロッパ戦線と異なり、太平洋戦線は、陸軍のマッカーサーが南西太平洋方面の連合軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官(Supreme Commander of Allied Forces in the Southwest Pacific Area 略称:SWPA)、海軍の[[チェスター・ニミッツ]]元帥が太平洋中央の連合軍を指揮する[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ太平洋艦隊]]司令長官兼太平洋戦域最高司令官(Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Commander in Chief, Pacific Ocean Areas. 略称:CINCPAC-CINCPOA)として二元統括となっていた。両司令部は作戦区域を分割して担当しており、日本本土は従来の作戦区域からすればニミッツの太平洋戦域最高司令部が担当であったが、マッカーサーはこれを不満に思っており「我々は現在、人為的な区分境界線及び指揮機構によって、極めて不利な状況下にあるので、対日戦争の究極の成功は、もっとも重大な危機にある」という意見書を[[アメリカ陸軍参謀総長]]に送っている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=81}}。しかし、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の下では、その指揮権問題は棚上げされており、1945年に入ってからはマッカーサーとニミッツの間の軋轢やライバル意識は悪化していく一方であった<ref>{{Harvnb|トール|2022b|p=381}}</ref>。
 
しかし1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、マッカーサーは要望をエスカレートさせた。マッカーサーは海軍に対して日本本土進攻では海上援護任務のみを行い、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきた。ルーズベルトの死の翌日である4月13日に副官の[[リチャード・サザランド]]中将をニミッツがいる[[グアム島]]に派遣し、マッカーサーの指揮下にあった[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]]はニミッツに返すので、その代わりとして、沖縄戦が終わればニミッツの指揮下にある全陸上部隊の指揮はマッカーサーが引き継ぐと通告した。そしてサザーランドは「いかなる陸軍部隊も(ニミッツ)提督のもとで勤務することは許されないでしょう」と付け加えた<ref name="名前なし-pRMe-2">{{Harvnb|トール|2022b|p=383}}</ref>。
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マッカーサーの提案はアメリカ陸海軍の円満な離婚に等しく<ref name="名前なし-pRMe-2"/>、当然、[[ジェームズ・フォレスタル]][[アメリカ合衆国海軍長官|海軍長官]]やニミッツは激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局、この問題はマッカーサーとニミッツが直接協議することとなって、マッカーサーはこの要求を取り下げた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=82}}。それでも、この問題は解決する見通しは立たず、最後にはトルーマンの裁定をあおがなければならないところまできていた。しかし、海軍贔屓であったルーズベルトに対して、トルーマンは元陸軍軍人でもあり、またマッカーサーがニミッツよりは先任で、国民的人気や名声も圧倒していたことから、最終的には海軍側が譲歩してマッカーサーが作戦の「一義的責任」を負うと決められた。ただし、海軍側の面子を保つため、ニミッツとニミッツが任命する司令官には作戦の水陸両用上陸段階では、独立ではないにしろ、大幅な自由裁量が与えられるという但し書きがつけられることとなった<ref>{{Harvnb|トール|2022b|p=236}}</ref>。
 
[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ドイツが降伏]]し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーに[[ラブコール]]を送り、ダウンフォール作戦の従軍を希望した。なかでも[[バルジの戦い]]などで戦功を重ねていた[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]司令官[[ジョージ・パットン]]大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]]司令官[[コートニー・ホッジス]]大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=192}}</ref>。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」としてきてほしいと告げていた。アイゼンハワーと[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウエストポイント陸軍士官学校]]の同期生で親友の{{仮リンク|第12軍集団 (アメリカ軍)|en|Twelfth United States Army Group|label=第12軍集団}}司令官[[オマール・ブラッドレー]]大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった<ref name="#9">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=193}}</ref>。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり<ref name="#9"/>、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「[[北アフリカ戦線]]に送られたアメリカ軍の戦力を自分に与えられていたら3ヶ月で[[フィリピン]]を奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=84}}。
 
=== 作戦準備 ===
1945年に入るとオリンピック作戦の準備行動が開始され、上陸地点となった九州南部への爆撃が本格化した。沖縄に前進基地を確保したアメリカ極東航空軍は日本軍の飛行場を無力化し輸送網と都市を破壊しておくために、枕崎、宮崎、鹿児島など南九州の主要な都市を短期間で焼き払った<ref name="#10">オンラインミュージアム 戦争と静岡 第三展示室 アメリカ軍の日本本土上陸作戦</ref>。とくに鹿児島県はオリンピック作戦の上陸地点として激しい爆撃の対象となり、単なる補給地、背後地、内地ではなくなり「戦場」と化した<ref name="#11">総務省 鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)1.空襲等の概況</ref>。アメリカ軍の鹿児島市に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさで、8度にわたる空爆によって市街地の93%が消失し、死者3,329人負傷者4,633人の被害を出した<ref name="#11"/>。
 
『鹿児島市戦災復興誌』では「沖縄戦が峠を越したあとは、南九州における日本空軍の迎撃、及び対空砲撃の機能はほとんど零の状況となり、完全な米空軍の制空圏下に入り、米軍機は自由に飛行、攻撃した。大牟田、熊本、鹿児島、都城などの小都市には照空隊の配備もなく、夜間の焼夷攻撃に対しては無策といってよかった」と苛烈な爆撃の様子が記述されている。これは、大本営が敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保を優先させて防空戦闘を局限する方針をとったことによるもので{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=583}}、具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29に戦闘機の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、戦闘機の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=148}}。また、鹿児島県の岩川基地(現[[曽於市]])に配備されていた[[夜間戦闘機]]隊「[[芙蓉部隊]]」では、特に敵攻撃機の迎撃を制限されていなかったにも関わらず指揮官[[美濃部正]]少佐の方針で<ref name="#12">{{Harvnb|渡辺洋二|2003|p=255}}</ref>、実際にはアメリカ軍に発見されていたのに<ref>Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 「Bulletin No. 166-45, 15 August 1945. airfields in Kyushu. Report No. 3-i(14), USSBS Index Section 6」p.18</ref>「敵に岩川基地を発見されないため」などという理由で迎撃を禁止するなど、一部の部隊ではアメリカ軍機迎撃に消極的な姿勢も見られるようになった<ref name="#12"/>。
『鹿児島市戦災復興誌』では「沖縄戦が峠を越したあとは、南九州における日本空軍の迎撃、及び対空砲撃の機能はほとんど零の状況となり、完全な米空軍の制空圏下に入り、米軍機は自由に飛行、攻撃した。大牟田、熊本、鹿児島、都城などの小都市には照空隊の配備もなく、夜間の焼夷攻撃に対しては無策といってよかった」と苛烈な爆撃の様子が記述されている。これは、大本営が敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保を優先させて防空戦闘を局限する方針をとったことによるもので{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=583}}、具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29に戦闘機の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、戦闘機の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=148}}。また、鹿児島県の岩川基地(現[[曽於市]])に配備されていた[[夜間戦闘機]]隊「[[芙蓉部隊]]」では、特に敵攻撃機の迎撃を制限されていなかったにもかかわらず指揮官[[美濃部正]]少佐の方針で<ref name="#12">{{Harvnb|渡辺洋二|2003|p=255}}</ref>、実際にはアメリカ軍に発見されていたのに<ref>Records of the U.S. Strategic Bombing Survey 「Bulletin No. 166-45, 15 August 1945. airfields in Kyushu. Report No. 3-i(14), USSBS Index Section 6」p.18</ref>「敵に岩川基地を発見されないため」などという理由で迎撃を禁止するなど、一部の部隊ではアメリカ軍機迎撃に消極的な姿勢も見られるようになった<ref name="#12"/>。
 
8月になると日本軍が本土決戦用に温存していた航空機を破壊するため約10日間の爆撃作戦が実施され、爆撃機や空母機動部隊の艦載機が全国各地の都市や飛行場、工場を爆撃した。しかし、巧みに隠された日本軍航空機に大きな損害はなく、終戦時においても日本軍の特攻機を含めた航空戦力は17,900機(うち可動機10,700機)であり、アメリカ軍も特攻による多大な損害を想定していた(詳細は[[#アメリカ海軍]]で後述)<ref name="#1"/>。原爆の投下後も、空襲を含むオリンピック作戦の準備行動は、15日に戦闘中止命令が出る直前まで断続的に続けられた<ref name="#10"/>。
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知日派の[[アメリカ合衆国国務次官]][[ジョセフ・グルー]]は、双方に甚大な損害をもたらすダウンフォール作戦には反対であり、「天皇制の容認を含む処遇を示せば、日本人は武器を置く」とトルーマンの説得を試みているが、トルーマンは一旦は軍の意見を取り上げて、オリンピック作戦を承認している{{sfn|五百旗頭|2005|p=131}}。グルーの意見は陸軍長官[[ヘンリー・スティムソン]]に引き継がれた。スティムソンは何度も日本を訪れたことがあり、そのときの記憶から「(日本本土は)硫黄島や沖縄で見られた最後の望みをかけた防御がやりやすく、戦車による機動戦はフィリピンやドイツより困難」との感想を抱いていたため、1945年7月に[[ポツダム会談]]に向けて準備中のトルーマンに「我々が実際に侵攻を始めた場合は、ドイツよりさらに苛烈な最後の戦いを覚悟しなければならない。我々はドイツの場合より重大な損失を被ることは間違いないし、一層徹底的に日本を破壊する必要がある」として「日本の現皇室の下での合法的な君主制は排斥しない」という言葉を盛り込んだ「実質的に無条件降伏に等しい申し出を行い」「降伏のための一定の機会を与えてはどうか」と進言している<ref name="#13">{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=378}}</ref>。
 
この頃になると、オリンピック計画作成時の日本軍戦力分析は過小評価であったことが判明しており{{sfn|ウォーナー|1982b|p=235}}、損害の見積が上方修正されていた([[#被害予想]])。特にドイツ軍との戦いの対比が論じられ、スティムソンの「ドイツ本土よりも戦車の運用が困難」「ドイツとの戦いよりも大損害を覚悟する必要がある」という意見の他にも<ref name="#13"/>、ヨーロッパ戦線で連合軍と戦ったドイツ軍は、部隊が崩壊すると大量の兵士が降伏し残りは速やかに敗走するため、連合軍は先を争って急進撃し大勝利を得たのに対し、太平洋戦線で連合軍と戦った日本軍は、退却するにしてもじわじわと退き、さらにドイツ兵とは異なり日本兵はほとんど降伏することがなかったので、連合軍は延々と続く戦いを強いられることとなっていた{{sfn|ハルバースタム|2012a|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.7006}}。そのため、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の1日の兵員1,000名に対する平均死傷者は、[[西部戦線|ヨーロッパ戦域]]の3.5倍という高い水準となっていた<ref group="注釈">1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名</ref><ref>[http://coachfleenor.weebly.com/uploads/6/6/7/3/6673552/no_bomb_no_end.pdf : No bomb No end P.374-375] 2021年5月4日閲覧</ref>。
この頃になると、オリンピック計画作成時の日本軍戦力分析は過小評価であったことが判明しており{{sfn|ウォーナー|1982b|p=235}}、損害の見積が上方修正されていた。([[#被害予想]])
<!--ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍(陸軍航空軍含む)は1944年6月~45年5月までに、135,576人の戦闘戦死者を含む586,628人もの死傷者を出したのに対して<ref>MacDonald, Charles B. (1993) [1973]. The Last Offensive. United States Army in World War II., European theater of operations p478</ref>、太平洋のアメリカ軍(海軍、海兵隊、陸海軍航空隊を含む)は1941年12月~45年8月までに111,914人の戦闘戦死者を含む426,000人から<ref>Micheal Clodfelter. Warfare and Armed Conflicts – A Statistical Reference to Casualty and Other Figures p585</ref>、戦闘外原因を含めると死者だけでも196,265人もの甚大な人的損害を被っていた<ref>{{Cite web |url=https://archive.org/details/ArmyBattleCasualtiesAndNonbattleDeathsInWorldWarIiPt1Of4  |title=Army battle casualties and nonbattle deaths in World War II. Final report, 7 December 1941-31 December 1946. Part 1 of 4. |publisher=United States. Adjutant General's Office |date=1946-12-7 |accessdate=2022-3-13}}</ref>。記事に関係ない記述なのでコメントアウト-->
特にドイツ軍との戦いの対比が論じられ、スティムソンの「ドイツ本土よりも戦車の運用が困難」「ドイツとの戦いよりも大損害を覚悟する必要がある」という意見の他にも<ref name="#13"/>、ヨーロッパ戦線で連合軍と戦ったドイツ軍は、部隊が崩壊すると大量の兵士が降伏し残りは速やかに敗走するため、連合軍は先を争って急進撃し大勝利を得たのに対し、太平洋戦線で連合軍と戦った日本軍は、退却するにしてもじわじわと退き、さらにドイツ兵とは異なり日本兵はほとんど降伏することがなかったので、連合軍は延々と続く戦いを強いられることとなっていた{{sfn|ハルバースタム|2012a|p=|loc=kindle版, 上巻, 位置No.7006}}。そのため、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の1日の兵員1,000名に対する平均死傷者は、[[西部戦線|ヨーロッパ戦域]]の3.5倍という高い水準となっていた<ref group="注釈">1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死、行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死、行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名</ref><ref>[http://coachfleenor.weebly.com/uploads/6/6/7/3/6673552/no_bomb_no_end.pdf : No bomb No end P.374-375] 2021年5月4日閲覧</ref>。
例えば、大戦末期のヨーロッパ戦線の最大の激戦となった[[バルジの戦い]](1944年12月16日 - 1945年1月25日)において<ref>{{Cite web |url=https://www.army.mil/botb/ |title=The Battle of the Bulge|publisher=ACCESSIBILITY/SECTION 508 |date= |accessdate=2022-3-13}}</ref>、アメリカ軍は戦死者8,607人から<ref name="#14">{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=402}}</ref>19,000人、捕虜・行方不明者21,144人(うち捕虜が20,000人以上<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=141}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://limacharlienews.com/veterans/memorial-day-solace/ |title= The National Lima Charlie Productions: A Memorial Day’s Solace |publisher=Lima Charlie Media |date=2017-05-28 |accessdate=2022-3-13}}</ref>)に負傷者を加えた75,000人~<ref>{{Cite web |url=https://www.history.army.mil/html/reference/bulge/index.html |title=Battle of the Bulge|publisher=U.S. Army Center of Military History |date= |accessdate=2022-3-13}}</ref>76,000人<ref name="#14"/>~80,000人<ref>西部戦線全史 ヒトラーVS英米仏 山崎雅弘</ref>という甚大な人的損失を被ったが、太平洋戦争の激戦地となった沖縄戦(1945年3月26日 - 9月7日)では、それに匹敵する、死者・行方不明者20,195人<ref>{{Cite web |url=https://limacharlienews.com/veterans/memorial-day-solace/ |title= The National Lima Charlie Productions: A Memorial Day’s Solace |publisher=Lima Charlie Media |date=2017-05-28 |accessdate=2022-3-13}}</ref>、戦傷者 55,162人<ref>{{Harvnb|Flintham|2009|p=22}}</ref>、[[戦闘ストレス反応]]患者26,211人という莫大な損失を被っていた<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=519}}</ref>。
 
しかし、戦力差を比較した場合、バルジの戦いでは8個機甲師団と22個歩兵師団の計30個師団70万人のアメリカ陸軍<ref>ヒトラーの最後の賭け:バルジの戦い1944年12月– 1945年1月 付録EF トレヴァー・N・デュピュイ</ref>が、精鋭の[[武装親衛隊]][[機甲師団|装甲師団]]を含む20個師団と予備5個師団の計25個師団40万人以上のドイツ軍大兵力を相手にしていたのに対し<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=260}}</ref>、沖縄の日本軍はたった3個師団にも満たない陸軍50,000人、海軍3,000人の戦闘部隊と後方部隊20,000人に、沖縄現地召集兵を加えた<ref>{{Harvnb|八原博通|2015|p=123}}</ref>約11万6,400人の兵力で、装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と評されていた<ref>{{Harvnb|フランク|1971|p=7}}</ref>陸軍4個歩兵師団と3個海兵隊師団の計27万8000人、後方支援部隊も含めれば548,000人ものアメリカ軍地上部隊と戦った<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=35}}</ref>。
ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍(陸軍航空軍含む)は1944年6月~45年5月までに、135,576人の戦闘戦死者を含む586,628人もの死傷者を出したのに対して<ref>MacDonald, Charles B. (1993) [1973]. The Last Offensive. United States Army in World War II., European theater of operations p478</ref>、太平洋のアメリカ軍(海軍、海兵隊、陸海軍航空隊を含む)は1941年12月~45年8月までに111,914人の戦闘戦死者を含む426,000人から<ref>Micheal Clodfelter. Warfare and Armed Conflicts – A Statistical Reference to Casualty and Other Figures p585</ref>、戦闘外原因を含めると死者だけでも196,265人もの甚大な人的損害を被っていた<ref>{{Cite web |url=https://archive.org/details/ArmyBattleCasualtiesAndNonbattleDeathsInWorldWarIiPt1Of4  |title=Army battle casualties and nonbattle deaths in World War II. Final report, 7 December 1941-31 December 1946. Part 1 of 4. |publisher=United States. Adjutant General's Office |date=1946-12-7 |accessdate=2022-3-13}}</ref>。ことに大戦末期のヨーロッパ戦線の最大の激戦となった[[バルジの戦い]](1944年12月16日 - 1945年1月25日)において<ref>{{Cite web |url=https://www.army.mil/botb/ |title=The Battle of the Bulge|publisher=ACCESSIBILITY/SECTION 508 |date= |accessdate=2022-3-13}}</ref>、アメリカ軍は戦死者8,607人から<ref name="#14">{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=402}}</ref>19,000人、捕虜・行方不明者21,144人(うち捕虜が20,000人以上<ref>{{Harvnb|ボールドウィン|1967|p=141}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://limacharlienews.com/veterans/memorial-day-solace/ |title= The National Lima Charlie Productions: A Memorial Day’s Solace |publisher=Lima Charlie Media |date=2017-05-28 |accessdate=2022-3-13}}</ref>)に負傷者を加えた75,000人~<ref>{{Cite web |url=https://www.history.army.mil/html/reference/bulge/index.html |title=Battle of the Bulge|publisher=U.S. Army Center of Military History |date= |accessdate=2022-3-13}}</ref>76,000人<ref name="#14"/>~80,000人<ref>西部戦線全史 ヒトラーVS英米仏 山崎雅弘</ref>という甚大な人的損失を被ったが、太平洋戦争の激戦地となった沖縄戦(1945年3月26日 - 9月7日)では、それに匹敵する、死者・行方不明者20,195人<ref>{{Cite web |url=https://limacharlienews.com/veterans/memorial-day-solace/ |title= The National Lima Charlie Productions: A Memorial Day’s Solace |publisher=Lima Charlie Media |date=2017-05-28 |accessdate=2022-3-13}}</ref>、戦傷者 55,162人<ref>{{Harvnb|Flintham|2009|p=22}}</ref>、[[戦闘ストレス反応]]患者26,211人という莫大な損失を被っていた<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=519}}</ref>。
 
バルジの戦いでは8個機甲師団と22個歩兵師団の計30個師団70万人のアメリカ陸軍<ref>ヒトラーの最後の賭け:バルジの戦い1944年12月– 1945年1月 付録EF トレヴァー・N・デュピュイ</ref>が、精鋭の[[武装親衛隊]][[機甲師団|装甲師団]]を含む20個師団と予備5個師団の計25個師団40万人以上のドイツ軍大兵力を相手にしていたのに対し<ref>{{Harvnb|ビーヴァー|2015|p=260}}</ref>、沖縄の日本軍はたった3個師団にも満たない陸軍50,000人、海軍3,000人の戦闘部隊と後方部隊20,000人に、沖縄現地召集兵を加えた<ref>{{Harvnb|八原博通|2015|p=123}}</ref>約11万6,400人の兵力で、装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と評されていた<ref>{{Harvnb|フランク|1971|p=7}}</ref>陸軍4個歩兵師団と3個海兵隊師団の計27万8000人、後方支援部隊も含めれば548,000人ものアメリカ軍地上部隊と戦った<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|p=35}}</ref>。
沖縄戦での人的損失が日本の抵抗の激しさを示すものであれば、日本本土侵攻にどれほどの犠牲を伴うのかアメリカの指導部内に不安が蔓延することとなった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=148}}</ref>。
 
沖縄戦での日本軍の激しい抵抗はアメリカ軍に衝撃を与えており、歴史家ジョージ・ファイファーは、[[オーヴァーロード作戦]]におけるドイツ軍と比較して「前年の夏にノルマンディを防御した一部のドイツ軍部隊は、極めて多い死傷者にもかかわらず、持ち堪え、逆襲すら行って、連合軍指揮官に強い感銘を与えた。しかし、ドイツ軍の兵器の多くは日本軍のものと違って、対抗する連合軍の兵器より優れていた。暗い見通しに関わらず、優れた戦術と忍耐で戦ったドイツ機甲師団も、沖縄で日本軍が示した離れ業には匹敵できなかった」「このような状況にくじけることなく、多くの死傷者が出るという悲劇にも耐える事ができたのが日本陸軍だけであったろう。驚くべきことは、組織や軍紀が低下せず、これほど長く保持されていたことである」と日本陸軍が夥しい損失にもかかわらず、最後まで組織的な戦闘を継続したと評された<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995b|p=240}}</ref>。
<!--第二次世界大戦末期、アメリカ国内では、オーヴァーロード作戦やバルジの戦いなどのヨーロッパ戦線の激戦が大きく報道されていた。特にアメリカ軍史上最大の作戦[[ノルマンディー上陸作戦]]では、その余りにも凄惨な現場から“ブラッディ・オマハ”と呼ばれた[[オマハビーチ]]の戦いでの死傷者約2,000人、オマハ・ビーチを含めた[[D-デイ]]のアメリカ兵の戦死者は2,501人に達し<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/news/d-day-casualties-deaths-allies |title=
 
第二次世界大戦末期、アメリカ国内では、オーヴァーロード作戦やバルジの戦いなどのヨーロッパ戦線の激戦が大きく報道されていた。特にアメリカ軍史上最大の作戦[[ノルマンディー上陸作戦]]では、その余りにも凄惨な現場から“ブラッディ・オマハ”と呼ばれた[[オマハビーチ]]の戦いでの死傷者約2,000人、オマハ・ビーチを含めた[[D-デイ]]のアメリカ兵の戦死者は2,501人に達し<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/news/d-day-casualties-deaths-allies |title=
How Many Were Killed on D-Day?|publisher A&E Television Networks |date= |accessdate=2022-5-6}}</ref>、なかには歩兵の85%が犠牲になった部隊や<ref>ノルマンディー上陸作戦1944 上 アントニー・ビーヴァーp484</ref>師団あたりの損耗率は絶滅戦争と呼ばれた同時期の[[独ソ戦]]よりも上だった師団もあるなど<ref>ノルマンディー上陸作戦1944 上 アントニー・ビーヴァーp214</ref>、苦戦の連続であった。また、オマハ以上に血まみれと称され連合国から第一級の敗北<ref>Whiting, Charles, The Battle of Hurtgen Forest. Orion Books, New York, 1989.p271–274</ref>と呼ばれた[[ヒュルトゲンの森の戦い]]など、多くの損害を被った戦いもあったが、アメリカ国民はその損害よりはアメリカ兵たちの活躍の報道を喜び有頂天となっていた<ref name="#16">{{Harvnb|ニューカム|1966|p=173}}</ref>。
 
これらヨーロッパの大損害は太平洋戦争にも影響を与えている。バルジの戦いでは歩兵師団が大損害を受けた結果、アメリカ国内で訓練中の6個師団がヨーロッパ戦線に送られたが、そのうち2個師団は太平洋戦線に送られる予定であった師団であり、また、作戦での武器・弾薬の大量消費から、太平洋戦域への補給も一時的に停滞した。太平洋戦域での戦力不足が解消されるには時間を要し、1945年3月に開始された沖縄戦でアメリカ軍は死傷者最大75,753人と「バルジの戦い」に匹敵する大損害を被ったこともあって、日本本土侵攻作戦であるダウンフォール作戦の作戦計画を遅らせることとなった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|pp=182-184}}</ref>。記事に関係ない記述なのでコメントアウト-->
 
一方で太平洋戦線においてはける、アメリカ軍の苦戦ぶりと多大な人的損害が、[[センセーショナル]]に報じられて、ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍の活躍に有頂天となっていたアメリカ国民に衝撃を与えている<ref name="#16">{{Harvnb|ニューカム|1966|p=173}}</ref>。特に[[硫黄島の戦い]]における報道はアメリカ国内世論を沸騰させ、雑誌[[タイム (雑誌)|タイム]]の「硫黄島の名前はアメリカ史上、[[アメリカ独立戦争]]での[[バレーフォージ]]、[[南北戦争]]での[[ゲティスバーグ]]、今次大戦での[[タラワ島]]と並んで記されるであろう」という報道もあって<ref>{{Harvnb|ニューカム|1966|p=174}}</ref>、アメリカ軍に対して批判が高まって、兵士の親からの批判の投書も殺到し、[[アメリカ合衆国海軍長官]][[ジェームズ・フォレスタル]]自らが返信をせざるを得なくなるほどであった<ref>{{Harvnb|ニューカム|1966|p=176}}</ref>。[[連合国遠征軍最高司令部|連合国遠征軍最高司令官]]として[[ノルマンディ上陸作戦]]を指揮した[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]も、不毛で狭小な硫黄島と「広く開放的な空間」であった[[ノルマンディ]]海岸とを比較し、この小さな島に60,000人もの[[アメリカ海兵隊]]が上陸して戦闘したことに対して「こんな制約された地形で、(自分は)そんな規模の戦いを思い描くことはできない」と驚愕し、かつての上官であったマッカーサーが硫黄島での大損害を批判していたことにも触れて「彼には(このような戦闘を)なかなか理解できなかったのだろう」と述べている<ref>{{Harvnb|トール|2022b|p=184}}</ref>。
 
これらの大きな損害と被害予測、国内世論がスティムソンら日本本土侵攻慎重派の発言力を後押しすることとなった。
トルーマンは「日本本土侵攻では、第2の沖縄が再現されないように望む」と述べ、統合参謀本部のオリンピック作戦にゴーサインを出した。一方で関東上陸作戦コロネットは保留となった。
 
やがて[[ポツダム]]で会議に臨んだトルーマンの元に[[トリニティ実験]]の成功の報がもたらされた。陸軍参謀総長[[ジョージ・マーシャル]]元帥ら日本本土侵攻推進派は、原爆を日本本土侵攻作戦での戦術使用を考えていたが、スティムソンら慎重派は日本に最終的な決断を促す一つの手段とみており、慎重派、推進派ともに日本に対する原爆の使用を提唱した<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=381}}</ref>。[[ポツダム宣言]]草案には、対日侵攻慎重派スティムソンらが提唱した「天皇制の保障」は明記されていなかったが、トルーマンは外交チャンネルを通じて口頭では天皇制の保障を匂わすことをスティムソンに約束、慎重派の進言通り、降伏を促す手段として原爆の使用を決定し、日本にポツダム宣言による無条件降伏を迫った{{sfn|五百旗頭|2005|p=149}}。しかし、日本政府がポツダム宣言をいったん“黙殺”したため、8月6日には[[広島市への原子爆弾投下]]、8月9日には[[長崎市への原子爆弾投下]]が行われ、またソ連の対日参戦もあって、トルーマンらの目論見通り、日本がポツダム宣言を受諾したため、ダウンフォール作戦は中止となった。
 
== 日本側の対応 ==
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沿岸配備師団は装備が貧弱であり、また、これまでに二十代から三十代の健常な男子の多くは既に徴兵されており、動員されるのは四十代の老兵や、徴兵で何らかの身体的問題を抱えている者も多かったので、その戦闘力は常備師団と比較すると低く、水際で上陸軍の足止めをするという役割と相まって「はりつけ師団」や「かかし師団」などと呼ばれていた。同じ根こそぎ動員師団でも、常備師団や戦車師団と上陸軍への反撃を行う機動打撃師団は、沿岸配備師団と比較すると装備は充実していた{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=69}}。なりふり構わない戦力増強策で日本本土には54個の師団が展開することとなったが、大半はこの根こそぎ動員で編成された師団であり、既設の師団はこのうちの12個師団に過ぎなかった{{Sfn|土門周平|2015|p=93}}。
 
前述の通り、当時の日本軍は装備調達に苦慮していたため、根こそぎ動員で動員された師団の装備は不十分であった。昭和天皇も東久邇盛厚王から「海岸の防備のみならず、決戦師団も武器が十分に
前述の通り、当時の日本軍は装備調達に苦慮していたため、根こそぎ動員で動員された師団の装備は不十分であった。例えば沿岸配備師団の静岡の第143師団は老兵と若年兵がほとんどで、兵器はおろか軍靴さえも行きわたらず、銃剣は全兵力の50%、火砲70%、小銃80%、通信機類30%、機銃30%強、弾薬糧食は半会戦分に過ぎなかった{{要出典|date=2021年10月}}。装備が可能な限り補充されるはずの第2次兵備の機動打撃師団(第214師団)でさえ連隊砲、大隊砲に欠け小銃は二人であった{{要出典|date=2021年10月}}。特に[[第三次兵備]]で編成された師団の装備が不足しており、第53軍の第316師団にように、1個小隊に重機関銃2丁に小銃15~16丁しか配備されないなど、[[小火器]]の充足率は約40%、重機関銃や[[迫撃砲]]の充足率は約50%、火砲も未充足というものであった{{Sfn|土門周平|2015|p=69}}。本土決戦の日本軍の装備で象徴的に語られるのは、この第3次兵備で編成された師団で、兵器の不足に対応するため、木製の突撃棒やなかには中世の[[弩]]を自作する兵士もいたが、これはあくまでも戦力不足の第3次兵備師団の話が中心で、本土決戦時点の日本軍の平均的な状況ではない。昭和天皇も東久邇盛厚王から「海岸の防備のみならず、決戦師団も武器が十分に
補給されず、敵の落した爆弾の鉄を利用してシャベルを作る有様である」との報告を受けて「これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した」と語っている<ref>第二次世界大戦における日本の戦争終結―「終戦」の意味と要因―庄司 潤一郎 p71</ref>。特に[[第三次兵備]]で編成された師団の装備が不足しており、第53軍の第316師団にように、1個小隊に重機関銃2丁に小銃15~16丁しか配備されないなど、[[小火器]]の充足率は約40%、重機関銃や[[迫撃砲]]の充足率は約50%、火砲も未充足というものであった。本土決戦の日本軍の装備で象徴的に語られるのは、この第3次兵備で編成された師団で、兵器の不足に対応するため、木製の突撃棒やなかには中世の[[弩]]を自作する兵士もいたが{{Sfn|土門周平|2015|p=69}}、これはあくまでも戦力不足の第3次兵備師団の話が中心で、本土決戦時点の日本軍の平均的な状況ではない。<!--例えば沿岸配備師団の静岡の第143師団は老兵と若年兵がほとんどで、兵器はおろか軍靴さえも行きわたらず、銃剣は全兵力の50%、火砲70%、小銃80%、通信機類30%、機銃30%強、弾薬糧食は半会戦分に過ぎなかった{{要出典|date=2021年10月}}。装備が可能な限り補充されるはずの第2次兵備の機動打撃師団(第214師団)でさえ連隊砲、大隊砲に欠け小銃は二人であった{{要出典|date=2021年10月}}。。出典未整備で1年間放置によりコメントアウト-->
補給されず、敵の落した爆弾の鉄を利用してシャベルを作る有様である」との報告を受けて「これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した」と語っており、決戦師団の装備充足率も決して十分ではなかった<ref>第二次世界大戦における日本の戦争終結―「終戦」の意味と要因―庄司 潤一郎 p71</ref>。
本土決戦前にあらゆる兵器を戦場に投入しようとするのは、第二次世界大戦で全世界的に見られた状況であり、ナチスドイツの上陸の危機が迫ったイギリスにおいても、当時の首相[[ウィンストン・チャーチル]]自らが考案したとされる[[ホームガード|ホームガードパイク]]という鉄槍も戦場に投入される予定であった<ref>[http://www.home-guard.org.uk/hg/pike.html Home Guard Pike]</ref>
 
戦力増強と並行して詳細な作戦の検討も進められた。[[ペリリューの戦い]]や[[硫黄島の戦い]]などでは有効であった「後退配備・沿岸撃滅主義」方針が、[[レイテ島の戦い]]においてはアメリカ軍に容易く上陸を許してしまうなど、かえって作戦方針の変更が混乱をもたらした戦訓も報告された{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=81}}。また、作戦方針変更での成功例と言われる硫黄島の戦いの戦訓を分析したり、また沖縄戦から生還した第32軍作戦参謀[[森脇弘二]]中尉からの報告より、「水際陣地による水際撃滅主義は艦砲射撃により成立しない」とする分析は必ずしも正しくなく、徹底して陣地構築した硫黄島や沖縄では艦砲射撃による損害は、サイパン島に比較すると軽微であったことや{{sfn|市原誠|2018|p=40}}、逆にペリリュー島や硫黄島では艦砲射撃を耐えた水際陣地が「砲兵火力をもって果敢な反撃を加え、敵に上陸初動に相当の打撃を与えた」という事実もあり、対策が不十分であったサイパンにおける戦訓を重視するあまり、「水際に於ける敵の必然的弱点」を見逃してしまうといった愚を避けて、上陸軍が最も弱いときに最大限の打撃を与えるとする、「水際撃滅」方式が復活することとなった。これは、サイパン島で失敗した水際撃滅と大きく異なり、常に数倍の大兵力を相手に戦わざるを得ない孤島の防衛戦とは違って、本土決戦においては、敵に匹敵する大兵力をもって「連続不断の反撃」を行うことができるという利点もあった。方針変更を主導した大本営第1部長宮崎周一中将は「従来どんなに切望しても達成しえなかった「敵上陸直後の連続不断の反撃」が今度こそ成熟できる」と意気込んでいた{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=83}}。
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==== 九州の状況 ====
九州においては、大本営など軍中央が本土決戦準備に入るもっと前の1944年7月から[[西部軍 (日本軍)|西部軍]]司令官[[下村定]]中将が「敵は早ければ、来年の春以降には、本格的な上陸作戦を企画して、南九州を襲う可能性が十分にある」「上陸地点は[[志布志湾]]正面の16 kmにわたる長い砂浜」と予想し、翌8月には早速「内之浦臨時要塞」と呼ばれる沿岸防備工事を命じた。この一台土木工事は「チ号演習」という暗号名が付けられた{{Sfn|太佐順|2001|p=65}}。陣地の構築は硫黄島や沖縄で効果のあった「後退配備・沿岸撃滅主義」主義に基づき、海岸線から4~8km4 - 8 km後方に構築されることとなったが、これには[[コンクリート]]等の資材が不足しており、天然の洞窟などを最大限活用せざるを得ないという事情もあった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=68}}。南九州特有の[[シラス台地]]はもろく堅固な陣地を構築するのは困難と思われていたが、工夫を重ねて工事は進んでいった{{sfn|土門周平|2015|p=88}}。南九州への侵攻・上陸は緊急性が高いと判断した日本軍は関東の兵備を犠牲にしてでも九州方面の増強を優先、結果として他の方面に配備予定だった装備資源を使い果たすことになった<ref name="#17"/>。
 
アメリカ軍の上陸予測地点の防衛を担当する[[第16方面軍 (日本軍)|第16方面軍]]司令官[[横山勇]]中将は、[[常徳殲滅作戦]]を指揮するなど実戦経験豊かな指揮官であったが、アメリカ軍の上陸地点を正確に予想し、有刺鉄線とコンクリートの障害物をびっしりと構築し、機関銃座と速射砲のトーチカや掩体壕も大量に構築させていた。隷下の火砲は沿岸の崖や丘陵地の地中深く埋め込んであらかじめ射程を定め、激しいアメリカ軍の砲爆撃のなかでも照準を計算する必要もなく正確な砲撃をできるようにさせており、大量の特攻機や[[特攻兵器]]による輸送艦の撃沈と、砲撃や自爆攻撃により上陸してくる大量の[[LVT]]を叩き潰せば、侵攻軍の勢いは鈍るはずと自信を深めている{{sfn|アレン・ボーマー|1995|p=337}}。一方で、司令官横山の自信に対して、「第16方面軍会戦指導構想」によれば陸、空、海にわたるアメリカ軍の強大な侵攻兵力と随時四周からの同時攻撃に対して日本軍は兵力装備面で多くの問題点を有しており、対上陸防御という受動的態勢が作戦準備を困難にしていたと指摘している<ref>防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書」第57巻『本土決戦準備(2)九州の防衛』 p314</ref>。
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戦力比の日本軍側の分析としては、第2総軍作戦課長だった井本熊男大佐が「九州の第16方面軍は、師団14・混成旅団8・戦車旅団3で重点は南九州。米軍は第二次輸送を含めて約14個師団で、師団数はほぼ同数であるが、日米の師団の戦力比は1対10くらいである。すなわち日本の140個師団に相当する。また、我が方の航空機は特攻機を含めて約1万機。米軍の海・空軍は絶対優勢で、その比はやはり日本の10倍くらいである。このように両軍の戦力比から観察すると、上陸後の侵攻を挫折させたり大打撃を与えることは、非常に困難ではないか。結局、我が方は決死敢闘、玉砕戦法あるのみ。それで敵にある程度の打撃を与える事ができるであろう」と戦力において連合軍が10倍以上優勢であったと証言している{{要出典|date=2021年8月}}。しかし、横山は南九州の陣地構築状況については「ある程度散兵壕はできており、終戦までにはかなり進捗していたように思う」と相応の陣地構築は進んでいたと述べており、横山と同時期に九州を視察した[[陸軍士官学校]]第55期の[[土門周平|近藤新治]]も、特に志布志方面の陣地は堅固に構築されてかなり有効な戦闘ができたのではないかとの印象を抱いたという{{sfn|土門周平|2015|p=86}}。
第2総軍は連合軍が上陸した際に第1総軍と第15方面軍から3~5個師団をもって九州を増強することを企図していたが、増援部隊が爆撃と砲撃の中で長距離移動するのは確実な方法ではなかった。そこで第2総軍司令部は関東で最も有力な第36軍麾下の4個師団(2個機甲師団、2個決戦師団)の増援を大本営に要請した。しかし大本営は東京防衛の中核たる第36軍の派遣に消極的で第2総軍の要請を黙殺している。
 
戦闘準備と並行して進められたのが住民の[[疎開]]であった。沖縄戦では住民疎開の途中でアメリカ軍が上陸してきたため、多くの住民が戦闘に巻き込まれて犠牲となった。昭和天皇は、住民を戦場に巻き込むことに反対し、速やかに避難が行われることを望んでいたが、軍から住民の疎開計画の策定を指示された[[鹿児島県]]と[[宮崎県]]は、疎開先の住居施設や食糧確保について[[シミュレーション]]を行ってみたが、まずは数十万人にものぼる、老人婦女子をどうやって移動させるか?という入り口でまず躓いてしまった。[[貨物自動車|トラック]]などの車輛は軍が陣地構築に使用しており、住民疎開に必要な台数を確保できる見通しが全くつかなかった。また、移動ができたとしても食糧の確保の目途も全くつかなかった。優先されているはずの軍でさえ、陣地構築で疲労している兵士に十分な量を支給できておらず、戦闘が始まれば“足手まとい”扱いされる住民に食糧が行き届くはずもなかった。そのため、疎開計画は策定開始からわずか2か月で暗礁に乗り上げてしまい、具体的な住民保護の計画のないまま、アメリカ軍の上陸を備えざるを得なくなってしまった<ref>{{Harvnb|太佐順|2001|p=106}}</ref>。
 
==== 四国の状況 ====
太平洋に面し航空兵力の展開が容易な四国南部は当初から連合軍の主要な上陸目標だと考えられていた。四国防衛を受け持つ第55軍は正規師団である第11師団を中核に根こそぎ動員で編成された第155師団、第205師団、第344師団、独立混成第121旅団を加えた4個師団と1個独立混成旅団を指揮下に置いた<ref name="#19">愛媛県史近代「下」四 四国防衛軍の編成(昭和63年2月29日発行)</ref>。第55軍は内陸における持久作戦は一切考慮せず、南四国の水際を含む沿岸地域での決戦を想定<ref name="#19"/>。連合軍の上陸公算の最も多い高知平野物部川から須崎にかけて第11師団を配置、高知県西部に第155師団と独立混成第121旅団を、徳島県南部に第344師団をそれぞれ配置した。また機動打撃師団である第205師団が高知県東部の北方高地に布陣し、上陸してくる連合軍を追い落とす役目を担った。他にも軍直轄の戦車第45連隊が陸軍補充隊や海軍陸戦隊と合同で対空挺作戦に従事する予定だった。第一線陣地の強度は爆撃及び艦砲射撃に耐えるよう洞窟陣地とすることを目標として進められたが、作業に習熟しない兵士が多く予定通り進捗しない箇所も多かった<ref name="#19"/>。愛媛・高知両県は四国中央部を南北に貫く予土連絡道路(現[[国道一九四194]])に大量の民間人・学徒を動員し工事を進めたが、終戦までに完成することはなかった。四国の日本軍も他方面の部隊同様に未教育兵や老兵が大量に召集され、装備についても歩兵全員に小銃や鉄帽が行き渡らず、竹製の銃剣や水筒などが支給されるという部隊もあった<ref name="#19"/>。一方で参謀本部が四国防衛を重視したこともあって装備の充足率は比較的高く、1 kmにおける部隊密度・火力密度は関東・九州の部隊よりもはるかに高かった<ref name="#20">[歴史群像]太平洋戦史シリーズ60号『本土決戦』本土決戦余話</ref>。アメリカ軍が主攻撃を想定していた相模湾の第53軍と比べると火砲は2倍、臼砲・ロケット砲は3倍の密度で配置されていた<ref name="#20"/>。ただし連合軍は四国を日本軍の兵力を分散させるための囮としかみておらず、日本軍を四国にひきつけるための欺瞞作戦パステル作戦を計画していた。
 
==== 関東の状況 ====
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二次的戦線とされた相模湾に配置されていたのは第53軍であり司令官は[[徐州会戦]]などでの勇猛果敢な作戦指揮で「鬼赤柴」の異名を持つ[[赤柴八重蔵]]中将であったが、戦力は2個歩兵師団と1個戦車旅団と不十分なものであった。しかし、主力の[[第84師団 (日本軍)|第84師団]]は[[根こそぎ動員]]で編成された急造師団ではなく、廃止された[[陸軍教導学校]]の学校幹部を中心に[[留守第54師団]]の兵力で編成された師団で、ことに将校の質が非常に高く、1個中隊が他の1個大隊に匹敵すると評されるぐらいの精鋭師団であり、第32軍から引き抜かれた第9師団の代わりに沖縄に派遣が検討されたほどであった。その際は、本土防衛の貴重な戦力として大本営第1作戦部長宮崎周一中将の猛反対で沖縄行きは中止されて、この重要な相模湾の防衛に配置されたものであった{{sfn|偕行社|1982|p=28}}。もう1個の第140師団はいわゆる沿岸配備師団であったが、[[近衛師団]]の留守師団を中心として編成された精鋭師団であった{{sfn|市原誠|2018|p=42}}。同師団は相模湾に配置されてからは、精力的に陣地構築を行い、終戦までに1個連隊ごとに約100,000Mの長大な坑道を掘削しており{{sfn|市原誠|2018|p=41}}、構築された陣地には海軍の要塞砲も含めた、[[二十八糎砲]]、[[四五式二十四糎榴弾砲]]、[[九六式十五糎榴弾砲]]、[[八九式十五糎加農砲]]、[[九二式十糎加農砲]]などの大口径砲と[[山砲]]、[[野砲]]、[[四式四〇糎噴進砲]]など多数の火砲が多数配置された。特に[[大磯]]の海岸に対しては濃密な火線を形成しており、上陸部隊に痛撃を与えられると考えられていた{{sfn|土門周平|2015|p=79}}{{sfn|市原誠|2018|p=41}}。
 
相模湾に上陸するアメリカ第8軍がコロネット作戦での主力であり、上陸初日のYデイにはアメリカ4個師団と支援部隊の203,434人が相模湾に殺到する計画であった{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=63}}。それに対して第53軍司令官の赤柴中将は「敵、我が正面に殺到すべしと判断する兵力,此は10対1と考へて施策を考ふべし」と将兵に訓令するなど、兵力の圧倒的劣勢を自覚しており、大本営に戦力増強を求めていたが、1945年7月に京都で編成された第三次兵備の第316師団が増援として送られてきた{{sfn|市原誠|2018|p=40}}。赤柴は上陸軍の主力が平地で障害物のない[[茅ヶ崎]]から[[藤沢市|藤沢]]に至る地帯に上陸してくるものと予想していたが、陣地構築が順調に進んでいる[[大磯]]と比較すると、沿岸一帯に強固な陣地を構築できる地形が少なくその対策に苦慮していた。そこで、赤柴は対上陸の基本方針である「後退配備・沿岸撃滅主義」は困難と判断し、陣地を海岸線にまで前進させて「水際配置・水際撃滅主義」に方針転換をした。その方針転換に基づき、増援として送られてきた第316師団を[[茅ヶ崎]]から藤沢に至る地帯の水際に配備することとした。しかし、砂浜への陣地構築は困難で、また装備が不十分な第三次兵備の第316師団ではまともな戦闘は困難であったため、[[散兵壕]]を大量に掘削し、そこから敵戦車に対して爆雷を背負って肉弾攻撃するといった特攻作戦の訓練が連日行われた{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=79}}。奇しくもこの「水際配置・水際撃滅主義」への回帰は日本軍全体の方針転換とも一致しており、茅ヶ崎を視察した[[陸軍大臣]]の[[阿南惟幾]]大将も赤柴の作戦方針を了承している{{Sfn|太平洋戦争⑧|2010|p=78}}。
 
=== 日本の戦争遂行能力 ===
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戦略爆撃調査団の分析によればB29と輸送機による作戦を2日間ほど行えば、関門トンネルでの本州と九州、および鉄道連絡船による本州と北海道の鉄道接続
を遮断しさらに本州の鉄道を約6カ所で分断できるとされた<ref name="#21"/>。これにより「経済資産としての日本の鉄道網は事実上破綻し」日本人口のほぼ半数が餓死の危険に陥ると考えられた<ref name="#21"/>。
 
実際に爆撃や水害、海上封鎖の影響で日本の食料事情は急速に悪化しており、日本の米生産量は1942年の1002万7474トンから1944年の878万3827トンまで減少し、1945年11月の政府の予測によれば翌年用のコメはわずか635万5000トンとされた<ref name="#21"/>。
さらにカロリー摂取量の約10% を供給する漁獲量が急減、海運業の潰滅によって輸入食料も入らなくなり、1日当たりのカロリー摂取量も激減、1941年には約2000カロリーだったが1945年には1640カロリーに下向、飢餓とビタミン欠乏に関連する疾病の発生率が急激に上昇していた<ref name="#21"/>。日本陸軍は「1945年から46年の冬の間におそらく広範な飢餓が起き人口のかなりの部分が命の危険にさらされること」を明らかに理解していた<ref name="#22">アジア・太平洋戦争の終結―新たな局面―リチャード・B・フランク p50</ref>。緊急国会の特別会で柴山陸軍次官は日本が戦争を継続できるのは食料事情により最大1年だと認めている<ref name="#22"/>。[[米内光政]]海軍大臣は「もし敵が侵攻をせずに、空軍および海軍による圧迫をジワジワとくわえてきたならば、大本営はもっと危険な局面に当面するであろう」と幕僚に語っており、航空総軍司令官の河辺大将と参謀本部の情報部長の有米精三中将は「大本営の幕僚の大多数は、米軍が一九四五年の終りまでに本土に侵攻することを、実際に待ちのぞんでいた」と語り連合軍の侵攻が遅れれば遅れるほど日本が弱体化し飢えていく現状を理解していた。
==== 燃料備蓄の枯渇 ====
燃料についても備蓄量は乏しく、日本海軍の資料によれば終戦時の燃料備蓄量は陸海軍・民間を合わせても37万kℓkL、満州、朝鮮、台湾の備蓄を合わせても48万kℓ(kL(開戦時に保有していた石油備蓄の4%)にすぎず、そのうち航空機用揮発油は10万kℓkLであった(1945年1月から終戦までの陸海軍の石油消費量は84万kℓ)kL)<ref>戦争と石油(5)ー 世界最初の「戦略石油備蓄」 ー 岩間敏 p81</ref>。
航空機用ガソリンの低質化も進みオクタン値は92から87へ低下、他にも訓練期間の短縮、技量の低下、非熟練工員の動員等により、1944年には新造機の空輸中の喪失率は短距離飛行で10パーセント、海上飛行では30パーセントに達し、製造した航空機が途中で墜落し基地に届かない状況が多発していた<ref>戦争と石油(2)ー 世界最初の「戦略石油備蓄」 ー 岩間敏 p84</ref>。
 
しかし、戦後にアメリカの[[米国戦略爆撃調査団]]が日本軍の燃料備蓄について調査したところ、特攻用の航空燃料については優先的に確保されており、終戦時点でも100万バレル(16(16kℓ)kL)のストックがあった。これは1945年7~8月1か月間の日本軍の航空燃料使用量実績で換算するとおよそ7か月分の備蓄量であり、20万機の特攻機を一度に出撃させられる量にあたっていた。従って特攻機に限れば燃料は十分に確保できていたと米国戦略爆撃調査団は結論づけている<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=138}}</ref>。
 
== 被害予想 ==
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'''※非戦闘での死傷者約30,000名を加え、全死傷者25万人'''
 
6月18日にトルーマンが[[ホワイトハウス]]にレーヒ、マーシャル、キング、陸軍長官[[ヘンリー・スティムソン]]といった戦争指導者を招集して戦略会議が開催され、オリンピック作戦について議論が交わされたが、その席でもアメリカ軍の死傷者推定が話し合われた。ダウンフォール作戦遂行派はトルーマンの懸念を和らげるべく、なるべく楽観的な指標を取り上げた。[[レイテ島の戦い]]以降、沖縄戦までのアメリカ軍と日本軍の[[キルレシオ]]一覧表を作成し、マッカーサーが指揮したレイテ島の戦いや[[ルソン島の戦い]]では、補給が途絶した日本軍に大量の餓死者、病死者が出たことによって、キルレシオはアメリカ軍が圧倒していたが、その数値を基にアメリカ軍の死傷者はあまり多くはならないと主張した<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=296}}</ref>。
しかし、日本本土に近づくにつれて日本軍の抵抗は激烈となり、太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率は、[[西部戦線|ヨーロッパ戦域]]の3.5倍という高い水準となっており<ref>[https://nationalinterest.org/feature/the-5-most-precarious-us-allies-all-time-12075 National Interest: The 5 Most Precarious U.S. Allies of All Time] 2021年5月9日閲覧</ref>、沖縄戦では投入兵力の39%が死傷するという大損害を被っていた。レーヒはその沖縄戦での実績を基に、オリンピック作戦での投入兵力約68万人~76万人の35%が死傷するとすると推定、マッカーサーのルソン島での実績を考えればもっと低下すると反論する者もあったが、'''会議に出席したメンバーの多くはレーヒの推定である、投入兵力の35%約25万人以上がオリンピック作戦だけで死傷するという印象を持ち'''、トルーマンもこの25万人という推定値をよく引用するようになった<ref>{{Harvnb|アレン・ボーマー|1995|p=301}}</ref>。
<!--他にもキングは'''最初の30日間の死傷者はルソン島と沖縄の間、3万1000から4万1000人の間になる'''と主張した<ref>ダウンフォール:帝国日本の終焉 リチャード・B・フランクp142</ref>。マーシャル陸軍参謀総長は'''ルソン島の戦いをオリンピック作戦最良のモデルとし30日間の死傷者を3万1000人'''と推定<ref>ダウンフォール:帝国日本の終焉 リチャード・B・フランクp140~141</ref>、ニミッツは'''海軍損失5000を含めた死傷者4万9000人'''と予測した<ref>ダウンフォール:帝国日本の終焉 リチャード・B・フランクp137</ref>。 和訳本なく、また出典欄に該当書籍の情報の記載なく、検証不能なため検証可能となるまでコメントアウト-->
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</poem>}}
以上のようにアメリカ軍の人的損害推定は、当初のマッカーサーらによる楽観論から一転してかなり悲観的となっていった。マッカーサー自身も「'''ダウンフォール作戦では、アメリカ軍だけで100万人の死傷者が出るだろう'''」と認識を改めている{{sfn|マンチェスター|1985|loc=下巻|ref=m2|p=84}}。
ダウンフォール作戦の損害予想は原子爆弾投下の正当化にも巧みに利用された。陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」によるアメリカ兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている<ref name="#23">中沢志保「原爆投下決定における『公式解釈』の形成とヘンリー・スティムソン」(「文化女子大学紀要 人文・社会科学研究」第15巻、2007年)</ref>。学術的にも、[[エディンバラ大学]]名誉教授・[[スコットランド]]日本協会会長のイアン・ガウは「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。'''アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。'''」沖縄戦の大損害とそれに伴うダウンフォール作戦の大損害の予想が、トルーマンに原爆投下を決断させたと著書で指摘している<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995b|p=413}}</ref>。この見解はアメリカ国内世論の主流となっており、原爆投下によってダウンフォール作戦での甚大な損害を回避できたと考える国民が、年々低下基調にあるとは言え過半数を占めている<ref>{{Cite web |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/36396/page2|title =日本への原爆投下は「正しかった」か? アメリカ人の歴史認識に変化の兆し |date= 2020-08-15 |publisher= [[フォーブス (雑誌)|フォーブスジャパン]] |accessdate=2022-03-09}}</ref>。
マッカーサーのスタッフは日本人とアメリカ人の死亡比率を22:1と推定し、上陸開始から二週間で30万人の日本人が死亡し、戦闘が四か月続いた場合の日本人犠牲者は300万人に達すると結論づけられた<ref> The Invasion of Japan: Alternative to the Bomb Skates, John Ray p79</ref>。
マーシャルはアメリカ軍の被害を抑えるため原子爆弾の戦術的使用を検討した。原爆計画の中枢にいたライル・E・シーマン大佐は、X-Dayまでに少なくとも7発のファットマン型プルトニウム爆縮爆弾が入手可能になるとマーシャルに報告している。マーシャルはオリンピック作戦までに9つの原子爆弾を確保し、九州南部への上陸前に1発、援軍に来る日本軍にもう1発、さらに山を越えて来る日本軍に3発目を投下する計画をたてた。
ダウンフォール作戦の損害予想は原子爆弾投下の正当化にも巧みに利用された。陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」によるアメリカ兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている<ref name="#23">中沢志保「原爆投下決定における『公式解釈』の形成とヘンリー・スティムソン」(「文化女子大学紀要 人文・社会科学研究」第15巻、2007年)</ref>。しかし、こうした見解はアメリカ国内の学者間でも批判が根強く「'''原爆投下によって回避されたとされる犠牲者の公式解釈での推定数『50万人』あるいは『100万人』には根拠がない'''」と指摘もある<ref name="#23"/>。原爆投下に否定的な見解を示したスタンフォード大学の歴史学者[[バートン・バーンスタイン]]は日本本土作戦によるアメリカ軍犠牲者を2万人~4万6000人と推定している<ref>{{Harvnb|リンリ・オードリッジ|1997|p=14}}</ref>。同様に、アメリカにおけるアジア史の権威イアン・ガウのように「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。'''アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。'''」沖縄戦の大損害とそれに伴うダウンフォール作戦の大損害の予想が、トルーマンに原爆投下を決断させたという指摘もある<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995b|p=413}}</ref>。
 
アメリカ軍はダウンフォール作戦での大損害を想定し、[[パープルハート章]]を大量に製造しており、第二次世界大戦中に製造した同勲章は合計で150万個に達した。結局、ダウンフォール作戦は実施されず、終戦時には495,000個の同勲章が残ることになったが、その後の[[朝鮮戦争]]や[[ベトナム戦争]]などでも使い切ることはできなかった<ref>{{Cite web |url=https://www.americanheritage.com/half-million-purple-hearts#1 |title =Half A Million Purple Hearts |date= 2000-12-16 |publisher= [[American Heritage ]] |accessdate=2021-04-22}}</ref>。この在庫は[[2003年]]時点でも総数12万個程あり、底をついたのは[[2010年]]頃である。
 
一方で、原爆投下否定派のアメリカ国内の学者からは反論も出されており「'''原爆投下によって回避されたとされる犠牲者の公式解釈での推定数『50万人』あるいは『100万人』には根拠がない'''」と指摘もある<ref name="#23"/>。そのため、原爆投下に否定的な見解の学者などはダウンフォール作戦の損害予想を少なく見る傾向が強く、スタンフォード大学の歴史学者[[バートン・バーンスタイン]]は日本本土作戦によるアメリカ軍犠牲者を2万人~4万6000人と推定している<ref>{{Harvnb|リンリ・オードリッジ|1997|p=14}}</ref>。
 
作戦計画策定のために入念に[[シミュレーション]]されたアメリカ軍側の損害予想に対して、日本側の犠牲者予想については、あまり緻密に検討されたことはなかった。マッカーサーの幕僚は、日本人(含一般国民)とアメリカ兵の死亡比率を22:1と推定し、'''上陸開始から2週間で30万人の日本人が死亡し、戦闘が4か月続いた場合の日本人犠牲者は300万人に達すると推定した<ref> The Invasion of Japan: Alternative to the Bomb Skates, John Ray p79</ref>。また、上記の通り物理学者ショックレーは、500万人から1,000万人の死者が出ると予想している{{sfn|Giangreco|1995|p=581}}。'''
 
=== アメリカ陸軍航空隊 ===
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[[ファイル:General Schmidt and Krueger.jpg|thumb|right|220px|ウォルター・クルーガー大将(右)とハリー・シュミット中将(左)]]
* [[File:US Sixth Army patch.svg|22px]][[第6軍 (アメリカ軍)|第6軍]]司令部(司令官:[[ウォルター・クルーガー]]大将)
* [[串木野市|串木野]]
** [[File:USMC V Amphib Corps.png|22px]]{{仮リンク|第5海兵上陸軍団 (アメリカ軍)|en|V Amphibious Corps|label=第5海兵上陸軍団 }}({{仮リンク|ハリー・シュミット|en|Harry Schmidt (USMC)}}中将)
***[[File:2nd Mar Div;divlogo1.png|22px]] [[第2海兵師団 (アメリカ軍)|第2海兵師団]]
***[[File:US 3d Marine Division SSI.svg|25px]] [[第3海兵師団 (アメリカ軍)|第3海兵師団]]
***[[File:US 5th Marine Division SSI.svg|22px]] [[第5海兵師団 (アメリカ軍)|第5海兵師団]]
* [[志布志湾|志布志]]
**[[File:US XI Corps SSI.svg|22px]]{{仮リンク|第11軍団 (アメリカ軍)|en|XI Corps (United States)|label=第11軍団}} (司令官{{仮リンク|チャールズ・P・ホール|en|Charles P. Hall}}中将)
***[[File:Americal patch.svg|22px]] [[第23歩兵師団 (アメリカ軍)|アメリカル師団]]
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***[[File:43rd Infantry Division CSIB.svg|22px]] {{仮リンク|第43歩兵師団 (アメリカ軍)|en|43rd Infantry Division (United States)|label=第43歩兵師団}}
* [[宮崎県|宮崎]]
** [[File:US I Corps.svg|22px]] [[第1軍団 (アメリカ陸軍)|第1軍団]] (司令官 {{仮リンク|イニス・P・スウィフト|en|Innis P. Swift}}中将)
*** [[File:25th Infantry Division CSIB.svg|22px]][[第25歩兵師団 (アメリカ軍)|第25歩兵師団]]
*** [[File:33rd Infantry Division SSI.svg|22px]]{{仮リンク|第33歩兵師団 (アメリカ軍)|en|33rd Infantry Division (United States)|label=第33歩兵師団}}
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* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |year=1982a |title=ドキュメント神風 |volume=上 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982a}} }}
* {{Cite book |和書 |author=デニス・ウォーナー |year=1982b |title=ドキュメント神風 |volume=下 |publisher=時事通信社 |asin=B000J7NKMO |ref={{SfnRef|ウォーナー|1982b}} }}
*{{Citation|和書|author1=[[コーネリアス・ライアン]]|author2=広瀬順弘 訳|title=[[史上最大の作戦]](原題:The longest day) |year=1995|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4150501877|ref={{SfnRef|ライアン|1995}}}}
**{{Citation|和書|author1=コーネリアス・ライアン|title=現代世界ノンフィクション全集〈第11〉 史上最大の作戦 歴史への証言 スターリングラード決戦記|year=1967|publisher=[[筑摩書房]]|ref={{SfnRef|ライアン|1967}}|asin=B000JBC6D4}}
* {{Cite book |和書 |author=ハンソン・ボールドウィン |others=[[木村忠雄 (翻訳家)|木村忠雄]](訳) |year=1967 |title=勝利と敗北 第二次世界大戦の記録 |publisher=朝日新聞社 |asin=B000JA83Y6 |ref={{SfnRef|ボールドウィン|1967}} }}
* {{Cite book |和書 |author=チャールズ・ホワイティング |others=[[芳地 昌三]](訳) |year=1972 |title=ヨーロッパで最も危険な男―SS中佐スコルツェニー|publisher=サンケイ新聞社出版局 |isbn=978-4383012782|ref={{SfnRef|ホワイティング|1972}} }}
*{{Citation|和書|author1=デイヴィッド・ハルバースタム|series=文春文庫|author2=山田耕介, 山田侑平 訳|title=ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争|year=2012|volume=上|edition=Kindle|publisher=文藝春秋|ref={{SfnRef|ハルバースタム|2012a}}|isbn=}}{{ASIN|B01C6ZB0V4}}
*{{Citation|和書|author1=デイヴィッド・ハルバースタム|series=文春文庫|author2=山田耕介, 山田侑平 訳|title=ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争|year=2012|volume=下|edition=Kindle|publisher=文藝春秋|ref={{SfnRef|ハルバースタム|2012b}}|isbn=}}{{ASIN|B01C6ZB0UU}}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード・F.ニューカム |others=[[田中 至]](訳) |year=1966 |title=硫黄島 |publisher=[[弘文堂]] |asin=B000JAB852 |ref={{SfnRef|ニューカム|1966}} }}
*{{Citation|和書|author1=ジェフリー・ペレット|author2=林義勝, 寺澤由紀子, 金澤宏明, 武井望, 藤田怜史 訳|title=ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず|year=2016|publisher=鳥影社|ref={{SfnRef|ペレット|2014}}|isbn=9784862655288}}
* {{Cite book|和書|author=B.M.フランク|others=加登川幸太郎(訳)|title=沖縄―陸・海・空の血戦|publisher=サンケイ新聞社出版局|date=1971|asin=B000J9HB0Y|ref={{SfnRef|フランク|1971}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=学習研究社|editor-link=学研ホールディングス |year=2010 |title=決定版 太平洋戦争⑧「一億総特攻」〜「本土決戦」への道 (歴史群像シリーズ) 完本・太平洋戦争 |publisher=学研パブリッシング |isbn=978-4056060577 |ref={{SfnRef|太平洋戦争⑧|2010}} }}
* {{Cite book |和書 |author=太佐順|authorlink=太佐順 |year=2001 |title=本土決戦の真実 米軍九州上陸作戦と志布志湾 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |series=学研M文庫 |isbn=4059010855 |ref={{SfnRef|太佐順|2001}}}}
* {{Cite book |和書 |author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介 |year=1979 |title=連合艦隊参謀長の回想 |publisher=光和堂 |isbn=4875380399 |ref={{SfnRef|草鹿龍之介|1979}}}}
* {{Cite book |和書 |author=五百旗頭真|authorlink=五百旗頭真 |year=2005 |title=日米戦争と戦後日本 |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 |isbn=978-4061597075 |ref={{SfnRef|五百旗頭|2005}} }}
* {{Cite book |和書 |author=林博史 |year=2018 |title=沖縄からの本土爆撃: 米軍出撃基地の誕生 |publisher=吉川弘文館|isbn=978-4642058681 |ref={{SfnRef|林博史|2018}}}}
* {{Cite book|和書|author=ジョージ・ファイファー|others=[[小城正]](訳)|title=天王山―沖縄戦と原子爆弾|volume=上|publisher=早川書房|date=1995|isbn=978-4152079206|ref={{SfnRef|ファイファー|1995a}}}}
* {{Cite book|和書|author=ジョージ・ファイファー|others=[[小城正]](訳)|title=天王山―沖縄戦と原子爆弾|volume=下|publisher=早川書房|date=1995|isbn=978-4152079213|ref={{SfnRef|ファイファー|1995b}}}}
* {{Cite book|和書|author=一ノ瀬俊也|authorlink=一ノ瀬俊也|title=日本軍と日本兵 米軍報告書は語る |publisher=講談社|date=2014|isbn=978-4062882439|ref={{sfnRef|一ノ瀬俊也|2014}} }}
* {{Cite book |和書 |author=大島隆之|authorlink=大島隆之 |year=2016|title=特攻 なぜ拡大したのか|publisher=[[幻冬舎]]|isbn=978-4344029699|ref={{SfnRef|大島隆之|2016}} }}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }}
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* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2013 |title=陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828578 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2013}}}}
* {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2014 |title=日本特攻艇戦史 震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴 |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828578 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2014}}}}
* {{Cite book |和書 |author=八原博通|authorlink=八原博通|year=2015|title=沖縄決戦 高級参謀の手記|publisher=中公文庫プレミアム|isbn=4122061180|ref={{sfnRef|八原博通|2015}} }}
* {{Cite book |和書 |author=カール・バーガー |others=中野 五郎(訳) |year=1971 |title=B29―日本本土の大爆撃 |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 4 |asin=B000J9GF8I |ref={{SfnRef|カール・バーカー|1971}} }}
* {{Cite journal|和書 |author=リンリ・オードリッジ |date=1997-03-01 |title=原爆投下 |url=https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00039396 |journal=日本語・日本文化研修プログラム研修レポート集 |publisher=広島大学留学生センター |ISSN=0917-9755 |ref={{SfnRef|リンリ・オードリッジ|1997}} }}
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* {{cite book|author=Haruko Taya Cook|year=1992 |title=Japan at War: an Oral History|publisher=New Press|isbn=978-1-56584-039-3|ref={{SfnRef|Cook|1992}}}}
* {{Cite book|author=Vic Flintham|title=High Stakes: Britain's Air Arms in Action 1945-1990|publisher= Pen and Sword |date=2009|isbn=1844158152|ref={{SfnRef|Flintham|2009}}}}
* {{Cite book|author=Roy E. Appleman, James M. Burns, Russell A. Gugeler, John Stevens|url=https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/index.html|title=OKINAWA: The Last Battle|series=United States Army in World War II: The War in the Pacific|location=Washington DC|publisher=United States Army Center of Military History|date=1947|ref=appleman}}
 
** 和訳書:{{Cite book|和書|author=米陸軍省戦史局(編)|others=喜納建勇(訳)|title=沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い|publisher=出版社Muge|date=2011|isbn=978-4-9904879-7-3|ref=喜納訳}}
** 和訳書:{{Cite book|和書|author=米国陸軍省(編)|others=外間正四郎(訳)|title=沖縄:日米最後の戦闘|publisher=光人社|date=1997|isbn=4769821522|ref={{sfnRef|米国陸軍省|1997}}}}
* Antony Beevor(著)、''D-Day: The Battle for Normandy'', Viking Adult, 2009, ISBN 0-670-02119-9
** 和訳書:{{Cite book |和書 |author=アントニー・ビーヴァー|authorlink=アントニー・ビーヴァー |others=[[平賀秀明]](訳) |year=2011 |title=ノルマンディー上陸作戦1944(上) |publisher=[[白水社]] |isbn=978-4560081549 |ref={{SfnRef|ビーヴァー|2011a}} }}
** 和訳書:{{Cite book |和書 |author=アントニー・ビーヴァー |others=平賀秀明(訳) |year=2011 |title=ノルマンディー上陸作戦1944(下) |publisher=白水社|isbn=978-4560081556|ref={{SfnRef|ビーヴァー|2011b}} }}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}