「アルフレート・ローゼンベルク」の版間の差分
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[[ファイル:Alfred Rosenberg's office from 1942.jpg|サムネイル|1942からの東部占領地域大臣アルフレート·ローゼンベルクのオフィス]]
[[ファイル:Statsakt in Berlin. (8619189793).jpg|サムネイル|298x298ピクセル|ノルウェー首相クヴィスリング(左)と(ベルリン1942年)]]
'''アルフレート・エルンスト・ローゼンベルク'''({{Lang-de|Alfred Ernst Rosenberg}}, [[1893年]][[1月12日]] - [[1946年]][[10月16日]])は、[[ドイツ]]の[[政治家]]、[[思想家]]。[[国
== 生涯 ==
[[1893年]][[ロシア帝国]]領[[エストニア]]のレヴァル(現[[タリン]])に、ドイツ系[[商館]]の支配人を務めていた[[バルト・ドイツ人]]の子として生まれた{{sfn|井代彬雄|1972|pp=25}}。ローゼンベルク姓は[[ユダヤ人]]に多い姓だが、[[バルト諸国|バルト]]では非ユダヤ人にも一般的な姓だった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=36}}{{efn2|一部のジャーナリストの説では、ローゼンベルク家は[[ドイツ民族|ドイツ系]]の血統ではなく、[[ラトビア人]]、あるいはユダヤ人であるとされているが、立証はされていない{{sfn|井代彬雄|1972|pp=25}}。}}。
母は
[[第一次世界大戦]]による[[東部戦線 (第一次世界大戦)|ドイツ軍の侵攻]]によってローゼンベルクは[[モスクワ]]に移り、モスクワ高級工科学校(現在の[[バウマン記念モスクワ国立工科大学]])に入学した。しかしまもなく[[ロシア革命]]が発生し、ローゼンベルクは革命の進展を目の当たりにした<ref name = "rb_dv84">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、84頁。</ref>。彼は革命期の[[アナキズム]]に強い嫌悪感を持ち、また[[共産主義]]革命を「ユダヤ人の陰謀」ととらえ、これらに強く反感を持つようになった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=27}}<ref name = "rb_dv85">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、85頁。</ref>。[[1915年]]にはヒルダ・リースマン(Hilda Leesmann)と結婚した<ref name = "rb_dv83">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、83頁。</ref>。[[1918年]]には建築学の資格を取得し、レヴァルに進軍してきた[[ドイツ軍]]に入隊を志願したが認められなかった。その後締結された[[ブレスト=リトフスク条約|ボリシェヴィキ政府とドイツの休戦協定]]に衝撃を受け、11月には「祖国を得るため我が家を棄て」[[ベルリン]]に向けて旅立った{{sfn|井代彬雄|1972|pp=28}}。この頃には、ローゼンベルクとヒルダの結婚生活は事実上の破局を迎える<ref name = "rb_dv116">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、116頁。</ref>。
=== 初期のナチ党幹部 ===
しかし、ベルリンは当時戦争敗北のため混乱の極みにあった。1919年初頭、ローゼンベルクは職を得るため[[ミュンヘン]]に移ったが、亡命者救済委員会の世話になって暮らした{{sfn|井代彬雄|1972|pp=29-30}}。ある日、路上で妻ヒルダの友人と出会い、政治運動家で詩人の[[ディートリヒ・エッカート]]と出会うよう
1919年末頃には[[アドルフ・ヒトラー]]と出会い、[[ドイツ労働者党]](DAP)の党員となった。党員番号は626番だった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=30}}。DAPは[[1920年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]へと改称した。ローゼンベルクは[[ロシア語]]に堪能で、[[東方問題]]に詳しかったため、初期のナチ党幹部の中で一種独特の地位を築くことになった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=36-37}}。党は12月に『ミュンヒナー・ベオバハター』紙を買い取って『[[フェルキッシャー・ベオバハター]](「民族の観察者」の意)』と改め、ローゼンベルクはエッカートの補佐として編集助手となった<ref name = "rb_dv94-95">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、94-95頁。</ref>。その後エッカートが体調を崩して党務から退くと、かわって[[ヘルマン・エッサー]]が主筆となった。ローゼンベルクはこの人事に不満であり、素行の悪いエッサーを軽蔑したため両者の間は険悪となった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=36}}。1922年に『フェルキッシャー・ベオバハター』主筆となった<ref name="uey-251-257">[[#上山安敏
この頃、ローゼンベルクはその外交に対する視野からヒトラーに大変気に入られており、彼は「自分が意見を聞くのはローゼンベルクだけである」と{{仮リンク|クルト・リューデッケ|en|Kurt Ludecke}}に告げていた{{sfn|井代彬雄|1972|pp=38}}。また[[エルンスト・ハンフシュテングル]]もヒトラーが彼の大きな影響下にあったと指摘している{{sfn|井代彬雄|1972|pp=38}}。これらの点を{{仮リンク|コンラート・ハイデン|en|Konrad Heiden}}は「エッカートとローゼンベルクはヒトラーの教師だった。ヒトラーは数年の間、彼らの口真似をしているに過ぎなかった」と評している{{sfn|井代彬雄|1972|pp=43}}。ただし、事務や政務の能力には欠け、党内の有力な役職はエッサーや[[マックス・アマン]]らに握られていた{{sfn|井代彬雄|1972|pp=38}}。1923年には『国家社会主義ドイツ労働者党の本質、原則および目的』という綱領解説書を出版し、5万部ほどを売り上げた{{sfn|井代彬雄|1972|pp=38}}。
=== ヒトラーの代理人 ===
[[1923年]][[11月8日]]の[[ミュンヘン一揆]]では、翌日の失敗に至るまでヒトラーと行動を共にした。ローゼンベルクは逮捕を逃れ、[[ミュンヘン]]の各地に潜伏していた{{sfn|井代彬雄|1972|pp=44}}。ヒトラーは収監後、ローゼンベルクに党指導を一任した。ローゼンベルクは[[大ドイツ民族共同体]]という偽装団体を立ち上げ、ナチ党の運動を再開した。しかしこの運動の実権はまもなくエッサーや[[ユリウス・シュトライヒャー]]に握られ、ローゼンベルクの権力はほとんど無きに等しかった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=45}}。1月31日には[[ザルツブルク]]の幹部会合で党指導者代理に指名された{{sfn|井代彬雄|1972|pp=45-46}}が、ミュンヘンに残っていた幹部、エッサー、シュトライヒャー、アマンとローゼンベルクの関係は最悪であり、彼を「部分的ユダヤ人」や「フランス{{efn2|彼は[[第一次世界大戦]]勃発直前である[[1914年]]の夏に[[フランス]]を旅行しており、
このころ、党の問題となっていたのが、[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]の[[ドイツ民族自由党]]との合併問題であった。ローゼンベルクは党の合併には反対したが、合法的な選挙によってナチ党の勢力拡大を図るべきと考え、選挙での協力関係を結ぶことには同意した。これらの運動の連合である「[[国家社会主義自由運動]]」は[[1924年5月ドイツ国会選挙|5月の国会選挙]]で200万近い票を集めることに成功した。しかしヒトラーは当初選挙にも反対しており、合併問題についても意見をはっきりさせないなど、ローゼンベルクの方針にはっきりとした同意を与えなかった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=46}}。さらに6月16日にはヒトラーが「誰も自分の代理で行動したり声明したりする権限はない」と表明したことで、ローゼンベルクの党指導代理の地位は失われた{{sfn|井代彬雄|1972|pp=46-47}}。ローゼンベルクは反ユダヤ主義の新聞・雑誌の発行等の活動しか行えず、運動の主導権は他の幹部にすっかり奪われていた。ヒトラーは後にローゼンベルクがこの時期不忠であったと彼を激しく非難している{{sfn|井代彬雄|1972|pp=46}}。結局この体制は民族自由党との決裂と、ヒトラーの出獄によって終焉した。
[[1925年]]、ローゼンベルクは、6歳年下のヘドヴィヒ・クラマーと再婚し、2人の子供に恵まれた<ref name = "rb_dv116-117">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、116-117頁。</ref>。
[[1929年]]には{{仮リンク|ドイツ文化闘争連盟|de|Kampfbund für deutsche Kultur}}を創設した。[[1930年]]には国会議員となり{{sfn|井代彬雄|1972|pp=46}}、外務委員会に属した。
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=== ナチス政権下 ===
[[1933年]]4月にはナチ党の対外政策全国指導者に就任し、{{仮リンク|ナチ党外務局|de|Außenpolitisches Amt der NSDAP}}のトップとなった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=35}}。外務局の任務は、東ヨーロッパとバルカン諸国のファシスト集団との連絡を維持することであり、海外政策について[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]の外務省や[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]の{{仮リンク|リッベントロップ機関|de|Dienststelle Ribbentrop}}、[[エルンスト・ヴィルヘルム・ボーレ]]の{{仮リンク|ナチ党国外大管区|de|NSDAP/AO}}と争った。
外務局での仕事ぶりは褒められたものではなく、ローゼンベルクは諸外国の知識に欠け、外国語能力については、英単語の一つも理解できていなかった<ref name = "rb_dv147-148">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、147-148頁。</ref>。会話内容も、5分ほど喋ると、人種に関する会話に落ち着いてしまっていた<ref name = "rb_dv147-148"/>。初のロンドン訪問では、2人のイギリス人と親交を持つことに成功するも、その2人は後にスパイであることが判明するという体たらくであった<ref name = "rb_dv147-148"/>。
1934年にナチス全精神的・世界観的教育と育成の監視のための総統受任者となった<ref name="uey-251-257"/>。
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[[1939年]]には[[フランクフルト・アム・マイン]]にユダヤ人問題研究所(Institut zur Erforschung der Judenfrage)を設立した<ref name="uey-251-257"/>。
[[画像:Stempel Rosenberg Bücherspende.jpg|175px|thumb|ローゼンベルクが[[ドイツ国防軍]]に寄贈した書籍]]
[[第二次世界大戦]]の勃発後、ホーエ・シューレ(ナチス党専門の高等教育機関)の設立をローゼンベルクが担当することになる<ref name = "rb_dv295-296">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、295-296頁。</ref>。メインキャンパスはバイエルン州南部、キームゼーの湖畔にあり、ホーエ・シューレは教育研究機関でもあるため、図書館が必要となった<ref name = "rb_dv295-296"/>。こうして、1940年1月、ヒトラーは党並びに政府関係者に、ホーエ・シューレ設立にあたり、蔵書蒐集を行なっているローゼンベルクの支援をするよう命じた<ref name = "rb_dv295-296"/>。手始めに、[[フランクフルト・アム・マイン]]市当局に対して、ユダヤ人関係の資料の提出を求め、そして、図書館を買収した<ref name = "rb_dv295-296"/>。戦況が好調だったため、ローゼンベルクの蔵書蒐集活動は、ドイツ国内に留まらずフランスにも波及し、ユダヤ並びに[[フリーメーソン]]関係の主要機関が放置した文書を接収した<ref name = "rb_dv295-296"/>。ローゼンベルクは、ヒトラーに逃亡したユダヤ人が放棄した資料を収集する部隊の設立を願い出る<ref name = "rb_dv295-296"/>。こうして、外務局の下に[[全国指導者ローゼンベルク特捜隊]]が設置され、占領地からの文書・美術品の押収に当たった<ref name = "rb_dv295-296"/>。この部隊は、[[ゲシュタポ]]、[[国家保安本部]]、[[秘密野戦警察]]の助力を得て、オランダ、ベルギー、フランスの図書館、文書館、個人収集品を次々と略奪していった<ref name = "rb_dv295-296"/>。
ローゼンベルク特捜隊は、パリにあった世界ユダヤ連盟と[[ラビ]]養成学校から5万冊を略奪し、パリの大手ユダヤ系書店(リプシュッツ)から2万冊の本を略奪した<ref name = "rb_dv296-297">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、296-297頁。</ref>。ローゼンベルク特捜隊は、当初は、本ないし資料類の略奪任務を主としていたが、ヒトラーが生まれ故郷である[[リンツ]]に、美術館を建設する構想があったこと、そして、[[ヘルマン・ゲーリング]]も蒐集癖があったことから、事実上、彼らの代理として美術品の略奪に乗り出す<ref name = "rb_dv297-299">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、297-299頁。</ref>。ローゼンベルクは、かつてミュンヘン一揆に失敗したとき、スウェーデンに逃亡していたゲーリングを、ナチス党党員名簿から抹消するなどしており、後々禍根を残すことになるが、この時は、ゲーリングはローゼンベルクに協力した<ref name = "rb_dv300">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、300頁。</ref>。
フランスにある美術品の略奪時には、協力関係にあったローゼンベルクとゲーリングであったが、略奪が完了すると、ゲーリングは権限がないのにもかかわらず、美術品の分配方法を決める命令を発令する<ref name = "rb_dv303">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、303頁。</ref>。分配方法は、第一にヒトラー、第二にゲーリング、第三にローゼンベルクがこれら美術品を獲得でき、そして、第四にドイツまたはフランスの美術館が残った美術品を獲得できる、それでも残った美術品については、オークションにかけて売却し、売却益を戦争未亡人に寄付するというものだった<ref name = "rb_dv307">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、307頁。</ref>。
結果的に、ローゼンベルク特捜隊はフランスから、2万2,000点の美術品を押収し、ドイツ国内へと運び込み、『保管』することにした<ref name = "rb_dv307-308">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、307-308頁。</ref>。保管場所には、[[ノイシュヴァンシュタイン城]]もあった<ref name = "rb_dv307-308"/>。
しかし、その後もゲーリングは、ドイツ国内へと運び込んだ美術品を次々に着服する<ref name = "rb_dv308-309">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、308-309頁。</ref>。ローゼンベルクとしては略奪した美術品は、ナチス党の共有財産であると考えていた<ref name = "rb_dv308-309">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、308-309頁。</ref>。そんなローゼンベルクも、略奪した美術品を、自宅に飾っていた<ref name = "rb_dv308-309"/>。
1941年3月、軍の指令書が発行され、その中身は[[親衛隊及び警察指導者]]は、独立・独断で行動する権限を認める内容であった<ref name = "rb_dv319">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、319頁。</ref>。ヒムラーはこの文言を根拠として、ローゼンベルクの指揮下に警察機構を置くことを拒否した<ref name = "rb_dv319"/>。そして、また、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]から、ヒムラーの部下をヒトラーの指名によって[[国家弁務官]]に任命し、指名された国家弁務官は東部の占領地で、ローゼンベルクの東部占領地域省の支局を指導してはどうかと提案を受けた<ref name = "rb_dv325">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、325頁。</ref>。これは、つまりローゼンベルクには、権力らしい権力がなくなってしまうことを意味していた<ref name = "rb_dv319"/>。
1941年4月、ローゼンベルクは、ヒトラーと来る独ソ戦開戦後の、東部地域の国々について意見を交わす<ref name = "rb_dv316-317">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、316-317頁。</ref>。ローゼンベルクは、ソ連については、産業を解体し、交通網の徹底破壊を行ない、国土を完全に荒廃させ、ゴミ捨て場にするべきだと意見を述べた<ref name = "rb_dv316-317"/>。バルト三国については、ドイツの同盟国にする、但し、[[ラトヴィア]]の知識階級は根絶し、[[リトアニア]]の25万人のユダヤ人は追放すべきだとした<ref name = "rb_dv316-317"/>。[[ウクライナ]]は、独ソ戦中並びに独ソ戦後もドイツが必要としている穀物や原材料を提供する義務があると主張した<ref name = "rb_dv316-317"/>。[[ベラルーシ]]は救いようのない国であるため、独立は認めるべきではないと主張した<ref name = "rb_dv316-317"/>。
こうして、1941年7月17日に東部占領地域省が設立され、長官にはローゼンベルクが就任するが、現地東部の行政を担当する国家弁務官は、ローゼンベルクの命令だけでなく、警察に関わる問題はヒムラーからの命令を受けるようになっていた<ref name = "rb_dv331-332">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、331-332頁。</ref>。しかし、逆に[[親衛隊及び警察指導者]]らは、東部占領地域省の命令に従うことはなかった<ref name = "rb_dv331-332"/>。そして、ローゼンベルク自身は、ベルリンで執務をしており、一方SSらは東部の占領地域を動き回っていたため、現場ではヒムラーが事実上好きなように命令を出すことができた<ref name = "rb_dv331-332"/>。ローゼンベルクの東部占領地域省の長官の任命に当たっては、[[マルティン・ボルマン]]から支持を受けていた<ref name = "rb_dv331-332"/>。但しこれについては、両者の関係が良好であった訳ではなく、マルティン・ボルマンは、ローゼンベルクが長官ならば、傀儡にできるか、あるいは命令を無視できるという意図があったとされる<ref name = "rb_dv331-332"/>。
ヒトラー肝いりで設立された東部占領地域省であったが、事実上権力らしい権力はなく、なぜヒトラーが東部占領地域省を設立したのか、設立に至るまでの意図はよくわかっていない<ref name = "rb_dv331-332"/>。
1941年7月中旬、独ソ戦で快進撃を続けていたドイツ軍であるが、ヒトラーやゲーリングらは東部地域をどうするか話し合う中、ローゼンベルクは現地住民を少しでもドイツの味方につけるべきだと言う自説にこだわり、一蹴される<ref name = "rb_dv328-329">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、328-329頁。</ref>。
東部地域の領土が拡張するにつれ、ローゼンベルクの管理が及ばなくなり、ローゼンベルクの命令は、上は国家弁務官、下は地区指導者が自由に命令を解釈するか、黙殺するなどしていた<ref name = "rb_dv377">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、377頁。</ref>。[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]には、「東部占領地域省は混沌省であり、あそこは理論家ばかりで実務家はまるでいない。」と揶揄される<ref name = "rb_dv377"/>。
ローゼンベルクの部下の評判も悪く、「東部(占領地域省)のカスども」と批判される<ref name = "rb_dv377"/>。
ローゼンベルクにとっての悩みの種は、その他にも、名目上は部下である[[エーリヒ・コッホ]]の存在があった<ref name = "rb_dv330">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、330頁。</ref>。コッホは、第二のスターリンとも言われた人物であり、残忍な人物でローゼンベルクの命令は殆ど聞かなかった<ref name = "rb_dv330"/>。コッホは、現地(ウクライナ)で、自由気ままに振舞っており、ウクライナ人を鞭打ちするなど粗暴な振る舞いが目立ち、ローゼンベルクは抗議のメモを送る<ref name = "rb_dv379-380">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、379-380頁。</ref>。最もローゼンベルクは人道的な見地からコッホに抗議したのではなく、ウクライナ人がパルチザン活動に身を投じるのを防ぐためだった<ref name = "rb_dv379-380"/>。エーリヒ・コッホは、ヒトラーの司令部[[狼の巣]]が存在する地域を管轄しており、マルティン・ボルマンを通じて、ヒトラーと直々に面談をする機会を持つなど、信頼を得ていた<ref name = "rb_dv379-380"/>。しかし、ローゼンベルクは、数百キロ離れたベルリンから、メモを送ってくるだけだったため、どちらが重用されていたかは明らかだった<ref name = "rb_dv379-380"/>。
権力らしい権力が無いローゼンベルクであったが、幾度か暗殺未遂に遭っている<ref name = "rb_dv384">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、384頁。</ref>。1942年5月には、乗車予定であった列車が、パルチザンによって脱線させられる<ref name = "rb_dv384"/>。しかし、この時は予定を早く切り上げ別の列車に乗ったため難を逃れた<ref name = "rb_dv384"/>。ローゼンベルクがウクライナを訪問した際には、鑑賞予定だったオペラ劇場が爆破される<ref name = "rb_dv384"/>。この時も、予定を急遽変更したため、難を逃れた<ref name = "rb_dv384"/>。ウクライナでは、ローゼンベルクは銃撃を受けたこともある<ref name = "rb_dv385">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、385頁。</ref>。
東部占領地域省は、現地にいる部下は、自宅に設置する家具や調度品が不足していた<ref name = "rb_dv386-387">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、386-387頁。</ref>。そのため、ローゼンベルクは、ヒトラーに西部占領地のユダヤ人から家具を没収することを提案し、家具調度作戦(ムーベル・アクティオン)によって、家具類を没収した<ref name = "rb_dv386-387"/>。家具調度作戦によって、フランス、ベルギー、オランダより、かつてユダヤ人が住んでいたアパート等計6万9,000戸から家具・調度品を奪い取った<ref name = "rb_dv386-387"/>。
奪い取った家具は、結局はドイツ国内の空襲被害にあったドイツ国民に引き渡された<ref name = "rb_dv388">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、388頁。</ref>。
ローゼンベルク特捜隊は、東部でも本を略奪し、数十万冊の本を没収した<ref name = "rb_dv389">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、389頁。</ref>。
独ソ戦の戦況がドイツに不利になるにつれ、ローゼンベルクは東部占領地域省の長官は意味のない肩書になりつつあった<ref name = "rb_dv403">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、403頁。</ref>。そして、1945年5月6日、ローゼンベルクは東部占領地域省の長官職を解任される<ref name = "rb_dv415">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、415頁。</ref>。この時、ローゼンベルクは転倒し、足を負傷したため入院する<ref name = "rb_dv415"/>。そして、5月12日に、[[バーナード・モントゴメリー]]元帥宛に自身のみをゆだねるという内容の手紙を書き、5月18日イギリス軍によって逮捕された<ref name = "rb_dv415-416">[[#ロバート&デイヴィッド|ロバート&デイヴィッド(2017年)]]、415-416頁。</ref>。ただ、これについてはヒムラーの行方を捜していたところ、ついでで逮捕されたという説もある<ref name = "rb_dv415-416"/>。
== 処刑 ==
ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、ローゼンベルクの[[知能指数]]は127だった<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。
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== 人物と思想 ==
*初期の彼の民族論・文化論は、[[1930年]]に発行された著書『[[二十世紀の神話]]』(''{{de|Der Mythus des 20.Jahrhunderts}}'') にまとめられている。しかしながら、その思想が偏狭で融通に欠けていることからヒトラーの側近には侮られ、後には[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]にも「イデオロギー(観念)のげっぷ」と軽蔑された
▲*初期の彼の民族論・文化論は、[[1930年]]に発行された著書『[[二十世紀の神話]]』(''{{de|Der Mythus des 20.Jahrhunderts}}'') にまとめられている。しかしながら、その思想が偏狭で融通に欠けていることからヒトラーの側近には侮られ、後には[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]にも「イデオロギー(観念)のげっぷ」と軽蔑された。彼の民族論によれば、人種の多元性を認め、未来のドイツ帝国から排除される人種はユダヤ人だけであるとしている。それゆえか、[[ゲルマン民族]]以外は人類から排除するという徹底的な主張の持ち主であった[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]や[[マルティン・ボルマン|ボルマン]]らがヒトラーの信頼を勝ち得、ローゼンベルクは次第に実質的な権力を喪失していった。
*米軍の拘留記録によると身長は180センチである<ref>{{cite web |url=http://collections.yadvashem.org/photosarchive/en-us/39775.html|title=Detention report of Alfred Rosenberg, Chief Nazi ideologist and Reich Minister for the Occupied Eastern Territories, 23/06/1945 - Yad Vashem Photo Archive|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160816073303/http://collections.yadvashem.org:80/photosarchive/en-us/39775.html |archivedate=2016-08-16 |accessdate=2019-03-01}}</ref>。
== 東方政策 ==
[[画像:Bundesarchiv Bild 146-1969-067-01, Kiew, Alfred Meyer, Erich Koch, Alfred Rosenberg.jpg|250px|thumb|[[キーウ]]を視察するローゼンベルク(1942年)]]▼
▲[[画像:Bundesarchiv Bild 146-1969-067-01, Kiew, Alfred Meyer, Erich Koch, Alfred Rosenberg.jpg|250px|thumb|[[キーウ]]を視察するローゼンベルク(1942年)]]
*ローゼンベルクは、[[ポーランド]]・[[ウクライナ]]・[[バルト海]]沿岸へとドイツの[[生存圏]]を拡げるべきだという[[東方生存圏]]の思想をたびたび表明しており、ヒトラーへの影響も指摘されている。[[1927年]]の著書『ドイツ外交将来の道』では、その立場はより明確となっている{{sfn|井代彬雄|1972|pp=34}}。ただし、大ロシア人(現代で言う[[ロシア人]])と[[ユダヤ人]]についてはヒトラーと一致した見解を持っていたが、ロシア人を[[ソビエト連邦|ソ連]]の他の民族と区別していた。ローゼンベルクの反ソ連思想は強固なものであり、時に対ソ宥和をとなえた[[ナチス左派]]とは相容れなかった{{sfn|井代彬雄|1972|pp=34}}。
*独ソ戦でドイツが勝利できた場合の戦後構想も考えていた。ローゼンベルクの案では、東方に親ドイツの国民国家をつくる予定で、ソ連は4つの国に分割する。第一は、[[モスクワ]]周辺の[[ロシア]]北西部、[[北極]]地方から[[トルキスタン]]まで広がる地域で、昔の国名「[[モスクワ大公国]]」とする。第二は[[コーカサス]]。第三は[[ウクライナ]]。第四は[[バルト三国]]・[[ベラルーシ]]周辺の「オストラント(東方地域)」だった<ref>リチャード・オウヴァリー(永井清彦:訳)『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』河出書房新社、2015年新装版、p86~87</ref><ref>P.カルヴォコレッシーほか(八木勇:訳)『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と結果(上巻) 西半球編』河出書房新社、1991年、p266~268</ref>。
== 著作 ==
*1920年に『[[シオン賢者の議定書]]』のドイツ語翻訳を出版。ロシア語以外の最初の言語による『議定書』がドイツで出版され
*Unmoral im Talmud. Deutscher Volksverlag, München 1920
*Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten. Deutscher Volksverlag, München 1920
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* {{Cite journal|和書|author= [[井代彬雄]] |title=ヴァイマル共和制初期のナチス党におけるアルフレッド・ローゼンベルクについて--ナチス官僚体制研究の一前提として|date=1972年 |publisher=[[大阪教育大学]]歴史学研究室 |journal=[[歴史研究]] |volume=10|naid=40003823171|pages=23-51|ref=harv}}
* {{Cite|和書 |author = [[ジョージ・モッセ]] |title = ユダヤ人の〈ドイツ〉|translator=三宅昭良|publisher = 講談社 |series =講談社選書メチエ |year = 1996 |month = |ref =モッセ1996}}[原著1985年]
* {{Cite book|和書|author=[[ロバート・K.ウィットマン]]、[[ デイヴィッド・キニー ]]|translator=[[河野純治]]|year=2017|title=悪魔の日記を追え : FBI捜査官とローゼンベルク日記|publisher=[[柏書房]]|ISBN=978-4-7601-4875-2|ref=ロバート&デイヴィッド}}
* {{Cite book|和書|author=[[上山安敏]]|year=2005|title=宗教と科学 : ユダヤ教とキリスト教の間|publisher=[[岩波書店]]|ISBN=4-00-023413-7|ref=上山安敏}}
== 関連項目 ==
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