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== 概要 ==
『[[古事記]]』では本名を'''高比売命'''(たかひめのみこと)、亦の名を'''下光比売命'''・'''下照比売命'''(したてるひめのみこと)、『[[日本書紀]]』では'''下照姫'''・'''下照媛'''、亦の名は'''高姫'''、'''稚国玉'''(わかくにたま)、『[[先代旧事本紀]]』地神本紀では'''下照姫命'''と記述される。[[三輪氏]]族の系図では{{疑問点範囲|'''阿陀加夜怒志多伎吉比売命'''(あだかやぬしたききひめのみこと)|date=2023年9月}}の別名を伝える。
 
『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、[[葦原中国平定]]のために[[高天原]]から遣わされた[[天若日子]]が、[[大国主神]]に取り入ってあわよくば[[葦原中国]]を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では[[高天原]])まで届き、その声を聞いた天若日子の父の[[天津国玉神]]や天若日子の妻子らは葦原中国に降臨し、天若日子の喪屋を建て[[殯]]を行った。そこに[[阿遅鉏高日子根神]]が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは天若日子が生き返ったと喜んだ。阿遅鉏高日子根神は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を[[神度剣|大量]]で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。この歌は「[[夷振]](ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』正伝にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、天稚彦の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみ下照媛の名が登場し、味耜高彦根神の妹であるとしている。