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== 報告書の執筆と内容 ==
クルト・ゲルシュタインは1945年4月22日、[[ロイトリンゲン]]でフランスの捕虜となった<ref name = "friedländer_P260">[[#フリートレンダー|フリートレンダー(1971年)]]、260頁</ref>。捕虜になった直後、ネッカー河畔の{{日本語版にない記事リンク|ロトヴァイ|en|Rottweil}}へと連行された<ref name = "friedländer_P260"/>。ゲルシュタインはロトヴァイルで、4月26日からフランス語で手記をのこし、5月4日からドイツ語で手記をのこし始め、これがゲルシュタイン報告とされるものとなった<ref name = "friedländer_P262">[[#フリートレンダー|フリートレンダー(1971年)]]、262頁</ref>。ゲルシュタイン報告の大まかな内容はゲルシュタイン自身の簡単な経歴、[[ベウジェツ強制収容所|ベウジェツ]]と[[トレブリンカ強制収容所|トレブリンカ]]での虐殺状況、そして、これら収容所での虐殺を中立国へ伝えようとしたことが記載されている<ref name = "friedländer_P15">[[#フリートレンダー|フリートレンダー(1971年)]]、15頁</ref>。また、報告書には[[デゲッシュ (企業)|デゲッシュ社]]への青酸の発注書12通が同封されていた<ref name = "friedländer_P15"/>。
 
収容所については、[[オディロ・グロボクニク]]より、[[ベウジェツ強制収容所|ベウジェツ]]と[[トレブリンカ強制収容所|トレブリンカ]]、[[ソビボル強制収容所|ソビボール]]、[[マイダネク]]の収容所の一日当たりの処理人数の説明を受けたこと、また大量の服の消毒命令や、より一層効率よくガス殺が遂行できるようにと命令を受けたことが記載されていた<ref name = "friedländer_P321-322">[[#フリートレンダー|フリートレンダー(1971年)]]、321-322頁</ref><ref name = "friedländer_P137-145">[[#フリートレンダー|フリートレンダー(1971年)]]、137-145頁</ref>。ゲルシュタイン自身が、収容所での排気ガスを使ったガス殺の完了タイムをストップウォッチで計測するという任務をしていたことも同報告書に記載されている<ref name = "friedländer_P327-328">[[#フリートレンダー|フリートレンダー(1971年)]]、327-328頁</ref>。