「グレゴリオ暦」の版間の差分
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'''グレゴリオ暦'''(グレゴリオれき、{{Lang-la-short|Calendarium Gregorianum}}、{{Lang-it-short|Calendario gregoriano}}、{{Lang-en-short|Gregorian calendar}})は、[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[ユリウス暦]]の改良を命じ、[[1582年]][[10月15日]][[金曜日]](グレゴリオ暦){{Efn|この日は、[[ユリウス通日]]では「{{val|2299160.5}}」に、ユリウス暦では「1582年10月5日」に相当する。}}から行用されている[[暦法]]である。
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{{Today/旧暦/CE/AH}}
== 制定に至る背景 ==
キリスト教徒にとって[[復活祭]]は特に重要な祝祭日である。[[新約聖書]]において、[[イエス・キリスト]]の[[処刑]]と復活の記事は、[[太陰太陽暦]]である[[ユダヤ暦]]に基づいて記述されており、イエスの処刑日は[[ユダヤ教]]の[[過越し]]の日の前日すなわちニサン月14日([[ヨハネによる福音書]])または過越祭第一日目の同月15日([[共観福音書]])とある。このユダヤ暦ニサン月は[[春分]]の頃に来る太陰月であり、[[メソポタミア文明]]の暦においては伝統的に正月(新年)とされていたものである。
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== 改暦委員会と改暦案の提案 ==
ユリウス暦による春分日のずれを、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]としても無視できなくなり<ref>{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・E・ダンカン|authorlink=デイヴィッド・E・ダンカン|others=[[松浦俊輔]]訳|year=1998|month=12|title=暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか|publisher=河出書房新社|page=15|isbn=4-309-22335-4|ref=ダンカン1998}}</ref>、[[第5ラテラン公会議]](1512-1517)において改暦が検討された。このとき[[フォッソンブローネ]]司教のミデルブルフのパウル([[:en:Paul of Middelburg]])(1446-1534)は、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]を含めてヨーロッパ中の学者に意見を求めた。しかし、コペルニクスは「太陽年の長さの精度は不十分であり、改暦は時期尚早である」と返答した<ref>[http://www.sites.hps.cam.ac.uk/starry/copercalen.html Copernicus and Calendar Reform] Starry Messenger,Department of History and Philosophy of Science, University of Cambridge, 1999. "Copernicus wrote in a response, which is now lost, but probably stated something along the position stated in the preface to his Revolutions, that reform of the calendar was premature because the precise length of the tropical year was not yet known with sufficient accuracy."
</ref><ref>青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83 コペルニクスは遠慮深く、「今の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていない」として断っている。</ref>。コペルニクスは彼の主著「[[天球の回転について]]」の序文でこのことを明記している<ref>[http://www.webexhibits.org/calendars/year-text-Copernicus.html De Revolutionibus (On the Revolutions)天球の回転について] Nicholas Copernicus, 1543 C.E., 序文 TO HIS HOLINESS, POPE PAUL III,NICHOLAS COPERNICUS’ PREFACE TO HIS BOOKS ON THE REVOLUTIONS の最後のパラグラフの中程。「For not so long ago under Leo X the Lateran Council considered the problem of reforming the ecclesiastical calendar. The issue remained undecided then only because the lengths of the year and month and the motions of the sun and moon were regarded as not yet adequately measured.」 </ref>。
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== 各国・各地域における導入 ==
ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、[[13世紀]]の哲学者[[ロジャー・ベーコン]]が指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったので、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。[[カトリック教会|カトリック]]の国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では宗派上の対立もあって、導入までに少なくとも100年以上かかった。正教会の大半は現在も改暦せずユリウス暦を使用し続けている。非キリスト教国においては、[[1873年]]の[[日本]]
=== カトリック ===
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[[アッシリア東方教会]]では[[1964年]]に当時のアッシリア総主教{{仮リンク|マル・エシャイ・シムン23世|en|Shimun XXIII Eshai}}が行った宗教的改革の一環としてグレゴリオ暦が採用されている。ただしこの改革はすべての信徒に受け入れられた訳ではなく、改革に反対する信徒の一部は{{仮リンク|古代東方教会|en|Ancient Church of the East}}として分離独立している。
=== 各国のグレゴリオ暦導入年月日 ===
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* [[1867年]][[10月18日]] - [[アラスカ]]
*: [[国際日付変更線|日付変更線]]がアラスカの東側から西側に移動されたため、金曜日が2回連続して繰り返された。
* [[1873年]]([[明治]]6年)[[1月1日]] - [[日本]]([[明治改暦]])
* [[1896年]]([[建陽]]元年)1月1日 - [[大韓帝国]]
* [[1912年]]([[中華民国暦|民国]]1年)1月1日 - [[中華民国]](建国とともに採用、同年[[2月12日]]の[[清朝]]滅亡とともに国内全域で正式な暦となる)
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