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「[[ヨーロッパ戦勝記念日|V-Eデー]]」と呼ばれたこの日は、1918年の第一次世界大戦終結時のようにビッグ・ベンが鳴り、人々は街に繰り出してお祭り騒ぎとなった。庶民院議員たちはみんなで[[ウェストミンスター寺院]]に参拝し、神に感謝を捧げた{{Sfn|河合|1998|p=298}}。チャーチルはジョージ6世ら王室メンバーとともにバッキンガム宮殿のバルコニーから観衆に手を振った後、保健省のバルコニーから群衆に「これは諸君の勝利である」と宣言し、皆で愛国歌「[[ルール・ブリタニア|ブリタニアよ、支配せよ]]」を熱唱した{{Sfn|山上|1960|p=211}}。
 
===== 対日アジアにおける勝利と大英帝国の没落 =====
「V-Eデー」によりアジアを除く戦前の大英帝国は全て戻り、新たに北アフリカ全域、[[レヴァント]]地方、イランがイギリス軍の占領下に置かれていた。地中海の支配権も戦前以上に強力にイギリスが握っていた。さらにイギリス軍はドイツとイタリアとオーストリアを分割占領していた。チャーチルはそれをもって大英帝国衰退論を否定し、「大英帝国はそのロマンティックな歴史上、いつの時代よりも強力になっている」と宣言した{{Sfn|モリス|2010|pp=255-256}}。
 
しかしそれは幻想だった。1945年中旬以降ビルマにおける日本軍との戦いは終わりに近づいていたものの、未だにマレー半島やシンガポール、香港などの旧植民地は日本軍の占領下にあった上に、これらのアジアの植民地におけるイギリスの権威は、植民地住人と同じ黄色人種である日本の勝利で完全に失墜していた。さらにもはやイギリスには大英帝国を維持する力もなくなっており、実際にこの後10年程度の間に、インドやセイロン、マレー半島やパレスチナ、スーダンなど帝国の多くの地域が独立した。
 
さらにもはやイギリスには大英帝国を維持する力もなくなっており、実際にこの後10年程度の間に、インドやセイロン、マレー半島やパレスチナ、スーダンなど帝国の多くの地域が独立した。イギリスの海外投資は戦前の4分の1に激減し(ケインズの試算によると、[[アメリカ本土攻撃|日本軍による攻撃]]以外に本土に対する攻撃を受けなかったアメリカの損失の35倍とされる)、イギリスの産業・貿易は衰退、国民生活は困窮した。武器貸与法は失効し、米英借款協定([[:en:Anglo-American loan|Anglo-American_loan]])によって物資をローンで購入したせいで80億ポンドの負債を抱えることになったうえ、イギリスの工業産業は事実上兵器産業だけになってしまい、もはや世界の覇権国の地位をアメリカに奪われるのを防ぐ手段はなかった{{Sfn|山上|1960|p=222}}{{Sfn|モリス|2010|p=264}}。さらに戦時中から続いていた食料の配給制度は1949年に入るまで続いていたものもあるなど、敗戦国であった日本やドイツより長く続いた
 
勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、チャーチル自身も大戦中から自国の没落を肌で感じ取っていた。テヘラン会談の際に「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らしている{{Sfn|河合|1998|p=299}}。