「ル・コルビュジエ」の版間の差分

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脚注
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{{参照方法|date=2012年12月}}
{{Infobox 建築家
|image = Le Corbusier (1964).jpg
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'''ル・コルビュジエ'''('''Le Corbusier<ref group="注">発音およびカタカナ表記の揺れは[[#名前の表記|名前の表記]]を参照。</ref>'''、[[1887年]][[10月6日]] - [[1965年]][[8月27日]])は、[[スイス]]で生まれ、[[フランス]]で主に活躍した[[建築家]]。本名は'''シャルル=エドゥアール・ジャヌレ<ref group="注">ジャンヌレとも表記される。</ref>=グリ'''(Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。
 
[[モダニズム建築]]の巨匠といわれ<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20150726-ULETNVXSNFOLNEQ5TBVSE32634/|title=「オスカー・ニーマイヤー展」 人工都市ブラジリアをつくった男|publisher=産経ニュース|date=2015-07-26|accessdate=2020-02-16}}</ref>、特に[[フランク・ロイド・ライト]]、[[ミース・ファン・デル・ローエ]]と共に近代建築の三大巨匠として位置づけられる場合もある([[ヴァルター・グロピウス]]を加えて四大巨匠とみなすこともある)。
 
== 生涯 ==
ル・コルビュジエは1887年10月6日、[[スイス]]の[[ラ・ショー=ド=フォン]]に時計の文字盤職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた<ref>{{Cite book|和書 |author = 加藤道夫 |year = 2016 |title = ル・コルビュジエが見たい! |publisher = [[洋泉社]] |page = 32 |isbn = 978-4-8003-1023-1}}</ref>。彼はフレーベル方式を採用した幼稚園に通った<ref>Marc Solitaire, Le Corbusier et l'urbain – la rectification du damier froebelien, pp. 93–117.</ref><ref>Actes du colloque La ville et l'urbanisme après Le Corbusier, éditions d'en Haut 1993 – {{ISBN|2-88251-033-0}}.</ref><ref>Marc Solitaire, Le Corbusier entre Raphael et Fröbel, pp. 9–27, Journal d'histoire de l'architecture N°1, Presses universitaires de Grenoble 1988 – {{ISBN|2-7061-0325-6}}</ref>。家業を継ぐために[[時計職人]]を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、専門的な大学教育は受けていない。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p15 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。
 
美術学校在学中の[[1907年]]に、ル・コルビュジエの才能を見いだした校長の[[シャルル・レプラトニエ]]の勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。[[1908年]]に[[パリ]]へ行き、[[鉄筋コンクリート]]建築の先駆者である[[オーギュスト・ペレ]]の事務所に、[[1910年]]には[[ドイツ工作連盟]]の中心人物であった[[ペーター・ベーレンス]]の事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。
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後期の代表作『[[ロンシャンの礼拝堂]]』([[1955年]]竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、[[シェル構造]]の採用など鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた近代建築の指標である機能性・合理性を超える新たな表現に達した。[[ドミニコ会]]派の[[カトリック]]信者であるル・コルビュジエは、引き続き『[[ラ・トゥーレット修道院]]』の設計についても依頼を受けた(1960年竣工)。この間に『[[国立西洋美術館]]』の基本設計のため、1955年に一度来日している<ref>「巨匠ル・コルビュジエ、最初で最後の来日」(昔の新聞探検隊)有山佑美子 朝日新聞デジタル 2016年9月7日 2017年3月21日閲覧</ref><ref>「西洋美術館 コルビュジエ作風顕著 世界遺産へ」2016年5月17日 毎日新聞 2017年3月21日閲覧</ref>。[[1960年]]には自らの仕事の記録を公的に保管することを構想し、[[1962年]]にはフランス文化相の[[アンドレ・マルロー]]にこれを認めさせた<ref>「ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ」p166 南明日香 王国社 2011年6月20日初版発行</ref>。[[1961年]]には[[AIAゴールドメダル]]、[[1964年]]には[[レジオンドヌール勲章]]を相次いで受賞した。
 
[[1965年]]8月27日、南フランスの[[ロクブリュヌ=カップ=マルタン]]で[[海水浴]]中に[[心臓発作]]で死去した<ref>「ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ」p77 南明日香 王国社 2011年6月20日初版発行</ref>。78歳没。私生活では妻イヴォンヌ(1957年10月)や愛する母マリー(1959年初頭)が相次ぎ他界し、{{要出典範囲|また自身の公的記録を完成させた直後であり、[[自殺]]説もある|date=2019年9月}}
 
== *業績 ==
[[画家]]から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p71 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。
 
[[ファイル:CHF10 8 front.jpg|thumb|right|upright|10[[スイス・フラン]]札に描かれているル・コルビュジエの肖像画]]
ル・コルビュジエの建築模型や図面、家具は、20点以上が[[ニューヨーク近代美術館]]に収蔵されている。ル・コルビュジエの代表作であるLC2 Grand Confort(大いなる快適)は、デザイン家具の歴史上、最も大きな功績を残した作品である。[[1997年]]4月から発行されている、第8次紙幣の10[[スイス・フラン]]にはル・コルビュジエの肖像と作品が描かれていた<ref>「[https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%A6%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E9%81%BA%E7%94%A3_%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%AB-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8%E3%81%AE-%E9%81%A0%E3%81%84-%E9%96%A2%E4%BF%82/42306388 スイスとル・コルビュジエの「遠い」関係]」、2016-07-18、swissinfo.com、2017年4月26日閲覧</ref>。
歴史上の功績は、[[鉄筋コンクリート]]を利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性を信条とした[[モダニズム建築]]の提唱者ということになる。ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、[[1920年代]]の近代主義建築の成立過程において建設技術の進歩にも支えられて、とくに造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は[[モダニズム]]の一つの規範ともなり、世界に広がって[[1960年代]]に一つのピークを極めた(その反動から[[1980年代]]には装飾過多、伝統回帰的な[[ポストモダン建築]]も主張された)。
 
西洋では[[組積造]]([[石積み]]・[[煉瓦#煉瓦建築|レンガ積み]])による建築が伝統的だったが、ル・コルビュジエは[[床スラブ|スラブ]]、[[柱]]、[[階段]]のみが建築の主要要素だとする'''ドミノシステム'''を考案した<ref>暮沢剛巳 『ル・コルビュジエ-近代建築を広報した男』 p42 朝日新聞出版〈朝日選書〉、2009年</ref>。その後の代表作『[[サヴォア邸]]』は、ル・コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点([[ピロティ]]、[[屋上庭園]]、自由な平面、水平連続窓、自由なファサード)」([[近代建築の五原則]])を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。
 
都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、[[CIAM]] 第4回会議でル・コルビュジエらが提案した[[アテネ憲章]]([[1933年]])は、[[公開空地]]など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後には[[チャンディーガル]]などで実践している。終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない。晩年の[[ロンシャンの礼拝堂]](ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築を超えた作品として注目される。ル・コルビュジエの建築模型や図面、家具は、20点以上が[[ニューヨーク近代美術館]]に収蔵されている。ル・コルビュジエの代表作であるLC2 Grand Confort(大いなる快適)は、デザイン家具の歴史上、大きな功績を残した作品である。
 
ル・コルビュジエの建築模型や図面、家具は、20点以上が[[ニューヨーク近代美術館]]に収蔵されている。ル・コルビュジエの代表作であるLC2 Grand Confort(大いなる快適)は、デザイン家具の歴史上、最も大きな功績を残した作品である。[[1997年]]4月から発行されている、第8次紙幣の10[[スイス・フラン]]にはル・コルビュジエの肖像と作品が描かれていた<ref>「[https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%83%A6%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E9%81%BA%E7%94%A3_%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%83%AB-%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8%E3%81%AE-%E9%81%A0%E3%81%84-%E9%96%A2%E4%BF%82/42306388 スイスとル・コルビュジエの「遠い」関係]」、2016-07-18、swissinfo.com、2017年4月26日閲覧</ref>。
 
ル・コルビュジエの建築のうち、[[ドイツ]]のヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅、[[アルゼンチン]]のクルチェット邸、[[ベルギー]]のギエット邸、[[フランス]]のラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸、ペサックの集合住宅、[[サヴォア邸]]、ナンジェセール・エ・コリ通りのアパート、[[ユニテ・ダビタシオン]]、サン・ディエ工場、[[ロンシャンの礼拝堂]]、カップ・マルタンの小屋、ラ・トゥーレット修道院、[[フィルミニのル・コルビュジエ遺産|フィルミニのレクリエーション・センター]]、[[インド]]の[[チャンディーガル]]、[[日本]]の[[国立西洋美術館]]、そして[[スイス]]のレマン湖畔の小さな家<ref>「[http://www.myswitzerland.com/ja/interests/travelpoints/villa-le-lac.html ヴィラ・ル・ラク(コルビュジエ/湖の家)]」 スイス政府観光局</ref>およびイムーブル・クラルテの計7か国17件は、[[2016年]]に開催された[[第40回世界遺産委員会]]において[[ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-]]として世界遺産に登録された<ref>「巨匠ル・コルビュジエ、最初で最後の来日」(昔の新聞探検隊)有山佑美子、朝日新聞デジタル、2016年9月7日、2017年3月21日閲覧</ref>。
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生前ル・コルビュジエが構想し設立を認めさせていた彼の仕事の保管・管理機構は、ル・コルビュジエ財団として死後の1968年に設立され、彼の作品のひとつであるパリのジャンヌレ邸(ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸の片方)に本拠を置いて彼の作品の管理や保護を行っている<ref>「ル・コルビュジエは生きている 保存、再生そして世界遺産へ」p166-167 南明日香 王国社 2011年6月20日初版発行</ref>。
 
== *名前の表記 ==
Le Corbusierがめずらしい名前のせいもあり、誤記もふくめさまざまな表記が見られる。「ル」を付けない表記が多く見られるほか、「コルビュジエ」の部分についても、コルビュジェ、コルブジェ、コルブジエ、コルビジエ、コルビジェ、コルビュゼ、コルビジュ、コルビュジュなどがある。フランス語の発音は{{IPA-fr|lə kɔʁbyzje|}}であるため、これにもっとも近い[[転写 (言語学)|転写]]をするなら「ル・コルビュズィエ」となる{{要出典|date=2019年9月}}。
 
== *都市計画・構想 ==
[[File:Plan Voisin model.jpg|thumb|300px|[[パリ万国博覧会 (1925年)]]のレスプリ・ヌーヴォー館で展示されたパリ改造構想「[[ヴォアザン計画]]」(1925年)]]
ル・コルビュジエは多くの都市計画を立案しこの分野に大きな影響を与えたものの、ほとんどが計画の段階にとどまり、実現したものは1951年にインド北部に建設された新興都市[[チャンディーガル]]の都市計画のみである。ル・コルビュジエの立案した都市計画には以下のようなものがある。