「花束みたいな恋をした」の版間の差分

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制作発表時において、脚本を担当した坂元は「憧れでも懐かしさでもない、現代に生きる人の[[ラブストーリー]]を描きたいと思った。この物語は2人の男女がただ恋をするだけの映画であるが、出会った2人の5年間の模様を純粋に描き出したつもりです」とコメントを残している<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20191030/3/|title=有村架純&菅田将暉、坂元裕二ワールドへ! 映画「花束みたいな恋をした」製作決定|newspaper=[[映画.com]]|date=2019-10-30|accessdate=2019-10-30}}</ref>。
 
監督を担当した[[土井裕泰]]は坂元と話し合い、「ただただそこにいる人を最後まで(肯定も否定もなく)ニュートラルに見つめ続ける」というテーマの中で撮影を行った<ref>{{cite news|url= https://cinemore.jp/jp/news-feature/1822/article_p1.html |title= 『花束みたいな恋をした』土井裕泰監督の“映画に挑む覚悟”を変えた、脚本家・坂元裕二の存在【Director's Interview Vol.103】 |publisher=cinemore|accessdate=2023-03-08}}</ref>。
 
恋人同士の5年間を演じた菅田と有村は撮影中、遠慮せずに信頼関係を作りあげていった。有村は「大切だったのは、芝居の場でどうこうするというよりも、それ以外の部分で、どこまで時間を共有できるかということ。ほぼ毎日、朝から夜までずっと一緒にいたんですが、約1カ月半という撮影期間で、5年分の光景を演じなければなりません。だからこそ、互いに歩み寄っていった部分はあると思います」と言い、菅田も「時間の共有――それでしかなかったんです。何気ない会話のなかで『こういうものが好きなんだな』『それは、よくわかる』『それはちょっとわからない』なんて思いが交わされていくじゃないですか。麦と絹には、それが必要だった」と語っている<ref>{{cite news|url=https://eiga.com/movie/92102/interview/|title=菅田将暉&有村架純、坂元裕二の“役者が生きられる脚本”で積み上げていった2人の時間|publisher=映画.com|date=2021-1-30|accessdate=2021-9-15}}</ref>。
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[[ミイラ]]展や[[ガスタンク]]など、今まで誰とも共有できなかった好きなものを紹介し合った末に成り行きで恋人同士になった二人は大学を卒業後好きな仕事や生活を守るために[[フリーター]]となり、[[調布市]]郊外の[[多摩川]]沿いの部屋を借りて[[同棲]]生活を始める。[[イラストレーター]]を志していた麦だが、その仕事は安く買い叩かれる。絹は[[簿記]]の資格を取り医院の事務仕事を始める。同棲の部屋を訪問した二人の親たちは、彼らに社会人としての責任感を問い、麦は親からの仕送りを絶たれる。麦は二人の生活維持のために営業職として就職し、やがて仕事に忙殺されイラストへの熱意を失う。麦は絹とともに楽しんでいた漫画やゲームの新作にも興味を失い、二人の間の会話やセックスもなくなってゆく。
 
そんなある日、絹は収入は下がるが自分の好きなことを活かせる仕事にできるイベント会社への転職を決める。しかし、生活を守るために熱心に仕事をしていた麦は遊びの延長のようだとその仕事を見下す言葉を放ってしまい、言い争う中で焦った勢いで麦は絹にプロポーズし、仕事をやめて本当に好きなことをすればいいという。絹はそのプロポーズに違和感を覚え、拒絶する。
 
[[2019年の日本|2019年]]、友人の結婚式に招待された麦と絹は、その後ファミレスで別れ話をするが、麦は土壇場で別れたくないと言い出し、結婚し恋愛感情が失われても長年連れ添っている夫婦のように、家族の関係を続ければいいという。しかしそのとき、近くの席に現れたカップルが、好きな[[カルチャー]]について語り笑いあう姿を見た絹は、複雑な感情を覚え何を思ったのか店を飛び出す<ref name="realsound202102">{{Cite web2|title=『花束みたいな恋をした』はなぜ観客の心に響くのか 菅田将暉と有村架純の役柄から紐解く |url= https://realsound.jp/movie/2021/02/post-703919_2.html|publisher=リアルサウンド映画部|accessdate=2022-06-18}}</ref>。麦は絹の後を追って二人は抱擁し、別れを決める。引っ越しまでの3か月間、別れた後の二人は共有の荷物や同居猫の'''バロン'''の行き先を自分たちらしく相談しあい、一緒に好きなものを楽しむ友人としての日々を送る。
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* [[Filmarks]]による2021年1月第5週公開映画の初日満足度ランキングにおいて1位を記録した<ref>{{cite web|title=【発表】映画『花束みたいな恋をした』初日満足度ランキング1位獲得|url=https://filmaga.filmarks.com/articles/92276/|website=FILMAGA|accessdate=2021/2/27}}</ref>。
* [[中国]]最大のレビューサイト「Douban」における2021年映画ランキングにおいて日本映画部門で第1位、外国映画部門で第2位にランクインし<ref>{{Cite web|title=「花束みたいな恋をした」中国で熱い支持 「Douban」が2021年度の各種ランキング発表 |url=https://eiga.com/news/20211230/7/ |website=映画com|accessdate=2022-03-02}}</ref>、最終的に中国国内での公開規模が32の行政区にまで広がり、上映館3700館、1万スクリーン以上と近年の邦画において異例のスケールで展開された<ref>{{Cite web|title=「花束みたいな恋をした」中国で封切り! 公開規模は上映館3700館、1万スクリーン以上 |url=https://eiga.com/news/20220301/14/ |website=映画com|accessdate=2022-03-02}}</ref>。また、2022年4月中旬には[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の影響下で中国国内における映画館の営業率が50%を切る中<ref name="営業率"/>、興収が9000万元(レート換算で18億円)を超え、6月いっぱいまでのロングラン上映が決定されている<ref name="9000万元"/>。
* [[映画評論家]]、[[ラジオDJ]]の[[宇多丸]]は今作を『[[ブルーバレンタイン]]』、『[[(500)日のサマー]]』、『[[いつも2人で]]』のような[[恋愛]]の成就がゴールになっていない話、「恋愛映画」というより、「恋愛についての映画」という傑作群の系譜上にありながら、恋愛というものを見つめる、考察・俯瞰する目線の純度の高さ、混じりっけのなさにおいて今作は突出しており、いわば「純愛映画」ではなくて「純・恋愛映画」<ref name="utamaru">{{Cite web|date =2021-02-11|url = https://www.tbsradio.jp/561132 |title = 宇多丸、『花束みたいな恋をした』を語る!【映画評書き起こし 2021.2.5放送】 |publisher =TBSラジオ [[アフター6ジャンクション]]|accessdate =2021-03-21}}</ref>と評した。また、今作の特徴として「[[ドラマ]]を起こすための外部要因」と言われる第3の[[キャラクター]]を交えた[[三角関係]]、[[病気]]、[[事故]]、[[事件]]などの要素を一切置かず、主人公2人の関係性だけに焦点を絞り、あえて言えば、もうひとつ「[[時間]]」がもう1人の主役であり、時間が過ぎることによって[[社会]]と直面せざるを得なくなることから「絹と、麦と、時間」がこの映画の3人の主人公であるのでは無いかと考察した<ref name="utamaru" />。加えて、「“自分の似姿”としての理想のパートナー」という「美しくも儚い[[幻想]]」がこの映画のキモであり、劇中大量に登場する、[[2015年]]から[[2020年]]にかけての彼らの興味、趣味を反映した[[カルチャー]]要素は製作者側の[[インタビュー]]等を読む限り「具体的な個人」に対するリサーチに基づくもので、必然的に実在感がある並びになっており、そうした個々のカルチャー要素のある[[固有名詞]]に対して、やいのやいの言って楽しむこともできるが、一番肝心なのは、そうしたカルチャーへの傾倒というのは、絹、あるいは麦、両者にとって、それ以外の世界、[[他者]]たちと自分を隔てる、自分を守る、自分というものの固有性を構成する、言ってしまえば[[アイデンティティ]]の一部でもあるのではないかと分析した<ref name="utamaru" />。そして、[[有村架純]]と[[菅田将暉]]の演技力によって「周りの人に埋もれている人」に見え、だからこそ、序盤、彼らが互いに共通するもの一個一個によって距離を縮め、自分の似姿をついに見つけた、[[ソウルメイト]]についに出会った!という喜びが生まれ、それを自分にとって大切な何かと置き換えつつ観客の我々は見ることができ、あの溢れかえる固有名詞たちはむしろ分からない方が「この2人には分かっている」という[[暗号]]としてその2人の固有性を感じることができると分析し<ref name="utamaru" />、また、そのカップル2人の関係に、先程の「時間経過」という第3の[[ファクター]]が関わってくることで、その似姿というのものの幻想が、取り巻く[[環境]]の変化によってみるみる枯れ落ちて、他者性がむしろ浮き上がり、対社会、[[現実]]の中で生きていくということと[[理想]]に対しどう折り向きいをつけるかということの社会の問題が浮かび上がってくる、と考察している<ref name="utamaru" />。加えて、この種の作品の系譜としては、異例なほど爽やかで、さらに、どういった意味で受け取ったとしても[[エンディング]]の切れ味は見事そのものであり、近年の日本映画でこんな見事に終わる映画、ちょっとないんじゃないかな?というくらい最高の終わり方である、と絶賛した<ref name="utamaru" />。
*主人公たちと世代が近い[[フリーアナウンサー]]の[[宇垣美里]]は、作品内ではただただ心地よい美化された懐かしさだけではなく学生時代ならではのあらゆるカルチャーに対する幼く愚かな向き合い方や自意識も容赦なくしっかりと描かれており、美化されていない懐かしさや近過去のあらゆる描き方にとにかく驚嘆、驚いたと映画を見た際の第一印象を述べた。さらに、宇多丸による大学時代から[[社会人]]にかけて麦(菅田将暉)のしゃべり方の速度が変わるという指摘に関連して、絹(有村架純)の「前髪の返還」に着目し、大学時代はくせっ毛ぽくなっており、ブローされていない事で「なんでもない人」をビジュアルとして上手く演出しているが、社会人として生活する上で前髪をブローするようになることで綺麗な前髪になり「大人になること」による[[ディテール]]の絶妙な変化を指摘した<ref name="Spotifyjunk202102"/><ref>{{Cite web|date =2021-02-09|url = https://miyearnzzlabo.com/archives/72049 |title = 宇垣美里と宇多丸『花束みたいな恋をした』を語る |website = [[みやーんZZ|miyearnzz labo]] |accessdate =2021-03-21}}</ref>。加えて、宇垣は題名にある「花束みたいな」というのは、過去に対して前向きで綺麗な恋という表の意味に加えて、根を張ることのないような恋という実は重く[[意味深]]な裏の意味も込められているのではないかと指摘し、誰にでも過去を振り返ってみると後悔したり反省したり恥ずかしくなるような安易な自意識や大前提から間違えていたような失敗があるけれど、今の反省している自分とは違うその時の幼くて愚かな自分だけが確かに感じていた喜びや幸せ、悲しさといった感情や輝きそのものまでをも全否定するのではなくそれはそれで別物としてたった1人自分の中だけでなら大事にしてもいいという「根を張ることのなかった花」を肯定してくれている映画なのではないかと述べている<ref name="Spotifyjunk202102">{{Cite web|url =https://open.spotify.com/episode/29LrbGoEDR7B6xjMbAzoqX|title = 宇垣『花束みたいな恋をした』を独自の目線で語る |website =Spotify |accessdate =2021-03-21}}</ref><ref>{{Cite web|date =2021-02-09|url = https://miyearnzzlabo.com/archives/72049 |title = 宇垣美里と宇多丸『花束みたいな恋をした』を語る |website = [[みやーんZZ|miyearnzz labo]] |accessdate =20212023-03-2126}}</ref>。
*[[現代ビジネス]]に[[寄稿]]されたライター・コメカの記事によると、本作がヒットした理由を考える上で、主人公の1人である絹が劇中で口にする「わたしはやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」という台詞に着目し、「字面だけだと[[世間]]知らずの甘えた発言のように見える台詞だが、本作を観ると、この言葉がとても切実なものとして胸に響いてくる」とした上で<ref name="komeka">{{Cite web|author=コメカ |date =2021-03-21|url =https://gendai.media/articles/-/81370?imp=0|title = 大ヒット『花束みたいな恋をした』、有村架純のセリフをすべての大人が噛みしめるべき理由「ちゃんと楽しく生きたいよ」 |publisher = 現代ビジネス|accessdate =2021-03-23}}</ref>、本作の主人公の特徴として[[サブカルチャー]]を[[嗜好]]する人たちがやりがちな 「自分のほうがより文化に詳しい」「自分はこんな経験だってしている」といった「卓越化競争」を絹と麦はふたりの間においても、文化系の友人たちとの間においても、こういった[[コミュニケーション]]をほとんど行わず、好きなものを共有できる喜びを分かち合っている描写が特に目立つことから、「絹と麦にとってサブカルチャーは自分たちを護る[[繭]]のようなもの」であり、大好きな[[カルチャー]]で埋め尽くされた[[多摩川]]沿いの部屋は、[[社会]]から距離を置いたふたりの「籠(こも)り」の場所であるかのように映っていると分析した<ref name="komeka" />。そして、そういった描写から本作の[[脚本]]を担当した[[坂元裕二]]の社会的な主題を取り上げている過去作品に共通して描かれる「社会から[[疎外]]されるつらさのなかで生きながら、それでも思考停止せず、自分自身や他者に真摯に向き合おうとする人々」のように本作の主人公達は過酷な過去を背負っているわけではないが、社会の[[主流]]に上手く馴染めないながらも必死に生きているという点において、絹と麦は、『[[それでも、生きてゆく]]』、『[[いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう]]』といった坂元の過去の作品の登場人物たちと同じ切実さを抱えているとし、少しでも「好き」を持ち寄ってなんとか楽しく生きていこうとする人々の切実な場所としてサブカルチャーが描かれるのは、坂元が持つ人間への視線の在り方に裏打ちされていると評した<ref name="komeka" />。また、作品中盤、麦が[[イラストレーター]]一本での[[自活]]を諦め、[[就職]]を決意するところから物語が転調し、麦が社会と向き合っていく中で[[マッチョイズム]]を少しずつ剥き出しにしていくことにより[[モラトリアム]]が崩壊していく過程において<ref name="komeka" />、麦と絹のカルチャーへの向き合い方や社会における生き方の本質的な違いが顕在化していき、お互いの人生に対する[[ハードル]]をさげ「[[恋愛関係]]ではなく、[[結婚]]し、[[家族]]として共に生きていくのなら、それでもやっていけるのかもしれない」という妥協した末の結論ではなく、「かつての自分たちのような2人の会話」をきっかけとして最後の最後で思考停止的価値観に対し、複雑な感情の中でギリギリで抗ったのは<ref name="komeka" />、好きなカルチャーを持ち寄って、互いにそれを交換し、自分なりの[[感受性]]でそれを受け止めながら過ごしたふたりの道のりが無駄なものではなく、そこで育まれた「楽しく生きることへのこだわり」が精神的な成長期を迎えたふたりの「抵抗」を支えたのではないかと、考察した。そして、筆者は「どんな社会状況においても、どんな立場の人にとっても、『人はどのように生きていくべきなのか』という[[命題]]は常に[[普遍]]的なものとしてある。『花束みたいな恋をした』のなかで描かれた、『ちゃんと楽しく生きたい』という願い。一見甘く見えるこの願いは、『[[それでも、生きてゆく]]』の終盤、双葉が極限の緊張感のなかで口にする『真面目に生きたいんです』という願いと、本質的には同じ切実さを持っているのではないだろうか。」と、坂元の過去の脚本との共通点を挙げ、「過酷になり続ける[[現代社会]]のなかで、思考停止せず自分なりにものを考え続け、[[他者]]を想いながら生きていくことへの強い気持ちが、他の坂元作品と同じように本作には溢れており、そのことがやはり、多くの人の心を強くとらえているのではないかと、私は思うのだ」と評した<ref name="komeka" />。
*[[現代ビジネス]]に[[寄稿]]された[[高木敦史]]の記事において、時間がなく2人が見に行けなかった映画として作中に登場する[[エドワード・ヤン]]監督による[[1991年]]の台湾映画『[[牯嶺街少年殺人事件]]』と『花束みたいな恋をした』では、 小四と小明、麦と絹の関係性において似たすれ違いが存在していると指摘した上で、両作に共通する物語の側面として、「自分の夢はふたりの夢だと勘違いし、夢を追ううちに相手を[[偶像]]化してしまい、やがて[[実像]]とのズレに絶望する」という面があり、この点において『クーリンチェ』の小四と『花束』の麦は同じで、そんな相手を許容していたが次第に息苦しさを感じ始めるという点においても、『クーリンチェ』の小明と『花束』の絹は同じ問題を抱えており、要するに「自分の夢の中心に他人を据えること」と「他人の夢の中心に自分を据えること」によるすれ違いが両者の関係性において共通していると評した<ref name="takagi">{{Cite web|author=高木敦史 |date =2021-03-30|url = https://gendai.media/articles/-/81605?page=1&imp=0|title = 『花束みたいな恋をした』ふたりのすれ違いを暗示した、映画『クーリンチェ少年殺人事件』の存在感 |publisher = 現代ビジネス|accessdate =2021-03-30}}</ref>。加えて、『クーリンチェ』の場合は閉塞した社会での複雑な状況ゆえに、という側面があったが、より[[平和]]なはずの世界に住んでおり似たもの同士を自認するはずの『花束』の麦と絹がなぜそのズレに気づかなかったのかというと、そこにサブカルチャーが関連してくると筆者は指摘し、『花束』におけるサブカルは一見すると「趣味が合う」ことを示す[[記号]]に過ぎないが、『クーリンチェ』を経ることでふたりの趣味がサブカルであったことの必然性が明らかになると分析し、『花束』では、「何が嫌いか」について一度だけ話すシーンがあり、あまりにもたわいないものであったことから、同時に「何が嫌いか」についてさほど自覚的でなかったことの証左にも見え、加えてふたりが好きなものについて語るとき、相席した4人で[[押井守]]監督と居合わせる場面における様子から読み取れるように、その多くは「これの良さを理解しない者とは相容れない」というものであり、これらの点から察するに、よく似た[[嗜好]]のふたり、一見好きなものが同じ彼らは、実は「メジャーなものを好む人たちには理解されないマイナーなものが好き」同士なのではなく、「マイナーなものを理解せずメジャーなものを好む人たちが嫌い」であり、ふたりの共通点は「好きなもの」ではなく「嫌いなもの」だったのではないかと分析した<ref name="takagi" />。加えて「何が嫌いか」に無自覚なふたりが、嫌いなものから目を逸らして生きる中でサブカルに傾倒していき、その嫌いなものの正体をより突き詰めていけば、それは自分たちのようなマイナーな存在を理解しないメジャーな存在の総体——即ち[[社会]]なのではないかと考察した。つまり、ふたりは共に社会に対する「生きづらさ」を感じており、「[[普通]]とは」「[[責任]]とは」「[[人生]]とは」とあれこれ悩み考えるのは、全て社会に立ち向かうためで、そういった視点で見た場合『花束みたいな恋をした』は、麦と絹が「サブカル」という表層を通じて「生きづらさ」を分かち合い、対抗すべく手を取り合う姿を描いた映画であると読み取れることができ、だからこそ、この映画は多くの人の共感を得ながらも一方で見終わった後に語りたくなるのは画面に映る恋愛模様の奥に感じる(「社会」と名付けられている)何かの正体を見極めたいという欲求からくるものではないかと考察した<ref name="takagi" />。そして、『クーリンチェ』の小四と小明は、この世は退屈なことや嫌なことばかりだという点を分かち合っており、鬱屈とした世界に立ち向かうための手段があまりにも相容れないものだったため、最後は[[殺人]]という許されざる[[悲劇]]に向かい、『花束』の麦と絹もまた、社会の生きづらさを共有し、ふたりそれぞれ社会に対抗する手段を模索したものの、その手段は分かち合えないものだったが、『花束』が『クーリンチェ』と異なるのは、ふたりがお互いに相手を尊重し、同意の上で袂を分かち、それぞれの道を歩き出したことであり「すれ違い」が悲劇ではなく、成長の契機として描かれている部分にあるとした上で、筆者は「もちろんこの二作は[[時代]]も[[舞台]]も違いますから、単純な比較は無意味です。しかし『クーリンチェ』が当時の社会情勢を[[写実]]的に描いた台湾ニューシネマの中での名作として語られるのと同じように、『花束』は「普通」がわかりづらい現代日本における生きづらさと苦難を写実的に描きつつ、それでもなおポジティブな物語にまとめあげた名作として語られる映画だと感じます。」と評した<ref name="takagi" />。
*本作の主人公と同世代である書評家の[[三宅香帆]]は[[2023年]]1月に始まった[[集英社新書]]プラスの連載企画第1回目において本作を取り上げ、[[就職]]後正社員となった麦が長時間の労働やそれに伴う競争によって本を読めなくなっていったり、誰かの作品を見ても以前ほどそこから自分だけの何かを感じとることができなくなっていく様子について、当時映画を見た際には同年代の友人たちと「最近見た映画の中でいちばん身につまされてしまった」と話題に上がったことが強く印象に残っており、この映画がヒットした様々な要素の1つとして「『労働と読書の両立』というテーマが、現代の私たちにとって、想像以上に切実なものである」という事実が存在するのではないかと述べている。加えて、この映画の中で個人的に気になった要素の一つに主人公である地方出身で[[花火]]職人の息子である麦と都内出身で[[2020年東京オリンピック]]事業に関わっている大手広告代理店の娘である絹の対比によって「労働環境が異なる」特徴以外に「読書の意志の有無が、社会的階級によって異なる」という文化的趣味に触れる精神的な余裕、姿勢の背後にある階級格差の切実な問題も[[恋愛映画]]というジャンルを通して描かれているのではないかと指摘している<ref>{{cite news|url= https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/work_books/22341 |title= なぜ働いていると本が読めなくなるのか 第1回労働と読書は両立しない? |website=集英社新書プラス| date= 2023-01-30 | accessdate=2023-03-08}}</ref>。
*[[新書大賞]]2023において第2位に取り上げられた書籍「映画を早送りで観る人たち」を執筆した[[稲田豊史]]は[[週刊SPA!]]の映画紹介コラムの中で本作をおすすめの映画作品として取り上げ「本作は切ない泣けるラブストーリー…ではない」と題し、広告、予告からも切なくて泣ける[[サブカル]]ラブストーリーに擬態しているが実際は現代のある幼い文化系学生カップルのリアル生活を社会的な視点で批評的に扱った切実な作品であると紹介している<ref>{{Cite news|title= 切ない泣けるラブストーリー…にあらず!名脚本家が炙り出す文化系カップルのリアル|newspaper = [[週刊SPA!]] |page=12|date=2021-01-27}}</ref>。加えて、[[集英社新書]]プラスにおける対談企画の中でも本作を話題に挙げ、作品名にも[[ダブル・ミーニング]]に皮肉が効いている一方で、ある種の観客が「ベタな恋愛もの」として受け取っていることも興味深く『ルポ 誰が国語力を殺すのか』([[石井光太]]、[[文藝春秋]]、2022年)を例に挙げ、冒頭のシーンをはじめとした作品構造そのものの批評性を含め、皮肉を皮肉として受け取れなかったり、映像作品にしろ文章にしろ最後まで内容を読まず意図を考えたり理解する前に怒ったり、行間を読めない人が全世代的に増えていることを指摘している<ref>{{cite news|url= https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/regista_inada/21947 |title= ファストな文化は誰が作ったのか?稲田豊史と読む『ファスト教養』 |website= 集英社新書プラス |accessdate=2023-03-08}}</ref>。
*[[映画評論家]]の小野寺系は主人公の2人は日本人の大多数から見ればマニアックな趣味を持っているようにあえて描かれているが、一方で過去編における学生時代の2人による意図的に描かれた良質なポップカルチャーの表層をなぞるだけのような感じ方、考え方、姿勢が表面化してくるのが互いの鏡像として描かれた2人による同棲が始まった後の展開であり、本作は「自分のことを特別だと思っていた人間が、じつはそうでもない存在だった」といった事実に、少しずつ気づいていくという積み重ねの物語という側面も持っているのではないかと評している<ref name="realsound202102"/>。また、小野寺は本作で描かれている川の側で慎ましい日々を送る2010年代後半の東京の生活というのは、かつて大ヒットして映画の題材ともなった[[南こうせつ]]によるフォークソング「[[神田川 (曲)|神田川]]」で歌われた世界の現代版とも受け止められると分析し、「神田川」で歌われるのは[[全共闘]]、[[学生運動]]が広まった時代に当事者だった者たちの挫折と、その後の心情を言外に救いあげるような、日本のフォークソングブームの本質をついたものであり、学生運動に身を投じた若者たちの熱と、その後同棲する恋人の優しさにほだされて“普通の幸せ”に取り込まれることで、かつて批判していたはずの社会構造やシステムに順応していってしまう矛盾への葛藤が凝縮されており、[[団塊の世代]]共通の感覚として支持された世界観であるが、その一方で、2010年代の学生の世代に広く共通するものといえば、経済状況の悪化による[[貧困]]を経験している場合が多くなっていることであり、この世代が感じているのは、凋落していく日本社会のなかでどうサバイブしていくかという、かつての全共闘世代と比べてきわめて現実的な不安であり、殺伐とした社会に飲み込まれ生活費ばかりを追い求めるようになる自分たちへの憐憫であるのではないかと小野寺は評し、このように本作が映し出すのは、いくつかの世代に普遍的に共通する忌避や葛藤、複雑さを、2010年代ポップカルチャーに耽溺する20代の経済状況から見る世界として表現した物語だと理解することができるが、それを映画作品として、ここまで意識的に見せるというのはかなり珍しく、かつてのフォークソング同様に、鎮魂という側面で本作が心に響いた観客も多いのではないかと小野寺は評している<ref name="realsound202102"/>。
*ドラマ・映画ライターの綿貫大介が[[CREA (雑誌)|CREA]]に寄稿した本作の映画評の中で、本作は「好きが同じだけではうまくいかない、一緒に生活できない」という結論に至る過程の描き方が多彩であり、その中でも文化に対する向き合い方として純粋な好奇心や探究心による「これが好き」ということだけではなく、無意識に自分という存在を肯定するために「これが好きな自分でいること」が大事になってしまうようなどの世代の人も避けられない瞬間も描写されていると指摘しており、本作の脚本を担当した坂元の過去作「[[最高の離婚]]」や「[[カルテット (2017年のテレビドラマ)|カルテット]]」においても主人公が若い学生時代の頃、流れている楽曲に対して「安っぽい」と無神経な皮肉を言ってしまった時にそれが主人公の同棲相手にとってとても大切な楽曲であったことから2人の関係性が取り返しのつかない形で破綻するきっかけだったと判明するシーンや、主人公が恋人時代に夫から借りていた本を咄嗟の判断で鍋敷きにしてしまい夫を傷つけてしまっていたことがわかるシーンなど、あるカルチャーがその人にとっての[[依り代]]や自己同一化の対象になっており、このようなカルチャーを通じた生活上のズレが関係性にヒビを生じさせる場面は坂元が脚本を書き下ろした本作や過去作に共通している文化と生活を関連づけるユニークな演出方法のひとつだと評している<ref>{{cite news|url= https://crea.bunshun.jp/articles/-/30012?page=2 |title= 過去の坂元裕二作品から読み解く 
映画『花束みたいな恋をした』|publisher=accessdate=2023-03-08}}</ref>。
*[[映画評論家]]の小野寺系は主人公の2人は日本人の大多数から見ればマニアックな趣味を持っているようにあえて描かれているが、一方で過去編における学生時代の2人による意図的に描かれた良質なポップカルチャーの表層をなぞるだけのような感じ方、考え方、姿勢が表面化してくるのが互いの鏡像として描かれた2人による同棲が始まった後の展開であり、本作は「自分のことを特別だと思っていた人間が、じつはそうでもない存在だった」といった事実に、少しずつ気づいていくという積み重ねの物語という側面も持っているのではないかと評している<ref name="realsound202102"/>。また、小野寺は本作で描かれている川の側で慎ましい日々を送る2010年代後半の東京の生活というのは、かつて大ヒットして映画の題材ともなった[[南こうせつ]]によるフォークソング「[[神田川 (曲)|神田川]]」で歌われた世界の現代版とも受け止められると分析し、「神田川」で歌われるのは[[全共闘]]、[[学生運動]]が広まった時代に当事者だった者たちの挫折と、その後の心情を言外に救いあげるような、日本のフォークソングブームの本質をついたものであり、学生運動に身を投じた若者たちの熱と、その後同棲する恋人の優しさにほだされて“普通の幸せ”に取り込まれることで、かつて批判していたはずの社会構造やシステムに順応していってしまう矛盾への葛藤が凝縮されており、[[団塊の世代]]共通の感覚として支持された世界観であるが、その一方で、2010年代の学生の世代に広く共通するものといえば、経済状況の悪化による[[貧困]]を経験している場合が多くなっていることであり、この世代が感じているのは、凋落していく日本社会のなかでどうサバイブしていくかという、かつての全共闘世代と比べてきわめて現実的な不安であり、殺伐とした社会に飲み込まれ生活費ばかりを追い求めるようになる自分たちへの憐憫であるのではないかと小野寺は評し、このように本作が映し出すのは、いくつかの世代に普遍的に共通する忌避や葛藤、複雑さを、2010年代ポップカルチャーに耽溺する20代の経済状況から見る世界として表現した物語だと理解することができるが、それを映画作品として、ここまで意識的に見せるというのはかなり珍しく、かつてのフォークソング同様に、鎮魂という側面で本作が心に響いた観客も多いのではないかと小野寺は評している<ref name="realsound202102"/>。
*本作の主人公と同世代である書評家の[[三宅香帆]]は[[2023年]]1月に始まった[[集英社新書]]プラスの連載企画第1回目において本作を取り上げ、[[就職]]後正社員となった麦が長時間の労働やそれに伴う競争によって本を読めなくなっていったり、誰かの作品を見ても以前ほどそこから何かを感じとることができなくなっていく様子について、当時映画を見た際には同年代の友人たちと「最近見た映画の中でいちばん身につまされてしまった」と話題に上がったことが強く印象に残っており、この映画がヒットした様々な要素の1つとして「『労働と読書の両立』というテーマが、現代の私たちにとって、想像以上に切実なものである」という事実が存在するのではないかと述べている。加えて、この映画の中で個人的に気になった要素の一つに主人公である地方出身で[[花火]]職人の息子である麦と都内出身で[[2020年東京オリンピック]]事業に関わっている大手広告代理店の娘である絹の対比によって「労働環境が異なる」特徴以外に「読書の意志の有無が、社会的階級によって異なる」という文化的趣味に触れる精神的な余裕、姿勢の背後にある階級格差の切実な問題も[[恋愛映画]]というジャンルを通して描かれているのではないかと指摘している<ref>{{cite news|url= https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/work_books/22341 |title= なぜ働いていると本が読めなくなるのか 第1回労働と読書は両立しない? |website=集英社新書プラス| date= 2023-01-30 | accessdate=2023-03-08}}</ref>。
*[[新書大賞]]2023において第2位に取り上げられた書籍「映画を早送りで観る人たち」を執筆した[[稲田豊史]]は[[週刊SPA!]]の映画紹介コラムの中で本作をおすすめの映画作品として取り上げ「本作は切ない泣けるラブストーリー…ではない」と題し、広告、予告からも切なくて泣ける[[サブカル]]ラブストーリーに擬態しているが実際は文化系カップルのリアルを社会的な視点で批評的に扱った切実な作品であると紹介している<ref>{{Cite news|title= 切ない泣けるラブストーリー…にあらず!名脚本家が炙り出す文化系カップルのリアル|newspaper = [[週刊SPA!]] |page=12|date=2021-01-27}}</ref>。加えて、[[集英社新書]]プラスにおける対談企画の中でも本作を話題に挙げ、作品名にも[[ダブル・ミーニング]]に皮肉が効いている一方で、ある種の観客が「ベタな恋愛もの」として受け取っていることも興味深く『ルポ 誰が国語力を殺すのか』([[石井光太]]、[[文藝春秋]]、2022年)を例に挙げ、皮肉を皮肉として受け取れなかったり、最後まで内容を読まず意図を考えたり理解する前に怒ったり、行間を読めない人が全世代的に増えていることを指摘している<ref>{{cite news|url= https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/regista_inada/21947 |title= ファストな文化は誰が作ったのか?稲田豊史と読む『ファスト教養』 |website= 集英社新書プラス |accessdate=2023-03-08}}</ref>。
 
== 受賞 ==
* 第13回[[TAMA映画賞]](2021年)<ref>{{Cite web| url =https://www.tamaeiga.org/2021/award/ | title = 第31回映画祭TAMA CINEMA FORUM 第13回TAMA映画賞 | date = 2021-10-07| publisher = TAMA映画賞| accessdate = 2021-10-26}}</ref>