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{{出典の明記|date=2014年12月}}
{{Expand English|al-Walid I|date=2023年5月|fa=yes}}
 
{{基礎情報 君主
| 人名 = ワリード1世
| 各国語表記 = {{lang|ar|الوليد بن عبد الملك}}
| 君主号 = [[ウマイヤ朝]][[第6代カリフ<br>{{small|'''[[アミール・アル=ムウミニーン]]'''<br>'''ハリーファト・アッラーフ'''}}{{sfn|Crone|Hinds|1986|pp=8–9}}
| 画像 = File:Gold dinar of al-Walid 707-708 CE.jpg
| 画像サイズ = 280px
| 画像説明 = [[ヒジュラ暦]]89年([[西暦]]707/8年)に[[ダマスクス]]で鋳造されたワリード1世の治世下で発行された[[ディナール]][[金貨]]
| 在位 = [[705年]][[10月9日]] - [[715年]][[2月23日]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 配偶号 =
| 出生日在位2 = [[674年]]
| 生地 戴冠日2 =
| 配偶別号 =
| 死亡日 = [[715年]][[2月23日]]
| 全名 = アブル=アッバース・アル=ワリード・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン
| 没地 =
| 出生日 = 674年頃
| 生地 = [[マディーナ]]
| 死亡日 = 715年2月23日
| 没地 = {{仮リンク|ダイル・ムッラーン|en|Dayr Murran}}
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{仮リンク|バーブ・アッ=サギール|en|Bab al-Saghir}}または{{仮リンク|バーブ・アル=ファラーディース|en|Bab al-Faradis}}
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = シャ{{仮リンク|ウンム・アル=バニファラ・ビント・アブ([[ペーロゥルアズィーズ3世]]の娘)|en|Umm al-Banin bint Abd al-Aziz}}
| 配偶者2 = ウンム・アブドゥッラー・ビント・アブドゥッラー・ブン・アムル・ブン・ウスマーン
| 配偶者2 =
| 配偶者3 = イッザ・ビント・アブドゥルアズィーズ・ブン・アムル・ブン・ウスマーン
| 配偶者3 =
| 配偶者4 = ナフィーサ・ビント・ザイド・ブン・アル=ハサン
| 配偶者5 = ザイナブ・ビント・アル=ハサン・ブン・アル=ハサン
| 子女 = [[ヤズィード3世]]<br>[[イブラーヒーム (ウマイヤ朝)|イブラーヒーム]]
| 配偶者6 = アーミナ・ビント・サイード・ブン・アル=アース
| 王家 = [[ウマイヤ家]]
| 配偶者7 = シャー・イー・アーフリード・ビント・ペーローズ(内妻)
| 配偶者8 = ブダイラ(内妻)
| 配偶者9 =
| 配偶者10 =
| 子女 = {{ubl|{{仮リンク|アッバース・ブン・アル=ワリード|label=アル=アッバース|en|al-Abbas ibn al-Walid}}|{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・ブン・アル=ワリード|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn al-Walid}}|{{仮リンク|ウマル・ブン・アル=ワリード|label=ウマル|en|Umar ibn al-Walid}}|{{仮リンク|ビシュル・ブン・アル=ワリード|label=ビシュル|en|Bishr ibn al-Walid}}|{{仮リンク|マスルール・ブン・アル=ワリード|label=マスルール|en|Masrur ibn al-Walid}}|[[ヤズィード3世]]|[[イブラーヒーム (ウマイヤ朝)|イブラーヒーム]]|アンバサ|マルワーン|ムハンマド|アーイシャ(娘)|ラウフ|ハーリド|マスラマ|マンスール|タンマーム|ムバシュシル|ジャズ|アブドゥッラフマーン|ヤフヤー|アブー・ウバイダ|サダカ}}
| 王家 = マルワーン家
| 王朝 = [[ウマイヤ朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[アブドゥルマリク]]
| 母親 = ワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズ
| 母親 =
| 宗教 = [[イスラム教]][[スンナ派]]
| サイン =
}}
'''ワリード1世'''(アル=ワリード・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン, {{rtl翻字併記|ar|الوليد بن عبد الملك بن مروان|al-Walīd b. ʿAbd al-Malik b. Marwān}}, 674年頃 - [[715年]][[2月23日]])は、第6代の[[ウマイヤ朝]]の[[カリフ]]である(在位:[[705年]][[10月9日]] - 715年2月23日){{efn2|9世紀の歴史家の[[ヤアクービー]]は、これとは異なる死亡日の日付として[[ヒジュラ暦]]96年ジュマーダー・アル=アッワル月14日(715年1月25日)とヒジュラ暦96年ジュマーダー・アッ=サーニー月11日(715年3月11日)の2つを挙げている{{sfn|Gordon|Robinson|Rowson|Fishbein|2018|p=1001}}。}}。
[[File:الوليد بن عبد الملك.png|thumb|ワリード1世]]
'''ワリード1世'''({{lang-ar|'''الوليد بن عبد الملك'''}}、'''Al-Walid ibn Abd al-Malik'''、[[674年]] - [[715年]][[2月23日]])は、[[ウマイヤ朝]]の第6代[[カリフ]](在位:[[705年]] - [[715年]])。第5代カリフであった[[アブドゥルマリク]]の子。
 
ワリードはウマイヤ朝第5代カリフの[[アブドゥルマリク]]の息子として生まれた。王子時代には696年から699年にかけて毎年[[ビザンツ帝国]]に対する襲撃を指揮し、[[メッカ]]に至る[[シリア砂漠]]の街道沿いに要塞を建設した。その後、祖父の[[マルワーン1世]]によって後継者に指名されていたアブドゥルマリクの弟の{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・ブン・マルワーン|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn Marwan}}が705年5月に死去したことで、同年10月にアブドゥルマリクが死去すると後継のカリフとなった。
== 生涯 ==
674年、[[ダマスカス]]に生まれる(生年には[[668年]]、[[675年]]説もある)。705年、父の死により後を継いでカリフとなった。軍事面で優れた能力を持っていたため、[[中央アジア]]から[[インド]]北部、[[イベリア半島]]、[[東ローマ帝国]]などに積極的に進出して王朝最大の版図を形成し、[[王朝]]の全盛期を築き上げた。内政面においても[[学校]]や[[病院]]を多数建設し、聖ヨハネ聖堂を[[モスク]](イスラムの礼拝所)に改造して[[ウマイヤ・モスク]]と命名する。さらに[[マディーナ]]や[[メッカ]]などにもモスクを建設し、文化面でも大きな発展を遂げた。
715年、42歳で死去した。
 
ワリードの下で父親が行っていた中央集権化、イスラーム的イデオロギーに基づいた国家建設、さらには領土の拡張といった各種の努力が継続された。また、ワリードは統治にあたってウマイヤ朝の領土の東半分を治めていた[[イラク]]総督の{{仮リンク|ハッジャージュ・ブン・ユースフ|label=アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}の指導力に大きく依存し、そのハッジャージュの指導の下で東方の[[マー・ワラー・アンナフル]]と[[シンド]]を征服するとともに西方では[[イフリーキヤ]]総督の{{仮リンク|ムーサー・ブン・ヌサイル|en|Musa ibn Nusayr}}の軍隊が[[マグリブ]]西部と[[ヒスパニア]]を征服した。ワリードは征服で得られた富を背景として、自身の最大の建築的成果となった[[ダマスクス]]の[[ウマイヤ・モスク]]の建設、さらには[[エルサレム]]の[[アル=アクサー・モスク]]や[[マディーナ]]の[[預言者のモスク]]などの建設や拡張に資金を投じた。また、[[歴史的シリア|シリア]]のアラブ系イスラーム教徒の貧困層や障害者を支援する社会福祉事業を初めて実施した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
ワリードの治世は国内的には平和と繁栄の時代であり、ウマイヤ朝の全盛期であったと考えられている。ワリード個人の政治的な功績には対立していたアラブ部族の派閥である{{仮リンク|ヤマン族|en|Yaman (tribal group)}}と{{仮リンク|カイス族|en|Qays}}の勢力の均衡を維持したことなどが挙げられるが、ワリードがその治世の成功に果たした直接的な役割は明確ではなく、成功の一方で起きていたウマイヤ朝の王族への多額の交付金や莫大な軍事費の支出は後継者たちにとって大きな財政的負担となった。
== 参考文献 ==
*[[サイイド・アミール・アリ|アミール・アリ]]『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
 
== 背景と初期の経歴 ==
== 関連項目 ==
ワリードは[[ウマイヤ朝]]の創設者であり初代[[カリフ]]である[[ムアーウィヤ]](在位:661年 - 680年)の治世中の674年頃に[[マディーナ]]で生まれた{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。父親は同じくウマイヤ家の出身でムアーウィヤの遠戚にあたる[[アブドゥルマリク|アブドゥルマリク・ブン・マルワーン]]である{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。ムアーウィヤが[[歴史的シリア|シリア]]に居住するウマイヤ家の支流のスフヤーン家に属していたのに対し、ワリードの一族は[[ヒジャーズ]]([[メッカ]]とマディーナが存在する[[アラビア半島]]西部)に居住するより大規模な支流である{{仮リンク|アブー・アル=アース・ブン・ウマイヤ|label=アブー・アル=アース|en|Abu al-As ibn Umayya}}の家系に属していた。母親のワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズは6世紀の著名な{{仮リンク|アブス族|en|Banu Abs}}の族長である{{仮リンク|ズハイル・ブン・ジャズィーマ|en|Zuhayr ibn Jadhima}}の子孫にあたる{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|Hinds|1990|p=118}}。
*[[ウマイヤ朝]]
 
683年にメッカを拠点とする[[アブドゥッラー・イブン・アッズバイル|アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル]]がウマイヤ朝に対抗してカリフを称し、イスラーム世界における[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]が勃発した。そしてほとんどの地域に対するウマイヤ朝の支配が失われると、ヒジャーズに居住していたウマイヤ家の一門は684年にアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルによってシリアへ追放された。しかし、ワリードの祖父にあたる一門の長老格の[[マルワーン1世|マルワーン・ブン・アル=ハカム]](マルワーン1世、在位:684年 - 685年)が追放先のシリアで親ウマイヤ朝のアラブ諸部族からカリフとして認められ、これらの部族の支援を得たマルワーン1世は死去するまでの間にシリアと[[エジプト]]に対するウマイヤ朝の支配を回復させた{{sfn|Kennedy|2004|pp=92–93}}。アブドゥルマリクはマルワーン1世の後を継ぎ、ウマイヤ朝が失った残りの地域である[[イラク]]、[[ペルシア]]、および[[アラビア]]を692年までに再征服した。そしてイラク総督の{{仮リンク|ハッジャージュ・ブン・ユースフ|label=アル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ|en|Al-Hajjaj ibn Yusuf}}による強力な支援を得て多くの中央集権化政策を実施するとともにウマイヤ朝の領土の拡大に向けた取り組みを強化した{{sfn|Kennedy|2004|pp=98–99}}。
{{ウマイヤ朝カリフ|第6代: 705-715}}
 
一方で[[ビザンツ帝国]]に対する戦争は630年代の{{仮リンク|イスラーム教徒のシリア征服|label=イスラーム教徒によるシリアの征服|en|Muslim conquest of the Levant}}に始まり、その後689年に休戦協定が成立したものの、692年には協定が破られ紛争が再開された。これ以降ウマイヤ朝はアラブとビザンツ帝国の国境地帯({{仮リンク|アワースィム|label=スグール|en|Al-Awasim}})だけでなく、さらに遠方のビザンツ領内に向けて毎年軍事行動を展開するようになった。ワリードは父親のアブドゥルマリクの治世中の696年から699年にかけて毎年これらの軍事行動を率いた{{sfn|Marsham|2009|p=125}}。696年の夏季の作戦では[[マラティヤ]](メリテネ)と{{仮リンク|モプスエスティア|label=マッシーサ|en|Mopsuestia}}(モプスエスティア)の間の地域を襲撃し、その翌年にはアラビア語の史料においてアトマルの名で知られるマラティヤの北に位置する場所を攻撃目標とした{{sfn|Rowson|1989|p=176, note 639}}。また、698年にはメッカに向けて行われる例年の巡礼([[ハッジ]])を指揮した{{sfn|Marsham|2009|p=125}}。
[[File:Qasr Burqu 2014.jpg|thumb|left|230px|今日では遺跡となっているカスル・ブルクはワリードがまだ王子であった700年か701年に建設もしくは拡張されたシリア砂漠の前哨基地である。]]
ワリードは700年か701年に北の[[パルミラ]]と南の{{仮リンク|アズラク (ヨルダン)|label=アズラク・オアシス|en|Azraq, Jordan}}および{{仮リンク|ワーディー・スィルハーン|en|Wadi Sirhan}}の盆地を結び、最終的にマディーナとメッカに至る街道上に位置する要塞化された[[シリア砂漠]]の前哨基地である{{仮リンク|カスル・ブルク|en|Qasr Burqu'}}の建設、あるいは拡張を支援した{{sfn|Bacharach|1996|p=31}}。ワリードによる支援の存在は「[[アミール]]のアル=ワリード、{{仮リンク|アミール・アル=ムウミニーン|label=信徒の長|en|Amir al-Mu'minin}}の息子」と刻まれている碑文の存在によって裏付けられている{{sfn|Marsham|2009|pp=126–127}}。歴史家の{{仮リンク|ジェレ・L・バカラク|en|Jere L. Bacharach}}によれば、ワリードは自身の活動拠点であった{{仮リンク|カルヤタイン|en|Al-Qaryatayn}}とカスル・ブルクの間に、恐らく[[ベドウィン]]の夏季の野営地として{{仮リンク|ジャバル・サイス|en|Jabal Sais}}を建設した{{sfn|Bacharach|1996|pp=31–32}}。バカラクは第二次内乱中にワリードがウマイヤ朝にとって極めて重要であったアラブ諸部族の忠誠を再確認するために部族の領地内に位置するこの場所を利用したと推測している{{sfn|Bacharach|1996|p=32}}。
 
== 治世 ==
アブドゥルマリクはその治世の終わり頃にハッジャージュの支持を得てアブドゥルマリクの弟でエジプト総督の{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・ブン・マルワーン|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn Marwan}}を後継者とするマルワーン1世が定めた継承に関する取り決めを破棄し、ワリードを後継者に指名しようとした{{sfn|Hawting|2000|p=58}}{{sfn|Dietrich|1971|p=41}}{{efn2|同様にアブドゥルマリクはワリードに続く後継者として[[スライマーン (ウマイヤ朝)|スライマーン]]を指名した{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。}}。アブドゥルアズィーズは後継者の座から降りることを拒否したが、705年5月に死去したことでワリードを後継者とする最も大きな障害が取り除かれた。そして705年10月9日にアブドゥルマリクが死去するとワリードがカリフの地位を継承した{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|Hawting|2000|p=58}}。9世紀の歴史家の[[ヤアクービー]]は、ワリードについて、「背が高く浅黒い肌で… 団子鼻であり… ひげの先端がわずかに灰色がかっていた」と身体的な特徴を説明している。また、「文法的に不正確な話し方をしていた」と述べている{{sfn|Gordon|Robinson|Rowson|Fishbein|2018|pp=1001, 1004}}。この点で父親を失望させていたワリードは[[クルアーン]]に記されている[[古典アラビア語]]を話すことを断念したが、仲間内では誰もがクルアーンの知識を持つべきだと主張していた{{sfn|Wellhausen|1927|pp=224–225}}。
 
ワリードは父親の中央集権化政策と拡大政策を基本的に引き継いだ{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|Kennedy|2004|p=103}}。しかし、アブドゥルマリクとは異なり、統治の遂行をハッジャージュに極めて大きく依存し、ウマイヤ朝の支配領域の東半分をハッジャージュの好きなように統治させた。さらにハッジャージュはワリードの内政の意思決定に強い影響力を及ぼし、しばしばハッジャージュの勧めによって役人が任命されたり解任されたりした{{sfn|Dietrich|1971|p=41}}。
 
=== 領土の拡大 ===
[[File:The Early Muslim Conquests 630s to 820s.svg|thumb|400px|ウマイヤ朝の領土の拡大を表した地図。[[マグリブ]]西部、[[アル=アンダルス|ヒスパニア]]、[[シンド]]、[[ホラズム]]、[[トハーリスターン]]、および[[フェルガナ]]を含む[[マー・ワラー・アンナフル]](薄緑の部分)は、すべてワリードの治世に征服された。]]
東西の辺境におけるイスラーム教徒の征服活動は国内の敵対勢力を制圧したアブドゥルマリクの下で再開されていた{{sfn|Della Vida|1993|p=1002}}。歴史家の[[ユリウス・ヴェルハウゼン]]は、ワリードの下でウマイヤ朝の軍隊が「新たな刺激を受け」、「偉大な征服の時代」が始まったと述べている{{sfn|Wellhausen|1927|p=224}}。そしてワリードの治世の後半にウマイヤ朝の版図は最大に達した{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}。
 
==== 東方地域 ====
{{main|{{仮リンク|イスラーム教徒のマー・ワラー・アンナフル征服|en|Muslim conquest of Transoxiana}}|{{仮リンク|ウマイヤ朝のシンド征服|en|Umayyad conquest of Sindh}}}}
東方辺境における領土の拡大はイラク総督のハッジャージュの監督下で進んだ。ハッジャージュの副総督で[[ホラーサーン]]を治めていた[[クタイバ・イブン・ムスリム|クタイバ・ブン・ムスリム]]は、初期のイスラーム教徒の軍隊にとってほとんど手付かずの土地であった[[マー・ワラー・アンナフル]]([[中央アジア]])で705年から715年にかけていくつかの軍事作戦を展開した。その結果、705年に[[バルフ]]、706年から709年の間に[[ブハラ]]、711年から712年の間に[[ホラズム]]と[[サマルカンド]]、そして713年に[[フェルガナ]]を降伏させた{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|ヒッティ|1982|pp=404–405}}。クタイバは主に現地の支配者たちとの間で貢納関係を結ぶことによってウマイヤ朝の宗主権を確保したが、これらの支配者の権力はそのまま維持された{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}。しかし、反乱を起こしたクタイバが715年に殺害され、クタイバの軍隊が解散させられるとマー・ワラー・アンナフルにおけるアラブ軍の立場は弱まり、ウマイヤ朝は720年代初頭までにクタイバが獲得した領土のほとんどを現地の諸侯と[[突騎施]]の遊牧民に奪われた{{sfn|Gibb|1923|pp=54–56, 59}}。その一方で708年か709年以降に遠征を開始したハッジャージュの甥の{{仮リンク|ムハンマド・ブン・アル=カーシム|en|Muhammad ibn al-Qasim}}が711年から712年にかけて[[南アジア]]北西部の[[シンド]]地方を征服した{{sfn|Dietrich|1971|p=41}}{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}{{sfn|ヒッティ|1982|p=409}}。
 
==== 西方地域 ====
{{main|{{仮リンク|イスラーム教徒のヒスパニア征服|en|Muslim conquest of Spain}}}}
西方では[[イフリーキヤ]]([[北アフリカ]]中央部)総督でアブドゥルマリクの治世からその地位にあった{{仮リンク|ムーサー・ブン・ヌサイル|en|Musa ibn Nusayr}}が[[ベルベル人]]の部族である{{仮リンク|ハッワーラ族|en|Hawwara}}、{{仮リンク|ゼナータ族|en|Zenata}}、および[[クターマ族]]を服属させ、[[マグリブ]]西部へ進出した{{sfn|Lévi-Provençal|1993|p=643}}。708年か709年には今日の[[モロッコ]]のそれぞれ北と南に位置する[[タンジェ]]と{{仮リンク|スース (モロッコ)|label=スース|en|Sous}}を征服した{{sfn|Lévi-Provençal|1993|p=643}}{{sfn|Kaegi|2010|p=15}}。711年にはムーサーのベルベル人の[[マワーリー|マウラー]](解放奴隷もしくは庇護民、複数形ではマワーリー)である[[ターリク・イブン・ズィヤード|ターリク・ブン・ズィヤード]]が[[ヒスパニア]]([[イベリア半島]])の[[西ゴート王国]]へ侵攻し、翌年にはムーサーが増援部隊を派遣した{{sfn|Lévi-Provençal|1993|p=643}}。そしてワリードの死の翌年である716年までにウマイヤ朝はヒスパニアの大部分を征服した{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}。マー・ワラー・アンナフル、シンド、およびヒスパニアの征服によってもたらされた莫大な戦利品は、第2代[[正統カリフ]]の[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]](在位:634年 - 644年)の治世中にイスラーム教徒の征服によって獲得した戦利品に匹敵するものだった{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}。
 
==== ビザンツ帝国方面 ====
[[File:Tyana, Cappadocia, Turkey (37598362582).jpg|thumb|right|230px|708年頃にウマイヤ朝が占領した[[テュアナ]]に残る水道橋]]
ワリードは異母弟の{{仮リンク|マスラマ・ブン・アブドゥルマリク|en|Maslama ibn Abd al-Malik}}を[[ジャズィーラ]]([[メソポタミア]]北部)の総督に任命し、ビザンツ帝国に対する戦線の指揮を委ねた。マスラマは辺境地帯で強力な権力基盤を確立したが、ワリードの治世中にウマイヤ朝がビザンツ帝国方面で獲得した領土はわずかなものに留まった{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。708年頃には[[ティアナ包囲戦|長い包囲戦]]の末にビザンツ帝国の[[テュアナ]]の要塞を占領して破壊した{{efn2|[[テュアナ]]が陥落した時期について、いくつかの一次史料は707年から710年の範囲で異なる日付を与えているが、現代の学者の間では一般に708年か709年の出来事とされている{{sfn|Lilie|1976|pp=116–118 (esp. note 40)}}。}}。ワリードは年1回もしくは年2回行われたビザンツ帝国に対する軍事作戦を指揮することはなかったが、マスラマとともに行動した長男の{{仮リンク|アッバース・ブン・アル=ワリード|label=アル=アッバース|en|al-Abbas ibn al-Walid}}は戦いで高い評判を得た。また、ワリードの他の息子である{{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・ブン・アル=ワリード|label=アブドゥルアズィーズ|en|Abd al-Aziz ibn al-Walid}}、{{仮リンク|ウマル・ブン・アル=ワリード|label=ウマル|en|Umar ibn al-Walid}}、{{仮リンク|ビシュル・ブン・アル=ワリード|label=ビシュル|en|Bishr ibn al-Walid}}、およびマルワーンもビザンツ帝国への襲撃を指揮した{{sfn|McMillan|2011}}。
 
712年までにウマイヤ朝は[[キリキア]]と[[ユーフラテス川]]以東の地域の支配を固め、[[小アジア]]の深部への襲撃を開始した。そして714年にアラブ人による[[アンキュラ]]への襲撃が起こると、[[ビザンツ皇帝]][[アナスタシオス2世]](在位:713年 - 715年)はワリードとの停戦交渉、あるいはワリードの意図を探るために使節団を派遣した。その後、使節団はワリードがビザンツ帝国の首都の[[コンスタンティノープル]]を征服するために陸軍と海軍による攻撃を計画していると皇帝に報告した。[[コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)|コンスタンティノープルに対する包囲戦]]はワリードが715年に死去した後に後継者たちの下で717年から718年にかけて実行されたが、アラブ人にとっては大惨事となる失敗に終わった{{sfn|Treadgold|1997|pp=343–344, 349}}。
 
=== 地方の動向 ===
==== シリア ====
ワリードはシリアのほとんどの軍事区([[ジュンド]])を息子たちに委ねた{{sfn|Crone|1980|p=126}}{{sfn|Bacharach|1996|p=30}}。アル=アッバースは[[ホムス]]({{仮リンク|ジュンド・ヒムス|en|Jund Hims}})、アブドゥルアズィーズは[[ダマスクス]]({{仮リンク|ジュンド・ディマシュク|en|Jund Dimashq}})、そしてウマルは[[ヨルダン]]({{仮リンク|ジュンド・アル=ウルドゥン|en|Jund al-Urdunn}})を与えられた{{sfn|Crone|1980|p=126}}。その一方で[[パレスチナ]]はすでにワリードの弟の[[スライマーン (ウマイヤ朝)|スライマーン]]が父親から総督に任命されており、ワリードの下で引き続きパレスチナの総督を務めた。そのスライマーンは708年にハッジャージュによってホラーサーン総督を解任され、投獄された後に逃亡を図った{{仮リンク|ヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ|en|Yazid ibn al-Muhallab}}を匿った{{sfn|Kennedy|2004|p=105}}{{sfn|Hinds|1990|pp=160–161}}。当初ワリードはこの行為を非難したものの、スライマーンの働きかけを受け、ハッジャージュによってヤズィードに課されていた重い罰金をスライマーンが支払ったことで最終的にヤズィードを赦免した{{sfn|Hinds|1990|pp=160–162}}。
 
==== エジプト ====
アブドゥルマリクとハッジャージュは693年から700年にかけてそれまで使用されていたビザンツ帝国や[[サーサーン朝]]の通貨に代えて単一のイスラーム通貨を導入し、シリアとイラクでは官僚の言語としてそれぞれの地域で用いられていた[[ギリシア語]]と[[ペルシア語]]をアラビア語に置き換える改革を実行した{{sfn|Gibb|1960|p=77}}{{sfn|Duri|1965|p=324}}。これらの行政改革はワリードの治世の下でも続き、705年か706年にはエジプトの[[ディーワーン]](諸官庁)でギリシア語と[[コプト語]]に代わってアラビア語が用いられるようになった{{sfn|Duri|1965|p=324}}{{sfn|Blankinship|1994|p=38}}。この改革はワリードの異母弟でアブドゥルマリクによってエジプト総督に任命されていた{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・アブドゥルマリク|label=アブドゥッラー|en|Abdallah ibn Abd al-Malik}}の下で実施された{{sfn|Kennedy|1998|pp=71–72|ignore-err=yes}}。これらの政策は国家の唯一の公用語となったアラビア語への段階的な移行、各地域で異なっていたウマイヤ朝内部の多様な税制の統一、そしてよりイスラーム的なイデオロギーに従った政権の確立に寄与した{{sfn|Gibb|1960|p=77}}{{sfn|Blankinship|1994|pp=94–95}}。
 
709年にワリードはアブドゥッラーに代えて自分の母親と同じ部族に属する自身の書記官([[カーティブ]])の{{仮リンク|クッラ・ブン・シャリーク・アル=アブスィー|en|Qurra ibn Sharik al-Absi}}をエジプト総督に任命した。この総督の交代はイスラーム政権の支配下で初めて記録されたエジプトの飢饉に端を発するアブドゥッラーの汚職行為への不満が高まったためか、あるいはワリードが自分に忠実な人物を総督に据えたいと望んだことが理由となっていた{{sfn|Kennedy|1998|p=72|ignore-err=yes}}{{sfn|Crone|1980|p=125}}。クッラは715年に死去するまで総督を務め、エジプトの軍隊を再編成するとともにより効率的な徴税体制を確立し、さらにワリードの命令によって[[フスタート]]の[[アムル・イブン・アル=アース・モスク|アムル・ブン・アル=アース・モスク]]を修復した{{sfn|Kennedy|1998|p=72|ignore-err=yes}}。
 
==== ヒジャーズ ====
[[File:Medina 1926.jpg|thumb|right|230px|[[メッカ]]と並ぶイスラームの聖地である[[マディーナ]]の外観(1926年以前の撮影)]]
ワリードは当初アブドゥルマリクが任命した{{仮リンク|ヒシャーム・ブン・イスマーイール・アル=マフズーミー|en|Hisham ibn Isma'il al-Makhzumi}}をヒジャーズ総督および巡礼の指導者として留任させた。イスラームの最も神聖な都市であるメッカとマディーナは宗教的に非常に重要な意味を持っていたため、この2つの役職は強力な威信も伴っていた。ヒシャームはアブドゥルマリクの治世中に後継者のワリードに対する忠誠の宣言を拒否したことを理由にマディーナの著名な学者であった{{仮リンク|サイード・ブン・アル=ムサイイブ|en|Said ibn al-Musayyib}}に対し鞭打ちの刑による屈辱を与えたが、この行為を問題視したワリードは706年にヒシャームを解任した。ヒシャームの行為はワリードを擁護するものだったが、ワリードはこれを行き過ぎた虐待だとみなした{{sfn|McMillan|2011}}。
 
歴史家のM・E・マクミランによれば、この解任はワリードの「義憤の感情」以外にも王家内の政争がヒシャームの解任を命じる動機になっていた。ヒシャームはワリードの異母弟であるヒシャーム・ブン・アブドゥルマリク(後のカリフの[[ヒシャーム (ウマイヤ朝)|ヒシャーム]]、在位:724年 - 743年)の母方の祖父であり、ヒシャーム・ブン・アブドゥルマリクはワリードが自分の後を継ぐことを切望していた息子のアブドゥルアズィーズにとって競争相手となる後継者候補の1人だった。ワリードはこのような立場にある異母弟のヒシャームの近親者にイスラームの聖地の舵取りを任せるのではなく、従兄弟のウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(後のカリフの[[ウマル2世 (ウマイヤ朝)|ウマル2世]]、在位:717年 - 720年)を後任に据えた。ウマルはワリードの妹であるファーティマの夫であり、ワリードの妻の{{仮リンク|ウンム・アル=バニーン・ビント・アブドゥルアズィーズ|label=ウンム・アル=バニーン|en|Umm al-Banin bint Abd al-Aziz}}(息子のアブドゥルアズィーズの母親)の兄弟でもあった。ワリードの命令でウマルはヒシャームに公の場で屈辱を与えたが、これはマディーナの総督を解任された者に対する前例のない行為であり、マクミランによれば「危険な先例」となった{{sfn|McMillan|2011}}{{efn2|ヒシャームが公の場で辱めを受けた先例に倣い、ウマイヤ朝のマディーナ総督のうちの何人かは罷免された際に後任者から公の場での鞭打ちを含む屈辱的な扱いを受けた。その中には715年の{{仮リンク|ウスマーン・ブン・ハイヤーン・アル=ムッリー|en|Uthman ibn Hayyan al-Murri}}、720年か721年の{{仮リンク|アブー・バクル・ブン・ムハンマド・ブン・アムル・ブン・ハズム|en|Abu Bakr ibn Muhammad ibn Amr ibn Hazm}}、723年の{{仮リンク|アブドゥッラフマーン・ブン・アッ=ダッハーク・ブン・カイス・アル=フィフリー|en|Abd al-Rahman ibn al-Dahhak ibn Qays al-Fihri}}{{sfn|Powers|1989|pp=105–107, 179–182}}、そして743年の(ヒシャームの2人の息子である){{仮リンク|イブラーヒーム・ブン・ヒシャーム・ブン・イスマーイール・アル=マフズーミー|label=イブラーヒーム|en|Ibrahim ibn Hisham ibn Isma'il al-Makhzumi}}とムハンマドがいた{{sfn|McMillan|2011}}。}}。
 
[[File:Great Mosque of Mecca and Kaaba - 1934.jpg|thumb|left|250px|メッカの[[カアバ]](1934年)]]
ウマルは双方の聖地の宗教界と良好な関係を保っていた{{sfn|Wellhausen|1927|p=224}}。そして6年に及んだ任期のうち、少なくとも4年は巡礼を指揮した。残りの2年のうち707年はワリードの息子のウマル、710年はワリード自身が巡礼を指揮したが{{sfn|McMillan|2011}}、これはワリードにとってカリフ時代に唯一シリアを離れた出来事となった{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{efn2|歴史家の[[マスウーディー]]によれば、ワリードは707年にも巡礼を指揮した{{sfn|McMillan|2011}}。}}。ウマルは政治的な理由によるハッジャージュの迫害から逃れてきたイラクの人々に安全な避難場所を提供し{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}、ハッジャージュによる迫害をワリードに報告したが{{sfn|McMillan|2011}}、これに対しハッジャージュはイラクの反逆者を受け入れたウマルを解任するようにカリフへ進言した{{sfn|Hinds|1990|pp=201–202}}。第二次内乱の時のようにヒジャーズが再び反ウマイヤ朝の活動の拠点になることを警戒したワリードは712年にウマルを解任した{{sfn|McMillan|2011}}。そしてヒジャーズの統治権を分割し、ハッジャージュが推薦した{{仮リンク|ハーリド・ブン・アブドゥッラー・アル=カスリー|en|Khalid al-Qasri}}をメッカ、{{仮リンク|ウスマーン・ブン・ハイヤーン・アル=ムッリー|en|Uthman ibn Hayyan al-Murri}}をマディーナの総督に任命した{{sfn|Hinds|1990|pp=201–202}}{{efn2|ヒジャーズ地方はアブドゥルマリクの治世の末期にハッジャージュと対立して反乱を起こした{{仮リンク|イブン・アル=アシュアス|en|Ibn al-Ash'ath}}の残党や[[ハワーリジュ派]]の人々の避難先となっていたが、それぞれメッカとマディーナの総督に任命されたハーリドとウスマーンはハッジャージュの意志に沿ってこれらのイラクからの亡命者をハッジャージュの下へ送り返した{{sfn|横内|2011|pp=38,49}}。}}。両者は巡礼の指導者に任命されることはなく、ワリードはその役割をマスラマ・ブン・アブドゥルマリクと自分の息子たちに委ねた{{sfn|McMillan|2011}}。
 
=== 部族間抗争に対する均衡政策 ===
684年にマルワーン1世の治世が始まった直後に起こった[[マルジュ・ラーヒトの戦い (684年)|マルジュ・ラーヒトの戦い]]の結果、ウマイヤ朝の軍隊の中核を形成していたシリアのアラブ諸部族間で激しい対立が起きた。マルワーン1世を支持する部族は[[イエメン]](南アラビア)に祖先を持つことを意味する名前である{{仮リンク|ヤマン族|en|Yaman (tribal group)}}と呼ばれる部族連合を形成し、一方で{{仮リンク|カイス族|en|Qays}}と呼ばれる北アラビアの部族連合に属していた部族の大部分はアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支持した。アブドゥルマリクは691年にカイス族との和解に達したが、シリア軍が次第に力を得て各地方に配備され、イラク人やその他の駐屯軍に取って代わったり補充されたりするようになると双方の派閥の影響力をめぐる争いが再び激化した{{sfn|Kennedy|2004|p=100}}{{sfn|Kennedy|2001|p=34}}。
 
ワリードは軍事と行政において双方の派閥の力を均衡させるという父親の政策を維持した{{sfn|Kennedy|2004|p=104|ignore-err=yes}}。歴史家の{{仮リンク|ヒュー・ナイジェル・ケネディ|en|Hugh N. Kennedy}}は、「カリフは一方の派閥が独占的な権力を手にしないように加熱する対立関係を抑え込んでいた可能性がある」と指摘している{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}。その一方でワリードの母親はカイス系の部族の家系に属しており、そのためワリードがカイス族の役人に一定の便宜を図っていたとする後世の歴史家による説明が存在するものの{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}、ヴェルハウゼンは「ワリードがそのようなことをする必要はなかったし、初期の歴史家もそのようには伝えていない」ことから、ワリードが一方の派閥を優先させたとする話に疑問を呈している{{sfn|Wellhausen|1927|pp=225–226}}。しかし、その後ワリードの後継者たちの下でカイス族とヤマン族の対立は激しさを増していき、後継者たちはワリードの均衡政策を維持することができなかった。この抗争は750年に[[アッバース革命|ウマイヤ朝政権が崩壊]]する大きな要因となった{{sfn|Kennedy|2004|pp=103–104, 113}}。
 
=== 公共事業と社会福祉事業 ===
[[File:Anjar vu du palais.jpg|thumb|right|230px|ワリードかその息子のアル=アッバースによって建設された[[アンジャル]]の遺跡]]
ワリードはその治世の開始当初からカリフが統治する国家において歴史上前例のない規模による公共事業と社会福祉事業に乗り出した。また、これらの事業の財源は征服活動で得られた財貨や税収によって賄われた{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}。ワリードとその兄弟や息子たちはシリアの街道沿いに宿駅を建設し、井戸を掘り、都市に街灯を設置した{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}。さらに灌漑用水路や運河を含む土地の開墾事業に投資し、農業生産性を向上させた{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}{{sfn|Kennedy|2004|p=111}}。ハッジャージュもこの時期にイラクにおいて灌漑や運河に関連する事業を実施し、長年の戦乱によって損なわれたイラクの農業インフラの回復に努め、復員した住民の雇用を確保しようとした{{sfn|Shaban|1971|p=117}}。
 
ワリードもしくはその息子のアル=アッバースは714年にダマスクスと[[ベイルート]]の間に[[アンジャル]]と呼ばれる都市を建設した。この都市には[[モスク]]、宮殿、住居、商業施設、および行政機関が存在した。美術史家の{{仮リンク|ロバート・ヒレンブランド|en|Robert Hillenbrand}}は、アンジャルについて、恐らく建設から40年も経たずに放棄されたにもかかわらず「750年以前で年代の推定が可能なあらゆるイスラーム勢力による都市の建設の中で最も注目に値する」と述べている{{sfn|Hillenbrand|1999|pp=59–61}}。ヒジャーズでワリードは地域全体に井戸を掘らせ、峠道を通過する交通の便を改善し、メッカに噴水式の水飲み場を設置することによってメッカに向かう巡礼者の困難を和らげようとした{{sfn|McMillan|2011}}。歴史家のM・A・シャアバーンは、ワリードがシリアやヒジャーズの都市で行った事業には「実用上の目的」もあったが、主に都市で増加していた非アラブ系住民に安価な労働力という形で雇用を提供する意図があったと推測している{{sfn|Shaban|1971|p=118}}。
 
社会福祉事業には貧困層への財政支援や障害者を支援するための介護者の提供などが含まれていたが、これらの取り組みはシリアに限定され{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}{{sfn|Wellhausen|1927|p=299}}、さらにアラブ系のイスラーム教徒のみを対象にしていた{{sfn|Shaban|1971|pp=118–119}}。このため、シャアバーンはこれを「支配階級に対する特別な国家補助金」であったと指摘している{{sfn|Shaban|1971|pp=118–119}}。
 
=== 後援活動とモスクの造営 ===
[[File:The Omayad Mosque 02 (retouched).jpg|thumb|right|230px|[[ダマスクス]]の[[ウマイヤ・モスク]]はワリードによる創建以来、その原型の多くを留めている。]]
ワリードは父親による[[エルサレム]]の[[岩のドーム]]の建設を手本として大規模な建築事業を推進した。ダマスクス、エルサレム、およびマディーナの大規模なモスクに対する後援活動は自身の政治的正当性と宗教的資質を強調するものだった{{sfn|McMillan|2011}}。このうちダマスクスに建設されたモスクは後に[[ウマイヤ・モスク]]の名で知られるようになり、ワリードの統治時代における最大の建築的成果となった。ワリードの前任者たちの下ではイスラーム教徒の住民は4世紀に建設された[[洗礼者ヨハネ]]のキリスト教聖堂に併設された小さな礼拝所({{仮リンク|ムサッラー|en|Musalla}})で礼拝を行なっていた{{sfn|Elisséeff|1965|p=800}}{{sfn|Hillenbrand|1994|p=69}}。ワリードの治世になる頃までにこの礼拝所は急成長するイスラーム教徒の共同体に対応できなくなり、さらにダマスクスには大規模な会衆モスクを建設するための十分な敷地がなかった{{sfn|Elisséeff|1965|p=800}}。ワリードは705年にこのキリスト教聖堂をモスクへ改築するように命じ、キリスト教徒には市内に別の物件を与えることで補償させた{{sfn|Elisséeff|1965|p=800}}{{sfn|Hillenbrand|1994|p=69}}。
 
この改築にあたってほとんどの建造物は取り壊された{{sfn|Hillenbrand|1994|p=69}}{{sfn|Elisséeff|1965|p=801}}。ワリードの建築家たちは取り壊された後の空間に大規模な礼拝堂を建て、二重の[[アーケード (建築物)|アーケード]]を伴う閉ざされた[[柱廊]]で四方を囲まれた中庭に作り替えた{{sfn|Elisséeff|1965|p=801}}。モスクは711年に完成したが、その一方では建設費のためにおよそ45,000人に及ぶダマスクスの軍隊の兵士に対し9年にわたり俸給の4分の1が課税された{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}{{sfn|Elisséeff|1965|p=801}}。歴史家のニキータ・エリセーエフによれば、モスクの規模と壮大さは「イスラームの政治的優位と道徳的威信の象徴」となった{{sfn|Elisséeff|1965|p=801}}。一方でヒレンブランドはワリードが建築の持つ[[プロパガンダ]]的価値を認識していたと指摘しており、このモスクを「イスラームの優位性と永続性を目に見える形で示す」ことを目的とした「勝利の記念碑」と呼んでいる{{sfn|Hillenbrand|1994|pp=71–72}}。また、このモスクは今日に至るまでその原型の多くを保っている{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。
[[File:Jerusalem (31981248672).jpg|thumb|left|230px|[[アル=アクサー・モスク]]と[[神殿の丘]]の南側の城壁の下に位置する発掘されたウマイヤ朝の宮殿と行政施設の遺跡。これらの未完成の建造物と創建時のアル=アクサー・モスクは一般にワリードの手によるものとされている。]]
ワリードはエルサレムの[[神殿の丘]]における父親の仕事を引き継いだ{{sfn|Bacharach|1996|p=30}}。その中で神殿の丘の岩のドームと同じ軸線上に建てられた[[アル=アクサー・モスク]]がもともとアブドゥルマリクとワリードのどちらによって建設されたのかについては意見が分かれている{{sfn|Grabar|1986|p=341}}。何人かの建築史家はアブドゥルマリクがこの建設事業を命じ、ワリードが完成させたか拡張したと考えている{{efn2|建築史家の{{仮リンク|K・A・C・クレスウェル|en|K. A. C. Creswell}}、考古学者の{{仮リンク|ロバート・ハミルトン (考古学者)|label=ロバート・ハミルトン|en|Robert Hamilton (archaeologist)}}と{{仮リンク|アンリ・スターン|fr|Henri Stern (archéologue)}}、および歴史家の{{仮リンク|フランシス・エドワード・ピータース|en|Francis Edward Peters}}はウマイヤ朝による建築の原型をワリードによるものとしている{{sfn|Allan|1991|p=16}}{{sfn|Elad|1999|p=36, note 58}}。一方でアブドゥルマリクがこの建築事業を開始し、ワリードが完成あるいは拡大させたと主張もしくは提唱している学者には、建築史家のジュリアン・ラビ{{sfn|Allan|1991|pp=16–17}}、ユルドゥルム・ヤヴズ{{sfn|Yavuz|1996|p=153}}、歴史家の{{仮リンク|ジェレ・L・バカラク|en|Jere L. Bacharach}}{{sfn|Bacharach|1996|p=30}}の他、{{仮リンク|ハロルド・イドリス・ベル|en|Idris Bell}}{{sfn|Bell|1908|p=116}}、ラーフィー・グラフマンとミリアム・ローゼン=アヤロン{{sfn|Grafman|Rosen-Ayalon|1999|p=2}}、およびアミカム・エラド{{sfn|Elad|1999|p=39}}などがいる。}}。ワリードがこのモスクの建設に携わっていたことを示す最も古い史料は、708年12月から711年6月にかけてエジプト総督のクッラ・ブン・シャリーク・アル=アブスィーと[[上エジプト]]の役人の間で交わされた「エルサレムのモスク」の建設を支援するエジプト人労働者と職人の派遣に関する書簡を含む{{仮リンク|アフロディト|en|Per-Wadjet (Upper Egypt)}}で発見された[[パピルス]]である{{sfn|Bell|1908|p=116}}{{sfn|Elad|1999|pp=36–37}}。また、神殿の丘の南と東の城壁の外側に建てられたアル=アクサー・モスクの隣に位置する未完成の行政と居住用の建造物は、完成を見ることなく死去したワリードの時代のものである可能性が高いと考えられている{{sfn|Bacharach|1996|pp=30, 33}}。
 
ワリードは706年か707年にウマル・ブン・アブドゥルアズィーズに対しマディーナの[[預言者のモスク]]を大幅に拡張するように指示した{{sfn|Hillenbrand|1994|p=73}}{{sfn|Munt|2014|p=106}}。この再開発はムハンマドの妻たちが住んでいた家を取り壊し、ムハンマドと最初の2人のカリフである[[アブー・バクル]](在位:632年 - 634年)とウマルの墓をモスク内に取り込む変化を伴うものだった{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|Bacharach|1996|p=35}}{{sfn|Munt|2014|pp=106–108}}。ムハンマドの家の取り壊しに対する地元の宗教界からの反対の声はワリードによって退けられた{{sfn|Hillenbrand|1994|p=73}}。ワリードはこの事業のために多額の資金を注ぎ込み、[[モザイク]]製作のために[[ギリシア人]]と[[コプト人]]の職人を採用した{{sfn|Bacharach|1996|p=35}}。ヒレンブランドによれば、[[イスラーム国家]]の最初の中心地であったマディーナにおける大規模なモスクの建設は、ワリードによる「自分自身とイスラーム自身のルーツ」に対する「謝辞」であり、ウマイヤ朝の下でシリアに都市の政治的重要性を奪われていたマディーナの人々の恨みを和らげようとする試みであった可能性がある{{sfn|Hillenbrand|1994|p=73}}。一方でマクミランによれば、このモスクと2つの聖地への巡礼者のためにかけた労力は、第二次内乱中のウマイヤ朝によるメッカに対する[[メッカ包囲戦 (683年)|683年の包囲戦]]と[[メッカ包囲戦 (692年)|692年の包囲戦]]、そして[[ハッラの戦い|マディーナへの攻撃]]によってもたらされた「政治的損害に対する建設的な埋め合わせ… 一種の和解」であった{{sfn|McMillan|2011}}。ワリードがヒジャーズで拡張したとされる他のモスクには、メッカの[[カアバ]]を取り囲む[[マスジド・ハラーム]]と[[ターイフ]]のモスクがある{{sfn|Blankinship|1994|p=82}}。
 
== 死と後継者 ==
ワリードはハッジャージュの死からおよそ1年後の715年2月23日にダマスクス郊外の{{仮リンク|ダイル・ムッラーン|en|Dayr Murran}}に建てられていたウマイヤ家の冬の屋敷で病没した{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|Kennedy|2004|p=105}}{{sfn|Hinds|1990|pp=219, 222}}{{sfn|Powers|1989|p=3}}。ワリードの遺体はダマスクスの{{仮リンク|バーブ・アッ=サギール|en|Bab al-Saghir}}もしくは{{仮リンク|バーブ・アル=ファラーディース|en|Bab al-Faradis}}の墓地に埋葬され、ウマル・ブン・アブドゥルアズィーズが葬儀で祈祷する人々を先導した{{sfn|Gordon|Robinson|Rowson|Fishbein|2018|p=1001}}{{sfn|Hinds|1990|p=219}}。
 
ワリードは弟のスライマーンをワリードの後継者に定めた父親の取り決めを無効にし、息子のアブドゥルアズィーズを後継者に指名しようとしたが失敗に終わった{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。2人の兄弟の関係は以前から緊張状態にあり{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}、スライマーンは即位するとワリードに仕えていたほぼ全ての総督を解任した。その一方でアブドゥルマリクとワリードの軍事優先的な政策は維持したが、スライマーンの治世(715年 - 717年)にウマイヤ朝の領土の拡大はほぼ停止した{{sfn|Eisener|1997|p=821}}。
 
== 評価と遺産 ==
歴史家の{{仮リンク|ジョルジョ・レヴィ・デッラ・ヴィーダ|en|Giorgio Levi Della Vida}}は、「ワリードの下でカリフの国家はアブドゥルマリクの長期に及んだ仕事によってまかれた種の収穫を見た」と述べている{{sfn|Della Vida|1993|p=1002}}。一方でシャアバーンはワリードの治世を以下のように評している。<blockquote>
ワリードの治世([[西暦]]705年 - 715年/[[ヒジュラ暦]]86年 - 96年)は父親の治世のあらゆる面をそのまま引き継いでおり、平穏を保っていた。ハッジャージュは権力を維持したのみならずさらにそれを強化させ、政策も同様のものを維持していた。唯一の違いは、この数年間の安定のおかげでワリードは国内におけるアブドゥルマリクとハッジャージュの政策の効果をさらに発展させることができたという点である。{{sfn|Shaban|1971|p=117}}</blockquote>歴史家の{{仮リンク|ジェラルド・R・ホーティング|label=ジェラルド・ホーティング|en|G. R. Hawting}}は、ハッジャージュによって結び付けられたアブドゥルマリクとワリードの治世は「いくつかの点においてウマイヤ朝政権の絶頂期を示しており、東西両地域における著しい領土の拡大を経験し、国家の公的な面においてはアラブ的、イスラーム的性格がより顕著に現れた」と指摘している{{sfn|Hawting|2000|p=58}}。国内に関して言えばワリードの治世は概して平和と繁栄の時代であった{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}{{sfn|Kennedy|2004|p=104}}。ケネディはその治世について、「目覚ましい成功を収め、恐らくウマイヤ朝政権の全盛期を象徴している」と述べている。その一方で、これらの成功におけるワリードの直接的な役割は明らかではなく、その最も大きな功績はウマイヤ家の一族と軍内の対立する派閥間の均衡を維持したことにあるかもしれないと述べている{{sfn|Kennedy|2002|p=127}}。
 
9世紀の歴史家のウマル・ブン・シャッバによれば、シリアの同時代人たちはその治世中におけるヒスパニア、シンド、およびマー・ワラー・アンナフルの征服、ダマスクスとマディーナの大モスクに対する後援、そして慈善活動といった功績から、ワリードのことを「カリフの中で最も価値のある人物」だとみなしていた{{sfn|Hinds|1990|p=219}}。ワリードの公的な宮廷詩人であった{{仮リンク|ファラズダク|label=アル=ファラズダク|en|Al-Farazdaq}}は、ワリードとその息子たちにいくつかの{{仮リンク|パネジリック|en|Panegyric}}(称賛の辞)を捧げている{{sfn|Blachère|1965|p=788}}。また、アル=ファラズダクと同時代の詩人の{{仮リンク|ジャリール・ブン・アティーヤ|label=ジャリール|en|Jarir ibn Atiyah}}は、カリフの死を悼んで次のように詠んだ。「目よ、想い出が呼び起こす溢れんばかりの涙を流せ、今日より後には涙を溜め込んでも意味がないのだから」{{sfn|Hinds|1990|p=221}}。一方でキリスト教徒の詩人の[[アフタル|アル=アフタル]]は、ワリードを「神の[[スンナ]]を通じて雨を求める神のカリフ」と呼んだ{{sfn|Crone|Hinds|1986|pp=8–9}}。
 
ヴェルハウゼンはワリードについて、以前のカリフには見られなかったような形で君主政体が有する表面的な飾り物を進んで利用したと述べている{{sfn|Wellhausen|1927|p=224}}。ワリードはダイル・ムッラーンやシリア北部の{{仮リンク|ハナースィル|label=フナースィラ|en|Khanasir}}などに存在したいくつかの宮殿に住んでいた{{sfn|Blankinship|1994|p=293, note 18}}。国庫にはかなりの富があったため、ワリードは親族のために法外なまでの資金を使い込むことが可能であった。増え続けるウマイヤ家の王子たちの間において、このような贈与への期待はワリードの後継者たちの下でも続いた。歴史家の{{仮リンク|ハーリド・ヤフヤー・ブランキンシップ|en|Khalid Yahya Blankinship}}によれば、これらの王子たちに対する手厚い俸給と費用のかかる私的な建築物の供与は、国内の「他のほとんど全ての人々」から反感を買い、「国庫の枯渇」につながった{{sfn|Blankinship|1994|pp=83, 85}}。また、征服を推し進める軍隊の装備と報酬にかかる費用はさらに重要性の高い支出であった{{sfn|Blankinship|1994|p=84}}。アブドゥルマリクとワリードの下でのこれらの多額の支出は両者の後継者たちにとって財政的な重荷となり{{sfn|Della Vida|1993|p=1002}}、国家の経済が依存していた戦利品の流入も後継者たちの下で減少し始めた{{sfn|Blankinship|1994|pp=83–84}}。ブランキンシップは、717年から718年にかけて続いた[[コンスタンティノープル包囲戦 (717年-718年)|コンスタンティノープルの包囲戦]]で被った莫大な損失だけで「ワリードの下で得た利益は事実上帳消しになった」と指摘している{{sfn|Blankinship|1994|pp=83–84}}。
 
== 家族 ==
[[File:Abbreviated Umayyad Family Tree.png|thumb|right|480px|ウマイヤ家と王朝の系図。青色が[[マルワーン1世]]とその子孫(マルワーン家)のカリフ、黄色が[[ムアーウィヤ1世]]が属していたスフヤーン家のカリフ、緑色が[[正統カリフ]]の[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]。]]
歴史家のアンドリュー・マーシャムは、ワリードが兄弟たちと比べて少なくとも9人に及ぶ「異例なほどの人数と結婚」しており、「年長者であることとアブドゥルマリクの後継者にふさわしい者としての威厳を反映している」と述べている{{sfn|Marsham|2022|p=38}}。また、これらの結婚には第4代正統カリフの[[アリー・ブン・アビー・ターリブ]](在位:656年 - 661年)や、かつてのウマイヤ家の著名な政治家である{{仮リンク|サイード・ブン・アル=アース|en|Sa'id ibn al-As}}の子孫ような潜在的な対抗者の一族を含む相手と政治的な同盟を築く意図もあった{{sfn|Marsham|2022|p=38}}。ワリードはアリーの曾孫にあたるナフィーサ・ビント・ザイド・ブン・アル=ハサンとザイナブ・ビント・アル=ハサン・ブン・アル=ハサンの2人と結婚した。また、サイードの娘のアーミナと結婚したが、アーミナの兄弟の{{仮リンク|アシュダク|label=アル=アシュダク|en|Al-Ashdaq}}はマルワーンによってカリフの後継者から外され、アブドゥルマリクの打倒を試みたものの殺害された。他にはアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの下で要職にあった[[クライシュ族]]の指導者である{{仮リンク|アブドゥッラー・ブン・ムティー|en|Abd Allah ibn Muti}}の娘と結婚した。他の妻の中にはカイス系の{{仮リンク|ファザーラ族|en|Banu Fazara}}の女性がいたが、この女性との間には息子のアブー・ウバイダが生まれた{{sfn|Marsham|2022|p=38}}。
 
マーシャムはワリードとその従姉妹にあたるウンム・アル=バニーンの結婚がアブドゥルマリクとその弟でウンム・アル=バニーンの父親であるアブドゥルアズィーズの「運勢を結びつけた」と述べている{{sfn|Marsham|2022|p=38}}。そのウンム・アル=バニーンとの間には息子のアブドゥルアズィーズ、ムハンマド、マルワーン、およびアンバサと娘のアーイシャが生まれた{{sfn|Marsham|2022|p=39}}。ワリードはウマイヤ家出身の妻であるウンム・アブドゥッラー・ビント・アブドゥッラー・ブン・アムル(第3代正統カリフの[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]](在位:644年 - 656年)の曾孫にあたる)との間に息子のアブドゥッラフマーンを儲けた{{sfn|Ahmed|2011|p=123}}。また、ウンム・アブドゥッラーの姪のイッザ・ビント・アブドゥルアズィーズとも結婚したが、後に離婚した{{sfn|Ahmed|2011|p=123, note 674}}{{efn2|ワリードの死後、ウンム・アブドゥッラーはカリフのスライマーンの息子でその後継者となる予定であった甥のアイユーブと再婚した。一方でイッザはワリードの弟の{{仮リンク|バッカール・ブン・アブドゥルマリク|en|Bakkar ibn Abd al-Malik}}と再婚した。2人の一貫したマルワーン家の人物との結婚は、両者の一族がウマイヤ朝のカリフから大きな寵愛を受けていたことを示している{{sfn|Ahmed|2011|p=123}}。}}。
 
ワリードの22人の子供のうち、母親がギリシア人であったアル=アッバースを含む15人は女奴隷の内妻({{仮リンク|ウンム・ワラド|en|Umm al-walad}})との間に生まれた{{sfn|Marsham|2022|p=38}}{{sfn|Fowden|2004|p=241}}。歴史家の[[タバリー]](923年没)によれば、ワリードの息子の[[ヤズィード3世]](在位:744年)の母親はサーサーン朝最後の王[[ヤズデギルド3世]](在位:632年 - 651年)の息子である[[ペーローズ3世]]の娘のシャー・イー・アーフリード(シャーファランドとも呼ばれる)であった{{sfn|Gil|1997|p=163}}。シャー・イー・アーフリードはマー・ワラー・アンナフル征服の際に捕虜となり、ハッジャージュからワリードへ献上された{{sfn|Hillenbrand|1989|p=234}}{{sfn|Hawting|2002|p=311}}。一方でヤズィード3世と同様に後にカリフとなる[[イブラーヒーム (ウマイヤ朝)|イブラーヒーム]](在位:744年)の母親は、スウアルもしくはブダイラという名の内妻であった{{sfn|Gordon|Robinson|Rowson|Fishbein|2018|p=1058}}。他の複数の内妻との間に生まれた息子は、ウマル、ビシュル、{{仮リンク|マスルール・ブン・アル=ワリード|label=マスルール|en|Masrur ibn al-Walid}}、マンスール、ラウフ、ハーリド、ジャズ、マスラマ、タンマーム、ムバシュシル、ヤフヤー、およびサダカであった{{sfn|Marsham|2022|p=39}}。
 
744年にワリードの息子のうち10人余りの人物が恐らくカリフ位の継承の対象から外されたことに恨みを抱き、ヤズィード(3世)の下で他のウマイヤ家の王子や支配者層と共謀して従兄弟にあたるカリフの[[ワリード2世]](在位:743年 - 744年)を打倒しようとした。ワリード2世は744年4月に暗殺されたが、この事件はイスラーム世界の{{仮リンク|第三次内乱 (イスラーム史)|label=第三次内乱|en|Third Fitna}}(744年 - 750年)の開始を告げることになった。ヤズィード3世はカリフに即位したが半年後に死去し、異母弟のイブラーヒームが後継者となった。しかし、イブラーヒームは広く承認されるには至らず、744年12月にウマイヤ家の遠戚にあたる[[マルワーン2世]](在位:744年 - 750年)によって打倒された{{sfn|Kennedy|2004|pp=112–114}}{{sfn|Hawting|2000|pp=91–93, 96}}。750年に[[アッバース革命]]によってウマイヤ朝の支配が崩壊した際にはワリードの息子の1人であるラウフの子供たちが処刑された{{sfn|Robinson|2010|p=237}}。別の息子のアル=アッバースとウマルの子孫の中には756年に[[後ウマイヤ朝]]が建国された後に名門として名を馳せたハビーブ家のように生き残った家系も存在した{{sfn|Scales|1994|p=114}}{{efn2|ハビーブ家はワリードの曾孫にあたるハビーブ・ブン・アブドゥルマリク・ブン・ウマルを始祖とし、一族からは9世紀後半に至るまで[[アル=アンダルス]]の後ウマイヤ朝の下で総督、[[カーディー]](裁判官)、詩人、大土地所有者などを輩出した{{sfn|Scales|1994|p=114}}。10世紀のアル=アンダルスの歴史家の[[イブン・ハズム]]は、ワリード1世の他の息子としてアブドゥルマリクとアル=アスアドの2人の名前を挙げており、両者の子孫は後ウマイヤ朝の地に定住したと述べている{{sfn|Uzquiza Bartolomé|1994|p=458}}。}}。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
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*{{cite book|last1=Lévi-Provençal|first1=E.|authorlink1=:en:Évariste Lévi-Provençal|last2=|first2=|authorlink2=|others=[https://referenceworks.brillonline.com/search?s.q=Mūsā+b.+Nuṣayr&s.f.s2_parent=s.f.book.encyclopaedia-of-islam-2&search-go=Search "Mūsā b. Nuṣayr"] {{Subscription required}}. In [[:en:Clifford Edmund Bosworth|Bosworth, C. E.]]; [[:en:Emeri Johannes van Donzel|van Donzel, E.]]; [[:en:Wolfhart Heinrichs|Heinrichs, W. P.]] & [[:en:Charles Pellat|Pellat, Ch.]] (eds.). ''Encyclopaedia of Islam. Volume VII: Mif–Naz'' (2nd ed.)|title=|url=|publisher=E. J. Brill|location=Leiden|pages=643–644|year=1993|isbn=978-90-04-09419-2|language=en|ref=harv}}
*{{cite book|last=Lilie|first=Ralph-Johannes|author-link=:en:Ralph-Johannes Lilie|title=Die byzantinische Reaktion auf die Ausbreitung der Araber. Studien zur Strukturwandlung des byzantinischen Staates im 7. und 8. Jhd.|publisher=Institut für Byzantinistik und Neugriechische Philologie der Universität München|location=Munich|year=1976|url=https://books.google.com/books?id=7mUbAAAAYAAJ|oclc=797598069|language=de|ref=harv}}
*{{cite book|last1=Marsham|first1=Andrew|title=The Rituals of Islamic Monarchy: Accession and Succession in the First Muslim Empire|date=2009|publisher=Edinburgh University Press|location=Edinburgh|isbn=978-0-7486-2512-3|url=https://books.google.com/books?id=ZOaqBgAAQBAJ|language=en|ref=harv}}
*{{cite book|last1=Marsham|first1=Andrew|editor1-last=Osti|editor1-first=Letizia|editor2-last=van Berkel|editor2-first=Maaike|title=The Historian of Islam at Work: Essays in Honor of Hugh N. Kennedy|date=2022|publisher=Brill|location=Leiden|isbn=978-90-04-52523-8|pages=12–45|url=https://books.google.com.mx/books?id=kQmWEAAAQBAJ&lpg=PR6&hl=ja&pg=PA12#v=onepage&q&f=false|chapter=Kinship, Dynasty, and the Umayyads|language=en|ref=harv}}
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*{{cite book|editor-last=Powers|editor-first=David S.|editor-link=|title=The History of al-Ṭabarī, Volume XXIV: The Empire in Transition: The Caliphates of Sulaymān, ʿUmar, and Yazīd, A.D. 715–724/A.H. 96–105|date=1989|series=SUNY Series in Near Eastern Studies|publisher=State University of New York Press|location=Albany, New York|isbn=978-0-7914-0072-2|url=https://books.google.com/books?id=kIKGclA7YykC|language=en|ref=harv}}
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*{{cite book|last1=Shaban|first1=M. A.|title=Islamic History: Volume 1, AD 600–750 (AH 132): A New Interpretation|date=1971|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-08137-5|url=https://archive.org/details/IslamicHistoryANewInterpretationVol.1|language=en|ref=harv}}
*{{cite book|last1=Treadgold|first1=Warren|author-link=:en:Warren Treadgold|title=A History of the Byzantine State and Society|date=1997|publisher=Stanford University Press|location=Stanford, California|isbn=0-8047-2630-2|url=https://books.google.com/books?id=nYbnr5XVbzUC|language=en|ref=harv}}
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*{{cite book|last1=Wellhausen|first1=Julius|authorlink1=ユリウス・ヴェルハウゼン|last2=|first2=|authorlink2=|title=The Arab Kingdom and its Fall|url=https://archive.org/details/arabkingdomandit029490mbp|publisher=University of Calcutta|location=Translated by Margaret Graham Weir. Calcutta|pages=|year=1927|oclc=752790641|language=en|ref=harv}}
*{{cite journal|last1=Yavuz|first1=Yildirim|title=The Restoration Project of the Masjid al-Aqsa by Mïmar Kemalettın (1922–26)|journal=Muqarnas|date=1996|volume=13|pages=149–164|jstor=1523257|language=en|ref=harv}}
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