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| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 = '''新人監督賞'''<br />[[1979年]]『[[ハウス (映画)|HOUSE ハウス]]』
{{Plainlist|
* '''新人監督賞'''
* [[ブルーリボン賞 (映画)#第20回(1977年度)|1977年]]『[[ハウス (映画)|HOUSE ハウス]]』
}}
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 ='''優秀監督賞'''<br>[[1988第12回日本アカデミー賞|1987年]]『[[異人たちとの夏]]』<br>[[第16回日本アカデミー賞|1992年]]『[[青春デンデケデケデケ]]』<br>'''優秀編集賞'''<br>[[第17回日本アカデミー賞|1993年]]『[[はるか、ノスタルジィ]]』
| その他の賞 = '''[[高崎映画祭]]'''<br>'''最優秀作品賞'''<br>[[1986年]]『[[野ゆき山ゆき海べゆき]]』<br>[[1991年]]『[[ふたり]]』<br>'''最優秀作品賞(特別大賞)'''<br>[[2014年]]『[[野のなななのか]]』<br>[[2017年]]『[[花筐/HANAGATAMI]]』<hr>'''[[山路ふみ子映画賞]]'''<br>[[1989年]]『[[北京的西瓜]]』<hr />'''[[芸術選奨文部科学大臣賞]]'''<br />[[1992年]]『[[青春デンデケデケデケ]]』<hr>'''[[紫綬褒章]]'''<br>[[2004年]]<hr>'''[[日本映画批評家大賞]]'''<br />'''監督賞'''<br />[[日本映画批評家大賞#第14回(2004年度)|2004年]]
『[[理由 (小説)|理由]]』<br />[[日本映画批評家大賞#第27回(2017年度)|2017年]]『[[花筐/HANAGATAMI]]』<hr>'''[[TAMA映画祭]]<br>最優秀作品賞'''<br>[[2012年]]『[[この空の花 長岡花火物語]]』<br>[[2014年]]『[[野のなななのか]]』<br>[[2020年]]『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』<hr>'''[[日本映画プロフェッショナル大賞]]'''<br>'''特別功労賞'''<br>[[2017年]]
| 備考 =
}}
'''大林 宣彦'''(おおばやし のぶひこ、[[1938年]]([[昭和]]13年)[[1月9日]]{{R|東宝特撮映画全史539}} - [[2020年]]([[令和]]2年)[[4月10日]]{{R|評伝}})は、[[日本]]の[[映画監督]]{{efn|[[撮影所システム]]で育った映画監督ではないとの理由から{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}<!---<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/091103/tnr0911030956008-n1.htm 産経ニュース【秋の叙勲】旭日小綬章 映画作家・大林宣彦さん(71) 孤独でも誰か見ている 2009.11.3 09:55]{{リンク切れ|date=July 2014}}</ref>--->{{R|Location}}、本人気取っているわけでなく{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}、映画監督とは名乗れないという理由で「映画作家」と称している{{Refnest|group="出典"|{{R|映画は歴史ジャーナリズム85|interview|shikoku}}}}。映画を作ることが決まって、名刺を作る際に肩書きをどうすればいいだろうかと考え、「映画作家」と名刺に印刷した{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。}}。[[従四位]]、[[旭日中綬章]]<ref name="名前なし-1">『官報』第250号8頁 令和2年5月28日号</ref>。[[倉敷芸術科学大学]][[客員教授]]、[[長岡造形大学]][[造形学部]][[客員教授]]、[[尚美学園大学]][[名誉教授]]、[[文化功労者]]{{R|mext}}。
 
== 概要 ==
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妻は[[映画プロデューサー]]の[[大林恭子]]。長女の[[大林千茱萸]]は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており(映画「[[ハウス (映画)|ハウス]]」の発案者である他、出演もしている)、その夫は[[漫画家]]の[[森泉岳土]]{{R|森泉}}。劇作家・演出家の[[平田オリザ]]は甥にあたる{{R|ORIZA}}{{efn|成城大学時代の1960年に8ミリで映画『だんだんこ』を大林と共作したのが平田オリザの父・平田穂生で、後に大林の妻の姉と結婚したため平田オリザは甥となる{{R|independent}}。}}。
 
[[自主映画|自主製作映画]]の先駆者として{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|mext|nhk|independent|訃報|bs|シネアルバム52}}}}、[[コマーシャルメッセージ|CM]][[ディレクター]]として{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|wedge|訃報|onomichi-u|cmdir|mandom|dentsu-ho|yamaha|日本の映画人}}}}、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"'''映像の魔術師'''
"{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|nhk|訃報|onomichi-u|magician|tiff|toyokeizai200428|bunshun20190902|知っておきたい}}}}<!-- <ref name="アナーキー80">[[映画秘宝]]EX『爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』[[洋泉社]]、2012年、P18-19、36-37</ref><ref name="トラベラー">[[樋口尚文]]『テレビ・トラベラーー昭和・平成テレビドラマ批評大全』[[国書刊行会]]、2012年、p354</ref>-->{{efn|1977年の『[[ハウス (映画)|ハウス]]』公開時の宣材に「CM界の魔術師・大林宣彦が鮮烈映像とハッピーなサウンドで描く新しい驚きと美しいオカルト映画新登場!」という[[キャッチコピー]]が使われた{{R|映画時報197705}}。}}。
 
== 来歴 ==
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父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる{{Refnest|group="出典"|{{R|profile|のこす言葉32<!--- リンク切れのため除去|oricon200411--->}}}}<!--- リンク切れのため除去<ref>{{Cite web|title=大林宣彦監督82歳 死去 「転校生」「時をかける少女」など|url=https://www.oricon.co.jp/article/1133684/|website=FNN.jpプライムオンライン|accessdate=2020-04-12|language=ja}}</ref>--->。父は[[福山市]]金江町の出身で、尾道市[[医師会]]長や尾道市教育委員長を歴任。母は[[茶道]][[裏千家]]の教授。父方の祖父は日本で初めて[[催眠#催眠療法|睡眠療法]]を取り入れようとした人で{{R|のこす言葉32}}、大林は子どもの頃、[[睡眠時遊行症|夢遊病]]を取り入れた[[心理療法]]を受けたことがあるという{{R|のこす言葉32}}。父方の一族の男子は、歴代"大林〇彦"と、母方の一族の男子の名前は歴代"村上〇祥"と名前を付けられた{{R|シネアルバム120_64}}。両方の家は親戚を含めて大人になったら男は全員医者、女は医者の妻と宿命付けられており{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|outemon}}}}、大林家の息子と村上家の娘が結婚して男子が生まれたら、大人になったら医者になるしか選択肢はなかった{{R|シネアルバム120_64}}。
 
宣彦の生誕時に父は[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医科大学]](現在の[[岡山大学]][[医学部]])の寮にいたが、母は初産で、尾道の母方の実家に帰り宣彦を産んだ{{R|のこす言葉32}}。1歳のとき父が[[軍医 (日本)|軍医]]として[[南方作戦|南方に出征]]したため、宣彦はそのまま母方の実家・尾道の山の手で、18歳で上京するまで育つ{{Refnest|group="出典"|{{R|のこす言葉32|田山198}}}}{{efn|大林によれば、戦前の尾道は[[カースト]]のようなものがあり、住む地域によってきれいに色分けされていて、大林が育った[[山陽本線]]より上の斜面が山の手の上流階級、今の[[国道2号線]]がある場所は戦争中は民家が立ち並ぶ下町。その下が商人の町で、海岸が漁師町でさらに海岸の先に[[水上生活者#日本|船上民族]]がいて、高校生ぐらいまで女の子が裸で暮らしていたという{{R|のこす言葉32}}。}}。母方の実家は築100年以上の古くて大きな家で、男女合わせて30~40人が住む賑やかな家ではあったが、父親がいないこと、他の[[いとこ|従妹]]とも年が離れていたため一人で遊ぶことが多かった{{R|のこす言葉32}}。1~2歳の頃の楽しみは、庭のすぐ下を通過する[[山陽本線]]の[[蒸気機関車]]で、それはとてつもない恐怖体験だったという{{R|のこす言葉32}}。[[戦前#「戦前」が指す戦争|戦前]]の尾道には外国船も寄港し、[[南蛮貿易|南蛮渡来]]の不思議な積み荷が届くと、港の人が「先生、これは何でしょうか?」と祖父の元に持ち込み、「わしにもよう分からんけ、蔵に入れとけ」と、蔵の中は[[古今東西]]の[[がらくた|ガラクタ]]で溢れていた{{R|のこす言葉32}}。2歳でその蔵にあった[[ブリキ]]の[[映写#映写機|映写機]]の[[玩具|おもちゃ]]に親しみ{{R|のこす言葉32}}、6歳で[[35mmフィルム]]に手描きして[[アニメーション]]を作った{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|訃報|musabi}}}}。大林は1977年『[[ブラック・ジャック (実写版)#映画(1977年・宍戸錠版)|瞳の中の訪問者]]』撮影中に[[樋口尚文]]のインタビューに答え、影響を受けた監督は誰かの質問に対して「観た映画は全部栄養になっていますから、特に師匠のように尊敬している人は名前が挙がらないのですが、日本で誰か一人と言われたなら[[マキノ雅弘]]さんになっちゃうでしょうね。もっと言えば[[エジソン]]が映画というオモチャを発明して僕の子供部屋に送り込んでくれたということでしょうか」などと述べている{{R|ユリイカ総特集39}}。映画監督は、映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|訃報}}}}。この祖父をモデルに作った『マヌケ先生』をもとにして後に[[三浦友和]]主演でテレビドラマ、映画が制作された{{Refnest|group="出典"|{{R|takarajima|ユリイカ総特集20}}}}。自身を投影している主人公の名前「馬場毬男」は、イタリアの撮影監督・[[マリオ・バーヴァ]]をもじったもので、遺作となった『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』の主人公名でもある{{efn|商業映画デビューする際に、馬場毬男以外に、団茂([[ドン・シーゲル]])、鳥鳳介([[フランソワ・トリュフォー]])なども候補に考えていた{{R|ユリイカ総特集20}}。}}
 
大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|読本550}}}}。[[太平洋戦争|戦争]]で近所の親しかった人たちが次々と亡くなった。「幼少期に感じた死者の気配が映画づくりの原点。私が描くのは虚実のはざま。生きているのか死んでいるのか分からない人が登場する」と語る{{R|訃報}}。敵国だった[[アメリカ合衆国の映画|アメリカの映画]]が公開再開されるようになったのは[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]のことで{{Refnest|group="出典"|{{R|映画は歴史ジャーナリズム11|映画は歴史ジャーナリズム85}}}}、大林は物心つく頃が[[太平洋戦争|戦中]]に当たるため、戦中は[[大日本帝国]]の軍部指導によって作られた戦意高揚映画と[[時代劇]]しか上映されず{{Refnest|group="出典"|{{R|映画は歴史ジャーナリズム11|映画は歴史ジャーナリズム85}}}}、大林もアメリカ映画を観たのは戦後となる{{Refnest|group="出典"|{{R|映画は歴史ジャーナリズム11|映画は歴史ジャーナリズム85}}}}。戦後にそれまで上映されなかったアメリカ映画を含む海外の映画が、白黒、カラーも製作も関係なく、溢れんばかりに日本の劇場で上映された{{R|映画歴史ジャーナリズム85}}。『[[ハウス (映画)|HOUSE]]』をアメリカで紹介した人物の一人であるマーク・ウォルコフは「[[原子爆弾]]を食べて[[ゴジラ]]が生まれたみたい、精しん年齢12歳に満たない子どもに、混ざるようにしていっぺんに大量の映画を与えてしまった[[連合国軍占領下の日本|占領政策]]の作品が大林を作っている」と論じた{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。「精しん年齢12歳」というのは、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]が日本人を表現した言葉だが{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}、当時8歳だった大林は非常に納得したという{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。尾道は[[造船所]]に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の[[捕虜]]がいたため[[空襲#第二次世界大戦|空襲]]に遭わなかった{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、一週間を[[月月火水木金金|月月火水木金土土日日]]ペースで映画館に通い{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}、当時の映画は二本立て、三本立てで週20-30本ペースで映画を観て{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}、「どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す{{R|outemon}}。当時の映画館はたいてい満席で座って観ることはできず、ほとんど立って観たという{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。尾道で唯一の[[洋画]]館だったセントラル劇場は、[[遊廓|女郎屋街]]を抜けた場所にあり{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}、『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』などでも描かれている。終戦後に捕虜を叔父が手当てするため、[[国民学校]]に呼び出されたとき、一緒について行き、生まれて初めて[[白人]]を見た{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。『[[冒険ダン吉]]』も『[[のらくろ]]』の猛犬連隊も[[日本人]]は白く描かれ、のらくろがやっつけるしなじやちょうせんじが[[黄色人種]]に描かれていたため、それまで日本人だけが白人だと思い込んでいた{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。野蛮人と思い込んでいた白人の捕虜が、お礼にと貴重な[[落下傘]]の布や[[パイナップル]]の[[缶詰]]、[[チョコレート]]や[[チューインガム]]をくれた{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。ガムは噛んでは水で洗い、粗末な[[甘味料]]に浸して一年ぐらい噛んだという{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]に強い影響を受けたのは{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|jt200416|映画は歴史ジャーナリズム11}}}}、憧れのアメリカの白人がわんさか出てくるから{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。「僕らの世代こそが完全な[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の申し子世代」と述べている{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。[[角川春樹]]と親しくなったきっかけは、角川「僕は[[アラン・ラッド]]の映画が好きでね」で、大林「おぬし、できるな」という会話から始まっているという{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。有名な『[[シェーン]]』が公開されたとき、大林の感想は「ラッドが何でこんな大作[[西部劇]]に出るんだ?」「これでもう西部劇は終わった。こんな埃のしない西部劇ってあるのか、これは東部西部劇だ」だったという{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。アメリカのティーチインは「あなたの戦争体験は?」から始まるという{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。実家の持ち家の一つに[[新藤兼人]]が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=6391|title=「新藤さんの遺志継ぐ」 大林監督 思い出語る|date=2012-06-04|accessdate=2015-11-07}}</ref>。尾道の(当時あった)九つの映画館で上映される映画をすべて観ようと決意し、どうかすると(尾道時代に)千本近い映画を観ていたと思います」と話す{{R|outemon}}。15歳のときに[[小津安二郎]]が『[[東京物語]]』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに[[福永武彦]]『[[草の花]]』を読み、感銘を受ける{{R|traveler}}。いつか[[フレデリック・ショパン|ショパン]]のピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』で実現する。高校時代は[[手塚治虫]]に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、[[同人誌]]を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した{{R|yamaha}}。
 
=== 自主映画作家として ===
医者になることを宿命付けられていたが{{R|outemon}}、真剣に医者を目指す同級生は、地元の[[広島医科大学]]か[[京都大学大学院医学研究科・医学部|京大]]、[[大阪大学|阪大]]を目指していた{{R|のこす言葉57}}。地元で実家の医者を継ぐという選択のリアリティは[[関西圏]]までしかなかった{{R|のこす言葉57}}。大林は進路に迷いがあり、この時点で医者になることは[[虚構]]になり始めていた{{R|のこす言葉57}}。[[1955年]]、父に与えられた[[8ミリ映画#機材|8ミリカメラ]]を手に上京し{{R|評伝}}、[[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|慶應義塾大学医学部]]を受験する。しかし試験の途中で抜け出して映画を見に行き、「医者にはならない、映画の世界に行くんだ」と決意{{R|のこす言葉57}}。尾道に戻り、父に「医者にならない、映画を作りたい」と言ったら、何と父はそれを認めてくれた{{R|のこす言葉57}}。父親は岡山医科大学を首席に近い成績で卒業して、将来を嘱望された[[学者|研究者]]で、戦争で研究者のキャリアを断念し、戦後復員後、妻の実家の病院を継ぎ、地元の医師として一生を終えた人だった{{R|のこす言葉57}}。また母親も世が世なら、東京に行って女優か作家になりたいと考えていたモダンな人で、母親も賛成してくれた{{R|のこす言葉57}}。1年[[過年度生|浪人]]する間、東京中の[[名画座]]で映画を見まくる{{R|のこす言葉57}}。「1960年代までは、日本で観ることのできる世界中の映画を全部観ている」と話している{{R|toyokeizai200428}}。ある日、自転車で[[雑木林]]に導かれ{{R|総特集18}}、いつのまにかどこかの敷地に侵入し、小高い丘の上に[[成城大学]]があり、学園というのが洒落ているなという理由で成城大を受験する{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|総特集18}}}}。尾道には海と島と山はあっても陸地やそれに連なる雑木林はなく{{R|総特集18}}、雑木林なんてヨーロッパ映画でしか見たことはなく、東京は[[異国]]のようだったと話している{{R|総特集18}}。慶應の医学部を目指していたから成城は遊びで受かるだろうと思い、合格発表は見ていないという{{R|総特集18}}。映画作りを仕事にしようと決意し{{R|outemon}}、[[1956年]]に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学した{{R|Location}}。映画学科がある大学は珍しかったが{{R|シネアルバム120_64}}、学生が映画を作るわけではなく{{R|シネアルバム120_64}}、理論を教えるだけ{{R|シネアルバム120_64}}。この頃はまだ学生たちが映画を作るという時代ではなく{{R|シネアルバム120_64}}、映研も[[日本大学]]しかまだなく{{R|シネアルバム120_64}}、大変特殊な存在だった{{R|シネアルバム120_64}}。当時[[ボードレール]]に憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという{{R|wasahi}}。大学時代は[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]の裏にあった[[早坂文雄]]の[[子息]]が経営するアパート新樹荘に住んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|総特集18}}}}。大林の隣が[[東陽一]]の部屋で{{R|総特集18}}、もう一つ隣の部屋に[[平田オリザ]]の父が住んでいた{{Refnest|group="出典"|{{R|ORIZA|independent|総特集18}}}}{{efn|平田オリザの父と大林は一緒にインディーズ映画を撮っていた仲間で{{R|ユリイカ総特集58}}、平田オリザの父は「大林に最初に[[16ミリフィルム#映画用カメラ|16ミリ]]を持たせたのはオレだ」と生涯自慢していたという{{R|ユリイカ総特集58}}。大林の初期の代表作『だんだんこ』は8ミリだが、原作は平田オリザの父{{R|ユリイカ総特集58}}。平田オリザの父が監督として[[撮影#映像撮影|クランクイン]]したが、撮影の大林が才能がありすぎ、大林作品になってしまったという{{R|ユリイカ総特集58}}。『だんだんこ』には平田の姉も出演している{{R|ユリイカ総特集58}}。平田の母と父をくっつけたのは大林夫妻の策略で、平田オリザは「世の中では『私のいまあるは、〇〇さんのおかげです』というようなスピーチをよく聞くが、私がこの世にあるのは(恩人というだけではなく)生物学的にも大林夫妻のおかげなんです」などと話している{{R|ユリイカ総特集58}}。大林は小学校3年生の平田に「オリザ君、映画監督というのはね、ゼロから世界を創る仕事なんだよ。神様と同じ仕事をするんだから、他人には謙虚じゃなきゃいけないんだよ」と真顔でいうような人だった。偉大な叔父から学んだ一番のことは、監督(演出家)は、いくつになっても、こういう台詞を吐いていいのだという点だった」などと述べている{{R|ユリイカ総特集58}}。}}。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中[[グランドピアノ]]の前で[[シャンソン]]を弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた{{Refnest|group="出典"|{{R|総特集18|wasahi}}}}。その中の一年後輩の女学生がのちの妻で、雑木林で思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言い、そのまま手をつないで講堂を出て大林のアパートに行き、半[[同棲]]を始めた{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|ORIZA|総特集18|wasahi}}}}。当時はまだ「同棲」という言葉はなく{{R|のこす言葉57}}、近所の人は兄妹が一緒に住んでいると思っていたという{{R|のこす言葉57}}。両親は大学を卒業したら、[[東宝]]や[[東映]]に就職するのだろうと考えていたが{{R|のこす言葉57}}、当時の[[日本映画製作者連盟|大手映画会社]]は、[[エリート]]しか入れない時代で、[[東京大学|東大]]か京大、[[早稲田大学|早稲田]]ぐらいを卒業してないと[[入社試験]]も受からないと大林自身東京に来てから知った{{R|のこす言葉57}}。そのため映画会社に就職して映画監督になるという選択はあまり現実的ではなく{{R|のこす言葉57}}、[[ヌーヴェルヴァーグ]]の影響を受け{{R|総特集18}}、これからは売れない作家が映画も撮る時代に来るぞ、と考え{{R|総特集18}}、[[8ミリ映画|8mm]]で個人映画を作って[[アプレゲール]]になると意気込んだ{{R|総特集18}}。この頃、[[富士フイルム]]のような[[フィルム]]会社がコンテストを始めたり{{R|シネアルバム120_64}}、ようやく8ミリ関係の雑誌ジャーナリズムも刊行され始めた{{R|シネアルバム120_64}}。[[16mmフィルム|16ミリ]]では[[松本俊夫]]や[[野田真吉]]ら、既にやっている人がいたため、自由な映画といったら、残るは8ミリしかなかった{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。在学中から[[8ミリ映画|8mm]]で作品を発表{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|independent|訃報|シネアルバム52|のこす言葉57}}}}。[[1957年]]、文化祭のために[[福永武彦]]の詩集の映画化「青春・雲」発表{{Refnest|group="出典"|{{R|個人映画109|日本映画の監督たち}}}}。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」([[1958年]])のヒロイン役が妻である{{Refnest|group="出典"|{{R|のこす言葉57|日本映画の監督たち}}}}。当時はまだ[[自主映画|自主製作映画]]という概念はなかったが{{R|Location}}、その先駆者として、早くから名前を知られた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|independent|訃報|シネアルバム52|jt200416}}}}。[[1960年]]に大学を中退{{R|日本映画の監督たち}}。中退後に約2年、[[神田神保町|神保町]]で雑誌編集の仕事をする{{R|ユリイカ総特集20}}。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた[[高林陽一]]と[[飯村隆彦]]の3人しか日本にいなかったという{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|independent|訃報|のこす言葉57}}}}。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、高橋徳行同誌編集長は{{R|総特集18}}、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|逆回転|総特集18}}}}。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|逆回転}}}}。最初に手掛けたのは商店街のPR映画で、当時はどんな小さな商店街にも映画館があり{{R|総特集18}}、映画が上映される前に3〜5分ぐらいのお店紹介の映画が流れた{{Refnest|group="出典"|{{R|総特集18|terebikoma-sixyaru}}}}。[[経堂]]や[[祖師ヶ谷大蔵駅|祖師ヶ谷大蔵]]の商店街の短編を作ったことがあるという{{R|総特集18}}。当時の[[テレビ|TV]]の台頭と[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]](CM)には既に興味があった{{R|総特集18}}。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと[[画廊]]で映画を掛けたら反響が大きく{{efn|映画を映画館ではなく、画廊でキャンパスに8ミリを映すというアイデアは[[飯村隆彦]]が発案した{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。}}、その後[[日本アート・シアター・ギルド|新宿アートシアター(ATG)]]や[[人世坐|池袋人世坐]]など、大きな映画館で掛けるようになったため[[8ミリ映画|8ミリ]]から[[16mmフィルム|16ミリ]]に転換した{{R|個人映画34}}。[[1963年]]に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』で[[ベルギー]]国際実験映画祭で審査員特別賞受賞{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝特撮映画全史539|musabi|全史}}}}。
 
1964年、[[飯村隆彦]]、[[石崎浩一郎]]、[[高林陽一]]、[[金坂健二]]、[[佐藤重臣]]、[[ドナルド・リチー]]、[[足立正生]]らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|musabi|フィルム・アンデパンダン}}}}。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、[[草月流|草月]]が海外の実験映画を上映したりした{{R|個人映画34}}。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本の[[カルト映画]]の草分け<ref>〔キーワード事典〕『朝までビデオ2』キーワード事典編集部、[[洋泉社]]、1990年、p256</ref>『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などが[[アンダーグラウンド (文化)|アングラ]]{{efn|大林は「『アンダーグラウンド』という言葉を日本に紹介したのはフィルム・アンデパンダンの同人・[[金坂健二]]。金坂が留学から帰って来て『アメリカではもう実験映画ともアバンギャルドとも言わずに、"アンダーグラウンド"と言うんだ』と言い出して、[[佐藤重臣]]が『それは面白い、その言葉を流行らせよう』と、佐藤が『アンダーグラウンド』を『アングラ』と[[命名]]した。『アングラ』は佐藤が作った[[造語]]。佐藤は当時『[[映画評論 (雑誌)|映画評論]]』の編集長だったから、『アングラ』という言葉をバンバン売り出した。しかし日本では結果として演劇の方へ行った([[アングラ演劇]])」と述べている{{R|シネアルバム120_64}}。}}ブームに乗って反響を呼ぶ{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|dentsu-ho|日本映画の監督たち|doshisha|監督全集|キネマ旬報20105|個人映画3|note200412}}}}。「今、個人映画は、[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド映画]]をめざす」と話した{{R|independent}}。同作は[[ロジェ・ヴァディム]]監督の[[1960年]]『[[血とバラ]]』の[[オマージュ]]で{{Refnest|group="出典"|{{R|総特集18|dracula}}}}、[[邦題|原題]]『Et mourir de plaisir』を大林は「死に至る病」と解釈していた{{R|ユリイカ総特集20}}。『EMOTION』は当時全国五分の三の大学で上映され{{Refnest|group="出典"|{{R|independent|dracula|個人映画27|ユリイカ総特集20}}}}、今日でも上映されることがある{{R|ユリイカ総特集20}}。本作を観て[[アングラ演劇]]から映画の道に移った若者も多かったという{{R|総特集18}}。安藤紘平は「僕は『EMOTION』に衝撃を受けて、[[榎本了壱]]、[[萩原朔美]]と共に『ファミリーフィルムメーカー』という映画グループを作り、それは後に『[[ビックリハウス]]』という[[雑誌]]になりました。大林さんはいろんな人の人生をいっぱい変えているんでしょうけど、僕もまさに変えられた一人でした」などと述べている{{R|ユリイカ総特集20}}。いつしか個人映画の[[教祖]]的存在となる{{R|takarajima7705}}。但し「僕の作ったアンダーグラウンド映画は、少しもアンダーグラウンドではなく、まさに個人映画の『[[ザッツ・エンターテインメント]]』みたいなものだった」と述べている{{R|takarajima7705}}。原正孝([[原將人]])は[[麻布中学校・高等学校|麻布高校]]の[[文化祭]]で『いつか見たドラキュラ』を知り合いから借りられ、自身の作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』と二本立てで上映し、『いつか見たドラキュラ』を徹底的に研究し、『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を大幅に直して、第1回フィルムアートフェスティバル東京に出品してグランプリを取り、監督デビューすることが出来たと話している{{R|総特集182}}。また1965年に初めて[[コマーシャルメッセージ|CM]][[ロケーション撮影|ロケ]]で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡った際に、[[ロサンゼルス|ロス]]と[[サンフランシスコ]]で「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|読本323}}}}。1970年の高林陽一初の35mm監督作品『すばらしい蒸気機関車』の音楽を担当し、公開当時のプレスシートに「音楽は前衛映画作家として著名な大林宣彦氏」と記載がある<ref>{{Cite journal|和書| title = 野村正昭のDVD特典風雲録 『すばらしい蒸気機関車』 | journal = [[キネマ旬報]] |issue = 2006年2月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] | pages = 197 }}</ref>。
 
=== CMディレクターとして ===
[[1964年]]に開館した[[新宿区|新宿]][[紀伊國屋ホール]]の開館イベントとして「120秒フィルムフェスティバル」を企画{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|independent|takarajima|terebikoma-sixyaru}}}}{{efn|当時、8ミリや16ミリを上映できるホールは草月会館しかなかったため、草月に対抗して新宿のホールとして何をやるかと議論があり、開館イベントとして大林たちに声がかかった{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。}}。紀伊國屋ホールは8ミリには対応できず{{R|総特集18}}、16ミリでしか上映できないため{{R|総特集18}}、フィルムの値段が跳ね上がるから2分の16ミリ作品を作った{{R|総特集18}}。[[電通]]のプロデューサーは、この"2分"という触れこみに惹かれてこのイベントに参加し{{R|総特集18}}、ここで上映された2分バージョンの『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』を観て、大林をCMディレクターに誘った{{Refnest|group="出典"|{{R|映画は歴史ジャーナリズム85|総特集18}}}}。まだ日本に[[横文字]]文化のない時代{{R|評伝}}、コマーシャルは"[[広告]]"で、当時まだまだ[[宣伝]]は[[チンドン屋]]{{Refnest|group="出典"|{{R|doshisha|総特集18|シネアルバム120_52|シネアルバム120_64}}}}、CMは"おトイレタイム"と蔑視されていた時代{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|doshisha|cmdir|ng151217|シネアルバム120_52|シネアルバム120_64}}}}。アンデパンダンで最初に[[名刺]]を差し出した電通の人は「電通という会社でコマーシャルを撮っている者です」と言った途端、さっと1メートルぐらい後ろに下がった{{R|のこす言葉57}}。「どうしたんですか?」と聞いたら「先日、[[映画監督]]にそう言ったら『俺に物売りをやれというのか』と蹴とばされたんです」と言った{{Refnest|group="出典"|{{R|のこす言葉57|総特集18|読本323}}}}。続く言葉は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、広告をやってみませんか」だった{{R|ワンダーランド78}}。日本はテーマ主義の国で、テーマのないCMのようなものは作家がやるべきじゃないという考えで{{R|シネアルバム120_64}}、CMは恥ずかしい場所だった{{R|シネアルバム120_64}}。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人で、[[飯村隆彦]]も薬のCMを1本だけやったが、すぐに撤退し、[[高林陽一]]も大林のCMの手伝いを少ししたが、「性に合わない」と結局CMには関わらなかった{{R|シネアルバム120_64}}。当時は、電通のプロデューサーと、傾きかけた映画界の[[カメラマン]]とが組んでCMを撮っていた{{R|総特集18}}。当時の電通本社は、[[銀座|東京銀座]]8丁目[[土橋入口|土橋]]の[[東京高速道路]]の下にあった木造の貧相な二階建て{{R|のこす言葉57}}。初めて遊びに行った日に、[[味の素]]の[[清涼飲料水]]の[[ボトルキャップ|キャップ]]を送ると[[景品]]が貰えるというCMを撮っていたが{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|のこす言葉57}}}}、あまりにヘタで「僕が撮ってあげるよ」と代わりに大林が撮ったCMが以降7年間放送された{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|のこす言葉57}}}}。それで「何でもいいから、遊びに来て下さい」という話になった{{R|のこす言葉57}}。電通の[[小田桐昭]]プロデューサーの「僕は生涯を懸けてコマーシャルを世界に誇れる[[ジャーナリズム]]にしてみせようと思っています」という言葉に感銘を受け、本格的にテレビコマーシャルの世界に踏み込む{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|のこす言葉57}}}}。まだ広告はアートでなかった時代で{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|cmdir}}}}、[[クリエイター]]とは扱われず{{R|シネアルバム120_64}}。電通と大林で[[スポンサー]]の所に行くと[[営業写真館|出入りの写真屋さん]]の扱い{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|田山198|総特集18}}}}。スポンサーの企業に行っても表玄関からは入れず、裏口から入って「写真屋さん、ご苦労様」と言われ、仕事が終わると鮭の切身定食を御馳走になってまた裏口から帰っていたという{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|総特集18}}}}。当時はその電通などの[[広告代理店]]がTVCMを独占する前夜で{{R|総特集18}}、CMディレクターを専門にやろうという人間はまだいなかった{{R|体験的仕事論36}}。こんな事では未来がないと考えた電通等が「CMに演出家を付けてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える」と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった{{Refnest|group="出典"|{{R|田山198|総特集18}}}}。CM演出家のパイオニアとしては、[[杉山登志]]や松尾真吾らが挙げられるが{{R|ユリイカ総特集78}}、彼らがCM制作会社の社員だったことに対して、大林はどこの会社にも所属しないフリーの映像作家だった{{R|ユリイカ総特集78}}。1964年、[[セイコーホールディングス|セイコー]]のテレビ[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]](CM)を皮切りに{{R|石坂186}}、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|interview|onomichi-u|cmdir|mandom|dentsu-ho|yamaha|日本の映画人}}}}<!-- <ref name="知っておきたい"/><ref name="takarajima"/><ref name="田山"/><ref name="映画100">『映画100物語 日本映画篇 1921-1995』([[読売新聞社]]、1995年)P184-185</ref> -->。電通の大林起用の狙いは、高額の[[ギャランティ|ギャラ]]を大林に払い、高級[[輸入車|外車]]に乗ってみせるようなスタア演出家を似て任じてもらい、CMディレクターを花形職業にすることで、CM界に優秀な人材を集め、業界全体の活性化を狙ったものだった{{R|総特集222}}。小田桐から「できれば[[スポーツカー]]に乗って、隣のシートに[[金髪]]の[[ファッションモデル|モデル]]を乗っけて、『[[朝日ジャーナル]]』と『[[平凡パンチ]]』を座席に置いて、[[青山 (東京都港区)|青山]]あたりを乗り回して欲しい」と言われた{{R|シネアルバム120_64}}。何の業界でも当時は貧しさが[[美徳]]で、腕を買うといってもお金の話は[[タブー]]視されていたから{{R|シネアルバム120_64}}、その話を聞いて「面白い業界だな」と感心した{{R|シネアルバム120_64}}。ギャラの基準もまだなく、ギャラは最初の1本が4,000円、2作目が8,000円、3作目で1万5,000円、4作目が4万円と{{R|シネアルバム120_64}}、ギャラは瞬く間に跳ね上がったというが{{R|シネアルバム120_64}}、1965年ぐらいに1本50万円ぐらいになった後は、回りが追いつき以降はほとんど変わらなくなったという{{R|シネアルバム120_64}}。また当時の電通はギャラを貰うために[[会計|経理]]に半日並ばないと貰えず{{R|のこす言葉57}}、半日並んでギャラを貰うなら、別の撮影をした方がいいと半分はギャラを貰っていないと話している{{R|のこす言葉57}}。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりの[[フォーマット]]が全然なく、演出は全部任せてもらえた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|ワンダーランド83}}}}。[[高度経済成長期]]の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、[[特撮]]もどんどん出来、自由に撮らせてもらえた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|cmdir|読本323}}}}。大林にとってCMはスポンサー付きの個人映画、映像実験室とも言え{{R|シネアルバム120_64}}、非常に楽しいものだったという{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|評伝|independent|cmdir|takarajima|放送批評}}}}。CMのギャラを資金源に8ミリ作品を製作し続けた{{R|総特集18}}。CM業界で[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]を使うシステムを作ったのは大林{{R|シネアルバム120_64}}。当然助監督にギャラは出ないため、大林のギャラで助監督や[[映画スタッフ|スタッフ]]を養成した{{R|シネアルバム120_64}}。[[阪本善尚]]は大林がCM業界に引っ張り込んだ人である{{R|シネアルバム120_64}}。
 
高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け、TVCMという分野の礎を築き{{Refnest|group="出典"|{{R|doshisha|総特集222}}}}、「CM界の巨匠」の異名を執った{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|石坂186}}}}。大林が学生の時には東宝撮影所は連日夜間撮影で空が赤くなっていたというが{{R|総特集18}}、60年代半ばからは映画斜陽で東宝撮影所の映画用セットやスタジオは空いていた{{R|総特集18}}。大林は毎日のように東宝撮影所でCMを撮ったという{{R|総特集18}}。大林の手がけたCMで最も有名なのが、日本で初めて[[ハリウッド]]スターを起用し、あまりのヒットに丹頂が社名を変更した[[チャールズ・ブロンソン]]の「[[マンダム]]」で{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|訃報|cmdir|mandom|yamaha|個人映画グラビア|sannichi|黒沢|かまち|TVCM60}}}}{{efn|マンダムのCMを手掛けたのは大阪電通。大林は売り出す商品に愛を持っていないスポンサーを許せず、某菓子メーカーから発売された×レーのCMを作る際、その会社の宣伝部長が「×××みたいな×レー」と連発するので、大林がハラを立てて胸ぐらを掴んで「出ていけ!」と言ったら、その部長も怒鳴り返し、結局3億円の仕事が飛び、小田桐も責任を取らされて系列の子会社に飛ばされ、大林も以降は東京電通の仕事は出来なくなった。その話を聞いた大阪電通に呼ばれてやった仕事がマンダム{{R|のこす言葉57}}。}}、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した{{Refnest|group="出典"|{{R|TVCM60|戦後メディア}}}}。[[体臭]]を消すのがそれまでの[[化粧品]]の考え方で{{R|シネアルバム120_64}}、特に化粧品の香りはヨーロッパ指向だったため{{R|シネアルバム120_64}}、アメリカの匂いのする男の体臭を売るという画期的なCMでもあった{{R|シネアルバム120_64}}。ブロンソンの[[キャスティングは大林である{{R|シネアルバム120_64}}。当時の西村彦次丹頂社長にブロンソンの写真を見せたら「何だ、こりゃ」と言われた{{R|シネアルバム120_64}}。ブロンソンはまだ映画通しか知らない役者で{{R|シネアルバム120_64}}、西村社長から当然「[[アラン・ドロン]]にしてくれ」と言われた{{R|シネアルバム120_64}}。「こういう男の顔が、男の体臭に似合うんだ」と説得しても「分かった。だけどもう少し[[美男子]]じゃダメか」となかなかOKが取れず、しつこく説得を繰り返し{{R|シネアルバム120_64}}、西村社長が、若き大林に仕事を任せるに当たり、大林夫婦を食事に招待した折り、極自然に夫人に[[サラダ]]を取り分ける大林に感銘を受け、「この人物なら、我が社の広告を任せていい」とようやく決心したと言われ{{R|シネアルバム120_64}}、西村から後で「自分もオヤジから引き継いだ会社で、会社は潰してもいいから、最後に一つだけ世間に良い仕事を残して潰れるならそれでいい。この作品は賭けですが、良い仕事をして下さい」と伝えられた{{R|シネアルバム120_64}}。トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうしてインディアン役者の売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドの[[エージェント]]の反対を押し切り{{R|シネアルバム120_64}}、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させた{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|馬場}}}}。ギャラは信じられないほど安かった{{R|シネアルバム120_64}}。一世を風靡した「う~ん、マンダム」とつぶやく名ゼリフは大林の発案だという{{R|mandom}}。このCMは[[ホリプロ]]と制作することになり、[[堀威夫]]とアメリカに行った{{R|シネアルバム120_64}}。ホリプロとのCM制作のプロデューサーが笹井英男で{{R|シネアルバム120_64}}、ホリプロとの付き合いはここから始まる{{R|シネアルバム120_64}}。
 
大林恭子は「大林の手がけたCMは、セイコージュエル・ホワイトが最初。[[トヨタ・コロナ|トヨタ自動車のコロナ]]はロサンゼルスと[[オーストラリア]]で撮影した海外ロケCM第一号」などと述べている{{R|ユリイカ総特集20}}。他に、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「[[ホンダ・ロードパル]]」の[[ソフィア・ローレン]]{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|映画撮影235|takarajima7705}}}}、「[[カネカ]]・[[フォンテーヌ (カツラメーカー)|フォンテーヌ]]」「[[ユニリーバ・ジャパン|ラックス化粧品]]」の[[カトリーヌ・ドヌーヴ]]、「フォンテーヌ」{{R|シネアルバム120_64}}の[[コマーシャルソング|CMソング]]には[[フランシス・レイ]]を起用した{{R|読本334}}。「[[レナウン (企業)|レナウン]]・シンプルライフ」の[[リンゴ・スター]]{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|映画撮影235|takarajima7705}}}}、「[[味の素AGF|AGF]]・マキシムコーヒー」の[[カーク・ダグラス]]では{{R|dentsu-ho}}<ref>「[https://www.j-cast.com/tv/2007/06/25008678.html 「転校生」性善説・大林宣彦の映画には「毒」がない : J ... - J-Castニュース]</ref>、ダグラスを[[セッシュ]]/[[アラン・ラッド]](リンゴ箱)に乗せた{{R|映画は歴史ジャーナリズム11}}。マンダム・フーズフーの[[デヴィッド・ニーヴン]]{{Refnest|group="出典"|{{R|シネアルバム120_64|個人映画グラビア}}}}、[[キャサリン・ヘプバーン]]、[[アイススケート]]の[[ジャネット・リン]](カルピス){{R|個人映画グラビア}}等の起用で{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|訃報|cmdir|yamaha|outemon|個人映画グラビア|sannichi}}}}、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった{{Refnest|group="出典"|{{R<!---|interview--->|訃報|cmdir|yamaha|outemon|jt200416|個人映画グラビア|sannichi|TVCM60|jprime200414|CM文化論}}}}。海外スターの起用、海外[[ロケーション撮影|ロケ]]、映画のような特撮の導入等は、それまでの日本のCMにない画期的なものであった{{R|Location}}。当時はまだCMをアメリカで撮影するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という"アメリカ映画ごっこ"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという{{R|interview}}。ブロンソンの「マンダム」の前に1本だけ、有名ではない外国人俳優を使ったCMがあったが{{R|シネアルバム120_64}}、[[外国人タレント|外タレ]]CMブームはブロンソンの「マンダム」からである{{R|シネアルバム120_64}}。CM撮影での初の渡米は1966年、[[電通]]社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという{{R|interview}}。[[オイルショック]]前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年の内、10か月以上海外生活であった{{R|ワンダーランド93}}。あまりにも家にいないため、恭子夫人は近所の人たちから[[未亡人]]と思われていたという{{R|ユリイカ総特集20}}。
 
日本のCMでは、東陶機器([[TOTO (企業)|TOTO]])の[[風呂|ホーローバス]]のCMで[[高沢順子]]に言わせて[[流行語]]になった「お魚になったワ・タ・シ」は、[[コピーライター]]という職業が無い時代に大林が考えた[[キャッチコピー|コピー]]である{{Refnest|group="出典"|{{R|読本296|hirotarian}}}}。『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』を気に入られた[[黒澤明]]から{{R|石坂186}}、1989年CM演出を指名され{{Refnest|group="出典"|{{R|石坂186|この指}}}}、[[日本電気|NEC]]「[[NEAC#オフィスコンピュータ|オフィスプロセッサ]]」「夢にわがままです」を手掛け、CM出演した黒澤に初めて[[サングラス]]を外させた{{Refnest|group="出典"|{{R|石坂186|乾盃}}}}。このCMの企画は中学3年のとき、大林の撮影現場を訪ねて来た際に電通入社を勧めた[[樋口尚文]]{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。これが縁で1990年、黒澤監督の『[[夢 (映画)#関連作品|夢]]』のメイキングビデオ(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』)を大林が撮った{{Refnest|group="出典"|{{R|映画は歴史ジャーナリズム85|石坂186}}}}。[[クライテリオン・コレクション|クライテリオン]]から発売されている{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。この他、[[山口百恵]]・[[三浦友和]]コンビの「[[江崎グリコ|グリコ]][[チョコレート|アーモンドチョコレート]]」{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|cmdir|日本映画の監督たち|sannichi|TVCM60}}}}、[[高峰三枝子]]・[[上原謙]]の「[[日本国有鉄道|国鉄]]フルムーン」{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|cmdir|TVCM60}}}}、[[森繁久弥]]の「[[新幹線|国鉄新幹線]]」{{R|日本映画の監督たち}}<ref>田山力哉『日本映画名作全史. 現代編2』社会思想社、1988年、P84-86</ref>、[[勝新太郎]]の「[[大塚製薬]]ウメビタ内服液」{{efn|勝と初対面の日に[[相撲]]をやろうというので、撮影所の砂場で相撲を取ったら相打ちで、勝から気に入られ、[[座頭市]]とチャールズ・ブロンソン共演による[[西部劇]]をやろうと約束していたという{{R|映画は歴史ジャーナリズム141}}。}}、[[遠藤周作]]の「[[日立]][[ヘアカラーリング剤|ヘアカーラ]]」{{R|個人映画グラビア}}、[[山村聰]]の「[[トヨタ・クラウン]]」{{R|映画撮影235}}、[[若尾文子]]の「[[パナソニック|ナショナル]][[浄水器]]」{{R|個人映画グラビア}}、「[[レナウン (企業)|レナウン]]・「ピッコロ」{{R|doshisha}}、[[ワンサカ娘]]」、[[泉アキ]]の「[[キリンレモン]]」{{R|ユリイカ総特集182}}、[[花王|花王石鹸]]「[[ハイター]]」{{R|doshisha}}、[[長門裕之]]・[[南田洋子]]の「[[カルピス]]」{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|cmdir|田山198|sannichi|映画撮影235|湯川}}}}、10年間で製作したテレビCMは3000本を越え{{Refnest|group="出典"|{{R|cmdir|tiff|terebikoma-sixyaru}}}}<ref>[[毎日新聞]] 2010年10月24日8面</ref>、国際CM賞も受賞{{R|takarajima}}。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ{{Refnest|group="出典"|{{R|cmdir|映画100}}}}、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|cmdir|doshisha}}}}。さまざまの映像的実験を試み、東洋現像所([[IMAGICA Lab.]])は「また大林さんのCMで難しい注文が入ってきた!」と度々言っていたという{{R|ユリイカ総特集20}}。当時は勿論、大林は一般レベルでは全くの無名だったが、大林の作ったフィルムは、日本で一番多くの人に見られていたのである{{R|takarajima7705}}。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でのCM撮影の際に、[[アンダーグラウンド映画]]のスタッフと親しくなり、『[[イージー・ライダー]]』の編集にも大林は関わっているという{{R|interview}}。2013年、[[小林亜星]]等と共に[[全日本シーエム放送連盟]](ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り{{R|cmdir}}。
 
当時は[[Made in Japan|メイド・イン・ジャパン]]は粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、[[毛染め]]のCMを製作するに当たり、その商品を使って[[茶髪]]になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている{{R|terebikoma-sixyaru}}。また、自身も[[九州電力]]のCMに出演した事がある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある[[石上三登志]]とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。
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[[手塚治虫]]は「幸運にも大林監督の[[東京ディズニーランド|ディズニーランド]]のPR映画に出演させて貰い、真夜中から明け方にかけて、静まりかえったディズニーランドの中で人形の撮影をした。外来者禁制のディズニーランドの裏の様子を見ることができた。思いもかけず手品のタネを見れた」と話している<ref name="キネ旬830402">{{Cite journal|和書 |author=手塚治虫 |authorlink=手塚治虫 |title=観たり撮ったり映したり(13) ディズニーランドの裏を見た |journal=[[キネマ旬報]] |issue=1983年4月下旬号 |publisher=[[キネマ旬報社]] |pages=122–123頁 }}</ref>。
 
大林が全国劇場公開されるような映画に関わったのは、盟友・高林陽一の『すばらしい蒸気機関車』(1970年)の音楽を担当したのが最初だが{{R|映画は歴史ジャーナリズム141}}、閉鎖間際の[[大映京都撮影所]]に行ったら、スタジオに古い[[テープレコーダー]]と[[マイクロフォン|マイク]]が一本づつしかなくびっくり{{R|映画は歴史ジャーナリズム141}}。高林が奮発して[[京都市交響楽団]]を70人雇って連れて来てくれたが、録音の人に「どうやって録るんですか?」と聞いたら「それぞれその都度マイクのところへ来てやって下さい」と言われた{{R|映画は歴史ジャーナリズム141}}。真冬の2月なのに暖房はなく、[[火鉢]]があり、[[火箸]]を持っていた人がかつて[[溝口健二]]の録音を全部やっていたという。録音方法は映画の進行に合わせ[[オーケストラ]]が演奏する、昔の[[サイレント映画|無声映画]]の劇伴のようなやり方で貴重な体験になったという{{R|映画は歴史ジャーナリズム141}}。高林その後[[1975年]]に[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]の1,000万映画として、劇場用の[[35ミリフィルム|35ミリ]]で『[[本陣殺人事件#映画|本陣殺人事件]]』(大林は音楽として参加)を撮ったことは大きな刺激になった{{R|総特集18}}。まもなく東宝から「『[[ジョーズ]]』のような映画は撮れませんか?」と言われたのが『[[ハウス (映画)|HOUSE]]』の制作スタートとなる{{R|総特集18}}。
 
=== 商業映画に進出 ===
[[1977年]]の『[[ハウス (映画)|HOUSE]]』で、商業映画を初監督{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝特撮映画全史539|評伝|訃報|onomichi-u|日本の映画人|note200412}}}}。個人映画からCMを経て、劇場用映画に越境する{{R|ユリイカ総特集85}}。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうという[[ホラー映画|ホラー]]・[[ファンタジー映画|ファンタジー]]を、ソフト・フォーカスを用いた[[コマーシャルフィルム|CF]]的映像、実写と[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた{{Refnest|group="出典"|{{R|東宝特撮映画全史539|評伝|訃報|日本の映画人|outemon|監督全集|黒沢|shashinkan|HOUSE|映画撮影237}}}}<!-- <ref name="30年史80">[[#30年史]]P80-81</ref><ref name="CINEMA CAN WAIT">橋口尚文『映画の復讐 CINEMA CAN WAIT』(フィルムアート社、1992年)P186-211</ref> -->。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|nhk|訃報|監督全集|読本782|シネアルバム1978|大特撮|ぴあシネマクラブ|朝までビデオ2}}}}。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される{{Refnest|group="出典"|{{R|jt200416|大特撮}}}}。[[1990年代]]に流行した「[[ジャパニーズホラー|美少女ホラー]]」と直接的にはリンクしないとはいえ、その"祖"と評価もされる{{Refnest|group="出典"|{{R|onomichi-u|HOUSE|アイドル映画30年史}}}}。1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず{{Refnest|group="出典"|{{R|outemon|中川52}}}}。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち{{R|キネ旬19792}}、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のようなことを始めた{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|outemon|HOUSE|シネアルバム1978|中川52}}}}。[[オーディション]]で選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて[[大磯ロングビーチ]]で[[キャンペーン]]をやるなど{{R|outemon}}、[[宣伝|プロモーション]]に2年を要して{{R|interview}}、様々なイベントを仕掛け、その後の"アイドル映画"の方向性を作った{{Refnest|group="出典"|{{R|田山198|HOUSE|アイドル映画30年史}}}}。[[ニッポン放送]]「[[オールナイトニッポン]]」枠で生放送された[[ラジオドラマ]]『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|outemon|shashinkan|中川52}}}}。更にラジオドラマに続き、[[漫画|コミック化]]、[[小説化|ノベライズ]]など、大林が主導して「[[メディアミックス]]」を仕掛けていき{{R|outemon}}、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって{{Refnest|group="出典"|{{R|田山198|HOUSE}}}}、ようやく本体の映画化が決まった{{R|中川52}}。大林は『HOUSE』の[[イラスト]]入りの大きな[[名刺]]を作り、会う人ごとに渡していたが、[[角川春樹]]もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している{{R|中川52}}。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|中川52|読本644}}}}。
 
大林が商業映画に進出すると報じられたとき、多くの[[ジャーナリズム]]も大林が本来、映画を志向していることを知らなかった{{R|takarajima7705}}。『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』1977年5月号には「個人映画とCMという、いわば映画の本流(というものがあるとしての話だが)からずいぶん外れたところで数多くの仕事をしてきた人が、いったい映画のことをどんな風に考えているのか興味を持って、東宝・砧撮影所へインタビューへ出かけた」と書かれている{{R|takarajima7705}}。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|監督全集|中川52|読本644}}}}。他に先達として自主映画仲間の[[高林陽一]]らが存在するものの、自己プロダクション+[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]という経路であり、いきなりメジャーの[[東宝|東宝映画]]でデビューという事例は画期的であった{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|tiff|outemon|監督全集|中川52|キネ旬19792|読本644|note200412|ユリイカ総特集93}}}}。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|onomichi-u|tiff|outemon|監督全集|note200412|キネマ旬報20105<!--|読本644|中川52-->|HOUSE|キネ旬19792}}}}。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが{{R|中川5275}}、撮影所の[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、[[塩漬け#転用|塩漬け]]にされた{{R|東宝特撮}}。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|mext|nhk|independent|訃報|bs|シネアルバム52|日本の映画人|tiff|1980年代の映画<!--|シネアルバム120_202|21世紀の映画監督|キネマ旬報20105|個人映画3<ref name="Location"/><ref name="秘宝20078"/><ref name="映画100"/><ref>[http://cinema.pia.co.jp/title/135870/ 転校生@ぴあ映画生活 - ぴあ映画生活 - チケットぴあ]、[http://openers.jp/culture/tips_movie/news_eigatocm_49754.html 映画とCMの『境目/さかいめ』にある未来 - OPENERS]、『爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』P6</ref>-->}}}}。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、[[ピンク映画]]以外では大林一人だった{{Refnest|group="出典"|{{R|寺脇|キネ旬19832下}}}}。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなり{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|寺脇|キネ旬19783下|編集ばか|ユリイカ総特集93}}}}、この流れから自主映画出身者として[[大森一樹]]、[[森田芳光]]、CM出身者として[[市川準]]らが出た{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|知っておきたい|キネ旬19792|キネ旬19852|熱中記|ぴあの時代|読本187|21世紀の映画監督|cinemore1844|シネアルバム120_202}}}}<!--- <ref>[[#乾盃]]、159頁</ref><ref>[[#movie]]、204頁</ref> --->。大森は「大林宣彦の名はパイオニアだった。それに続くように翌年、ただの大学生だった私もまた[[松竹]]で『[[オレンジロード急行]]』を撮る幸運を得た」と話している{{R|総特集202}}。市川は「[[東京芸術大学|芸大]]を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている<ref>『ぼくのしょうらいのゆめ』プチグラパブリッシング、2006年、P14-15</ref>。[[西河克己]]は「企業外から出たハシリは大林君ですね。森田芳光が二番手ですね。成功例ということであればですけど」と述べている<ref name="kine850201">{{Cite journal|和書 |author= 山根貞男 |authorlink = 山根貞男 |title = 西河克己監督インタビュー |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1985年2月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |page = 118 }}</ref>。『HOUSE』という個人映画が賑々しく痛快に侵犯したことが、多くの自主映画作家を鼓舞し、次代のすぐれた映画作家を輩出させた{{Refnest|group="出典"|{{R|ユリイカ総特集85|ユリイカ総特集93}}}}。『HOUSE』はその震源地であった{{R|ユリイカ総特集85}}。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあって{{R|田山198}}、メディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長{{R|シネアルバム1978}}(のち社長、会長)だった[[松岡功]]と{{R|評伝}}、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン[[岡本喜八]]監督の口添えが大きかったといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|terebikoma-sixyaru|中川52}}}}。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|シネアルバム1978}}}}。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く{{R|キネマ旬報20105}}、映画マニアからは酷く叩かれもした{{R|interview}}。『[[リング (1998年の映画)|リング]]』、『[[呪怨]]』などのプロデューサー・[[一瀬隆重]]は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている<ref>[[一瀬隆重]]『ハリウッドで勝て!』([[新潮社]]、2006年)P30-32</ref>。
 
[[ぴあ]]は1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、[[バスター・キートン]]や、[[ルイス・ブニュエル]]、[[ジャン・ヴィゴ]]、[[ケン・ラッセル]]、[[ロマン・ポランスキー]]、[[小津安二郎]]、[[稲垣浩]]、[[マキノ雅弘]]、[[大島渚]]、[[若松孝二]]ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した{{R|ぴあ7711}}。『ぴあ1977年11月号臨時増刊号』では、その46人の映画作家を紹介しているが、[[五十音順]]でもないのに冒頭に商業映画デビューしたばかりの大林を取り上げている{{R|ぴあ7711}}。この「20代で出発った作家達」という企画が「[[ぴあフィルムフェスティバル]]」に発展するが、ぴあとしても大林のような映像作家がこのイベントから出て来て欲しいと願っていたものと考えられる。1979年には、同フェスティバルの前身「OFF THEATER FILM FESTIVAL '79」のプロデューサーを[[松田政男]]、[[寺山修司]]とともに務めた<ref>松田政男「逆回転映画館 映画魔術館ほか」キネマ旬報、1980年1月上旬号、P67、[https://pff.jp/jp/old/festival/history.html#pagetop 映画祭History|ぴあフィルムフェスティバル(PFF)公式ホームページ]</ref>。
 
大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMや[[漫画|コミックス]]の影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている{{R|CINEMA CAN WAIT}}。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し{{R|cinemore1844}}、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる{{R|キネマ旬報20105}}。大林は後続の映画制作志望者たちをエンパワーしつつ、1970年代後半からは[[角川映画]]と共鳴することで日本映画の形態を転換したシネアストと評価される{{R|ユリイカ総特集231}}。さらに1992年の『転校生』に始まる尾道三部作はさらなる転機をもたらし、以後の錚々たるフィルモグラフィーを重ねることになる{{R|ユリイカ総特集231}}。『HOUSE』で同年、[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]新人賞を受賞{{R|シネアルバム1978}}。『HOUSE』が一定の成功を収めたことから、大林のもとには、[[アイドル]]を使った映画製作の依頼が来るようになった{{R|outemon}}。
 
『HOUSE』は2009年頃から[[欧米]]で再発見されてコアな人気を集めているという{{R|HOUSE}}。近年ではアメリカ[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された{{Refnest|group="出典"|{{R|bs|HOUSE}}}}。[[ニューヨーク]]の[[ミニシアター|単館系の劇場]]でもよく上映されるという{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|HOUSE|nikkan1538515}}}}。
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[[1982年]]、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『[[転校生 (映画)|転校生]]』を発表{{Refnest|group="出典"|{{R|wedge|監督全集}}}}。『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』、『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』と合わせ"'''尾道三部作'''として多くの熱狂的な支持を集めた{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|Location|nhk|wedge|yamaha|musabi|fc|尾道三部作|片岡}}}}。1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れたといわれる{{R|wedge}}。"尾道三部作"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である([[さびしんぼう (映画)#エピソード]])。
 
これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「[[お子様ランチ]]」「[[おもちゃ箱]]」と酷評されることもあった初期作品に比べると{{R|全史}}、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった{{Refnest|group="出典"|{{R|知っておきたい|musabi|日経エンタ20153}}}}。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がる[[フィルム・コミッション]]の先駆け{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|mext|fc|キネ旬20191上}}}}、また2022年今日の[[アニメーション|アニメ作品]]の[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]](アニメツーリズム)の先駆けとなったと評価されている<ref name="キネ旬20191上"/>。「映画のまち・尾道」を確立したのも大林だった{{R|訃報}}。『転校生』の試写を見た尾道の関係者が「あんなに協力したのに、いい所を撮ってない」などと、最初は尾道の人たちの中にも「町の汚いところばかりを映して」とか「これじゃ観光客が来なくなる。上映をやめてくれないか」と言う人もいたが{{R|訃報}}、映画を観て逆に観光客が来るようになった{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|訃報|fc|キネ旬19854}}}}。田舎町の息の詰まった古臭さを呪う人たちの多かった時代に於いて、日本にまだ、こんなきれいな[[地方都市]]の佇まいが残っていたか、と映画を通して再認識させたという点での功績も大きい{{R|訃報}}。『転校生』の成功は、大林の名前と尾道の名を映画史に刻んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|nhk|尾道三部作}}}}。出身地とは謂えども、これ程一人の映画作家が、長年に亘り一つの街に愛情を注ぎ、何本もの作品を世に送り続けている事例は世界でも他に例が無いといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|sannichi|読本598}}}}。三つの映画を撮った原動力は「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」などと述べている{{Refnest|group="出典"|{{R|訃報|体験的仕事論114}}}}。 『さびしんぼう』公開時のインタビューで「"いつか見た風景"が、テクニック上のテーマ」と{{R|キネ旬19854}}、近年のインタビューでは「町の人が汚いと思う、昔ながらの変わらない尾道の風景が、外の人には懐かしく見えたんじゃないでしょうか」と話している{{R|Location}}。なお、大林作品で尾道ロケを行った作品は、新・尾道三部作とよばれる『ふたり』『あした』『あの、夏の日』など他にも多数存在するが、この三作は、比較的近い時期に製作されていること、剣持亘脚本であること、尾身としのりが主演または準主演であること、中高生を主人公にした[[SFファンタジー]]であることなどの共通項も多く、三部作として語られることが多い。
 
尾道三部作は地方活性化を旨とした地方発映画の先駆けとされ{{Refnest|group="出典"|{{R|outemon|fc|秘宝201506}}}}、地域における映画製作の道筋を開いたと評価された{{Refnest|group="出典"|{{R|mext|outemon}}}}。映画のおかげで田舎町が観光地化するという現象を目の当たりにした[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]を控えた[[日本の市町村の廃置分合#合併と分割の種類|全国の新市町村]]は、映画を作れば町の[[パブリック・リレーションズ|PR]]も出来るし、ロケによって地方経済の活性化も期待でき、住民の帰属意識も高められると考え{{R|秘宝201506}}、以降、地方発の映画が次々作られる切っ掛けになった{{Refnest|group="出典"|{{R|outemon|秘宝201506}}}}。[[本広克行]]がオール[[香川県|香川]][[ロケーション|ロケ]]した[[2006年]]の『[[UDON]]』は、「古里に恩返しするために讃岐三部作を撮りなさい」という大林のアドバイスがあったという{{R|shikoku}}。
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[[ファイル:Obayashi Nobuhiko from "Labyrinth of Cinema" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2019 (49014161137).jpg|thumb|200px|[[2019年]][[10月28日]]、[[東京国際映画祭]]オープニングセレモニーにて]]
[[File:Nobuhiko Obayashi cropped 2 Nobuhiko Obayashi 201911.jpg|thumb|200px|文化功労者顕彰に際して(2019年)]]
[[2000年代]]に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり{{R|outemon}}、代わって、[[大分県|大分]]や[[長野県|長野]]、[[新潟県|新潟]]、[[北海道]][[芦別市|芦別]]、佐賀県など、その町の[[伝統]]や[[歴史]]を題材にした映画を製作している{{Refnest|group="出典"|{{R|評伝|訃報|outemon|ユリイカ総特集298}}}}。大林はこれを「ふるさと映画」と称しており{{Refnest|group="出典"|{{R|Location|古里映画}}}}、地域における映画製作の道筋を拓いたと評価される{{R|mext}}。独特の語り口でトークも上手く{{R|森泉}}、[[生放送]]では喋り過ぎて[[放送事故]]寸前まで時間が押すこともあったという{{R|森泉}}。自主映画作家時代から[[マスメディア]]にしばしば登場した。各地の講演に招かれることも多く、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった{{R|講演}}。
 
またこの頃から[[反戦運動|反戦平和]]を正面から口にするようになった{{Refnest|group="出典"|{{R|ユリイカ総特集298|ユリイカ総特集307}}}}。その要因としては、2003年4月から、[[成安造形大学]]と[[倉敷芸術科学大学]]の[[客員教授]]に就任し、学生たちの前で定期的に話すようになったこと、2000年代以降の[[国家安全保障|安全保障論]]や[[憲法改正|改憲論]]の盛り上がりで黙ってられない状況になったものと見られている{{Refnest|group="出典"|{{R|ユリイカ総特集298|ユリイカ総特集307}}}}。2013年12月27日付の[[朝日新聞]]に「[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる<ref>{{Cite news |url = https://www.asahi.com/shimen/20131227/index_tokyo_list.html |title = (どうする 秘密法)平和作る世代、守る使命 大林宣彦さん |date = 2013年12月27日 |newspaper = [[朝日新聞]] |publisher = [[朝日新聞社]] |page = 38 }}</ref>。2010年代以降の4本は、[[反戦運動|反戦]]を明確に打ち出した作品になった{{Refnest|group="出典"|{{R|interview|ユリイカ総特集307}}}}。
 
独特の語り口でトークも上手く{{R|森泉}}、自主映画作家時代から[[マスメディア]]にしばしば登場した。[[生放送]]では喋り過ぎて[[放送事故]]寸前まで時間が押すこともあったという{{R|森泉}}。[[目黒シネマ]]であった大林の特集上映で、大林が喋りすぎて[[終電]]がなくなり、お客が全員帰れなくなったというエピソードもある{{R|映画は歴史ジャーナリズム85}}。各地の[[講演]]に招かれることも多く、[[コメンテーター]]としてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多かった{{R|講演}}。『[[幕が上がる]]』が[[さぬき映画祭]]で先行上映が行われた際に、[[楽屋]]で[[ももいろクローバーZ]]が大林節に魅了されていくのが横で聞いていた甥・[[平田オリザ]]は妙におかしく「さすが、アイドル映画というジャンルを自ら切り拓いた人だけのことはあると、我が叔父ながら改めて感心した」と述べている{{R|ユリイカ総特集58}}。
 
[[2004年]](平成16年)春の[[褒章]]に於いて[[紫綬褒章]]を受章<ref>[http://homepage2.nifty.com/ONO_MICHI/MENU/sannichi2004/20041005b.htm 大林宣彦監督褒賞祝会 東京でも仲間集い - nifty]{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/artist/17122|title=大林宣彦|publisher=[[映画ナタリー]]|accessdate=2023-07-11}}</ref>。
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[[2009年]](平成21年)秋の[[叙勲]]で[[旭日小綬章]]を受章した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/20091103000028|title=秋の叙勲、川淵氏ら4024人に/旭日大綬章に張氏|accessdate=2023-04-14|publisher=[[四国新聞社]]|date =2009-11-03}}</ref>。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという<ref>[[産経新聞]] 2009年11月3日23面</ref>。
 
[[2013年]]に手掛けた[[AKB48]]の長尺の[[ミュージック・ビデオ]]「[[So long !]]」は物議を醸した{{Refnest|group="出典"|{{R|日経エンタ20153}}}}<ref>[https://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar489544 特別対談】高橋栄樹×宇野常寛 大林宣彦「So long ! The Movie」を語り尽くす]</ref>。[[2013年]]12月27日 [[朝日新聞]]デジタルに 「[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる。2010年代以降の4本は、[[反戦運動|反戦]]を明確に打ち出した作品になった{{R|interview}}
 
2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/04/26/kiji/K20160426012473570.html|title=大林宣彦監督に生涯功労賞 イタリアの極東映画祭|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-04-26|accessdate=2016-04-26}}</ref>。
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2021年、[[第44回日本アカデミー賞]]会長特別賞を受賞。第94回[[キネマ旬報ベスト・テン]]では『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を対象として日本映画監督賞が贈られた<ref>[http://www.kinenote.com/main/award/kinejun/y2020.aspx キネマ旬報 ベスト・テン]、KINENOTE、2021年2月25日閲覧。</ref>。
 
商業映画デビュー以降、大林監督で企画されたが、映画化されなかった作品としては、1984年に[[松竹]]と韓振興行の合作で映画化が企画された『[[釜山港へ帰れ]]』や<ref name="映画の不良性感度">{{Cite book|和書|author=内藤誠|authorlink=内藤誠|year=2022|title=映画の不良性感度|series=[[小学館新書]]|publisher=[[小学館]]|isbn=9784098254231|pages=186–190}}</ref>、[[天正遣欧少年使節]]の物語『少年きりしたん」などがある<ref name="映画の不良性感度"/>。
 
== 作風 ==
=== 対俳優 ===
「俳優がプライドを持ってはいけないんです。邪魔なのね。むしろ、監督のよき素材になることにプライドを持ってほしい。これが映画スターということです。映画はかつては監督の個人芸術だった。総合芸術でみんなでやるけれども、監督の持っている個人の芸術として、全てが整うのが映画であって[[小津安二郎]]さんや[[黒澤明]]さんたちの時代まではそうでした。僕がその世代の最後になると思います。いい悪いは別として、若い監督さんの映画は本当に制度抜きで自由ですね。俳優さんもリアルというのでしょうか」「今の俳優は[[ファッションモデル|モデル]]のようにきれいで、アイドルのようにかわいい人ばかりで、映画の女優ではない」などと述べている{{R|映画は歴史ジャーナリズム55}}。
 
== 主な監督作品 ==
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*マドンナは春風にのって(1990年1月3日放送 [[日本放送協会|NHK]]) - 出演(成人映画監督 役)
* 乙女物語 お嬢様危機イッパツ!(1990年12月8日公開 内藤忠司監督 [[バンダイ]]) - 出演
* MAKING OF DREAMS [[夢 (映画)|夢]] [[黒澤明]]・大林宣彦映画的対話(1990年) - 演出・インタビュー聞き手<ref>{{Cite interview|language=ja|subject=大林宣彦|date=2018-01-27|title=黒澤明が「撮れた」と涙をこぼした「夢」の1シーン(週刊朝日 2018年2月2日号)|url=https://dot.asahi.com/articles/-/113665?page=1|work=[[AERA dot.]]|publisher=[[朝日新聞出版]]|access-date=2024-03-13}}</ref>
* 花地球夢旅行183日(1991年、[[大阪花博]] イベント映像/タマゴラマ)
* スライス・オブ・サタデーナイト (1991年、舞台演出)
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**「大林宣彦監督 生きる覚悟」(2019年11月28日)
* [[ETV特集]]「青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言」(2017年9月2日、[[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]) - 語り:[[原田知世]]
* [[BS朝日ザ・ドキュメンタリー|ザ・ドキュメンタリー]]「時をかける 監督・大林宣彦〜余命3ヶ月の闘い」(2017年10月12日、[[ビーエス朝日|BS朝日]]) - 語り:[[近藤サト]]
* [[アナザーストーリーズ 運命の分岐点]]「[[手塚治虫]] [[ブラック・ジャック]]からの伝言」(2017年11月7日、[[NHK BSプレミアム]]) - ※コメント出演
* 最後の講義「大林宣彦」(2018年3月11日、[[NHK BS1]])50分バージョン - 語り:[[門脇麦]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{notelistNotelist}}
 
=== 出典 ===
{{reflist|23
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<ref name="評伝">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2159727/full/ |title=『時をかける少女』大林宣彦監督、死去 82歳 最新作の公開予定日に |newspaper= ORICON NEWS |publisher= オリコン |date= 2020-04-11 |accessdate= 2020-04-11 }}[https://www.cinemacafe.net/article/2020/04/11/66676.html 大林宣彦監督、最新作の公開予定日に逝去…行定勲監督「恩師を失ってしまったよう」]{{Cite news|title=大林監督が最後に撮りたかった「悲恋」 巨匠からの課題とは|author=行定勲|authorlink=行定勲|newspaper=[[西日本新聞|西日本新聞me]]|date=2020-04-16|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/601116/|publisher=[[西日本新聞社]]|accessdate=2023–07–20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200416105657/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/601116/|archivedate=2020-04-16}}[https://web.archive.org/web/20141009155610/http://www.holic-mag.com/hogaholic/int/int27.html 井口昇インタビュー - HogaHolic](Internet Archive)、[http://twitter.com/a_i_jp/status/201549491273338880 Twitter / a_i_jp: 17歳で『HOUSE』を観て以来の大林世代です]、[https://thetv.jp/news/detail/125328/【映画「ミックス。」連載】監督・石川淳一 “テレビの力を見せてやろう”という気持ちで臨みました]、[https://www.advertimes.com/20150407/article188846/5/ 「すぐおわ」放送開始1周年。憧れの原田知世さんが登場!(ゲスト:原田知世さん)]、[https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2020041102100013.html 「カメ止め」上田慎一郎監督「唯一無二の方でした」 大林宣彦監督との思い出つづる]、[https://moviewalker.jp/news/article/229950/ 【追悼】大林宣彦監督、旅立つ。「映画で歴史は変えられないが、未来を変えることはできる」]{{Cite web|和書|author = [[樋口尚文]] |title = ぴあ大林宣彦【追悼特別寄稿(1)】 大林宣彦はいかなる時も「私人=詩人」であった |work = [[ぴあ]] |publisher = |date = 2020-04-12 |url = https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_43c1a8f2-85ea-4538-a883-eb051f77caab.html |accessdate = 2020-04-15 }}{{Cite web|和書|author = 森直人 |title = 『HOUSE/ハウス』から『この空の花 長岡花火物語』『花筐/HANAGATAMI』まで! “A MOVIE”の素晴らしき大林宣彦ワールドへの招待<ザテレビジョンシネマ部コラム> |work = [[ザテレビジョン]] |publisher = [[KADOKAWA]] |date = 2019-07-30 |url = https://thetv.jp/news/detail/198850/ |accessdate = 2020-02-19 |archiveurl = https://megalodon.jp/2020-0206-1719-19/https://thetv.jp:443/news/detail/198850/ |archivedate = 2020-02-06 }}{{Cite web|和書|author = 森直人 |title = 映画監督・大林宣彦は永遠に…戦争体験から生まれた「夢」と「死」の世界観<ザテレビジョンシネマ部> |work = ザテレビジョン |publisher = KADOKAWA |date = 2020-05-07 |url = https://thetv.jp/news/detail/231937/ |accessdate = 2020-05-07 }}[https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_28fa72d5-f497-4bb7-a658-c5e41b68d86e.html 【追悼特別寄稿(2)】プロとしての大林宣彦の仕事の流儀 -中川右介]、[https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_aa2c775e-1d9b-495b-9853-341d07b0b6df.html 【追悼特別寄稿(3)】若者に映画の夢を与え続けた映画監督大林宣彦 -植草信和]、[https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_803a1aa6-3590-45f4-92ca-40f322fe8b5a.html 【追悼特別寄稿(4)】追悼 大林宣彦さん 自由人の豊かさ -川本三郎]{{Cite web|和書|author = [[大高宏雄]] |title = 大高宏雄の新「日本映画界」最前線“経験ゼロ”の大林宣彦監督はなぜ商業映画デビューできた? |work = [[日刊ゲンダイDIGITAL#日刊ゲンダイDIGITAL(旧称ゲンダイネット)|日刊ゲンダイDIGITAL]] |publisher = 株式会社日刊現代 |date = 2020-04-18 |url = https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/272015 |accessdate = 2020-05-08 }}[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000120.000012754.html 映画作家・大林宣彦の軌跡を振り返る総特集『文藝別冊 大林宣彦 』発売!]、[https://web.archive.org/web/20170901145441/https://www.gifu-np.co.jp/news/zenkoku/entertainment_culture/front_line/EN20170831010011791410181A.shtml エンタメ・フロントライン/ 大林監督の平和への思い 虚構の中に真実描く映画 岐阜新聞Web](Internet Archive)</ref>
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<ref name="newcaledonia">{{Cite news|title =天国にいちばん近い島キャンペーン|date =|author =|url =https://www.newcaledonia.jp/promotion/tengoku/|accessdate =2015-01-02|publisher =ニューカレドニア観光局|archiveurl =https://web.archive.org/web/20140108033117/http://newcaledonia.jp/promotion/tengoku/|archivedate =2014年1月8日|deadlinkdate =2017年9月}}[https://news.mynavi.jp/article/20141218-kadokawa/2 80年代をもう一度! 当時アツかった青春アイドルを角川映画で振り返る 「天国にいちばん近い島」で見るアイドルとは]、[https://news.mynavi.jp/article/20130302-a020/ 天国に一番近い島ニューカレドニアへ行きたい | マイナビニュース]、「[[世界行ってみたらホントはこんなトコだった!?]]」([[フジテレビ]])2014年8月6日放送、[http://datazoo.jp/tv/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AA%E3%83%88%E3%82%B3%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%81%EF%BC%9F/775861 世界行ってみたらホントはこんなトコだった!?|2014/08/06]</ref>
<ref name="古里映画">[http://www.locanavi.jp/konosora/director/track.html 大林宣彦監督「古里映画」の軌跡|この空の花 - 「長岡 ... - 長岡ロケなび]、[https://web.archive.org/web/20150126093236/http://www.asahi.com/articles/ASH1Q4474H1QTPJB002.html 大分)臼杵で映画祭 大林監督、常磐貴子さんら迎え:朝日新聞 ](Internet Archive)[https://news.yahoo.co.jp/bylineexpert/higuchinaofumiarticles/20131101-00029135babb5427f5276b636b051c28e9a6321543726c6d 樋口尚文の千夜千本 第11夜 「野のなななのか」(大林宣彦監督)]</ref>
<ref name="講演">[http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2009/09/2009092907001.html 神戸市:記者発表資料第14回神戸100年映画祭・新開地 淀川長治メモリアルの開催]、[https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50092.html 追悼・大林宣彦監督 忘れない28分間の「遺言」]、[http://www.kanazawa21.jp/tmpImages/videoFiles/file-62-16-file.pdf 「少女がつくった時代 80年代、アイドル映画の極意」 金沢21世紀美術館]、[http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/noguchihisamitsu/ 京都文化博物館特別展「野口久光 シネマ・グラフィックス 魅惑のヨーロッパ映画ポスター展」の開催について]、[http://www.rafu.com/2013/05/%EF%BD%8C%EF%BD%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD%EF%BC%9A%E5%A4%A7%E6%9E%97%E5%AE%A3%E5%BD%A6%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%8C%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC/ LA日本映画祭:大林宣彦監督がトークショー - Rafu Shimpo]、[http://www.machi-anjo.jp/summit/anjo/ 全国まちづくり商店街サミット2012in安城|安城大会について]、[http://www.city.towada.lg.jp/docs/2012062100039/files/01.pdf 広報とわだ 2006年2月15日号 - 十和田市]、[http://www.city.ojiya.niigata.jp/site/mayor/shicho-diary201003.html 市長ダイアリー(平成22年3月) - 小千谷市ホームページ]、[http://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/files/machizukuri/tyuukatu/symposium2010.pdf 旭川市まちづくり推進課 - 旭川市中心市街地活性化シンポジウムの開催について]、[http://www.kyushu.meti.go.jp/seisaku/energy/ene_kan_kou/topics/topics_1910.pdf し・え・かん トピックス 平成19年10月号 - 経済産業省 九州経済産業局]、[http://www.seijo.ac.jp/lifelearn/o-college/introduction/01.html 成城大学 | 生涯学習 | オープン・カレッジ | 講演紹介]、[http://www.yokohamatriennale.jp/2014/event/2014/07/post3.html オープニング上映 - 横浜トリエンナーレ]、[http://www.jia-kanto.org/members/event/event_m/bkn_200807/lecture_bkn/jiayey2008ae4oceieacioaeeaoe.html JIAトーク2008第4回映画作家・大林宣彦氏講演 - 建築家online]、[http://psilocybe.co.jp/2009/jamh2009/151320a.html 公開講演 「こころと映画と社会」 大林宣彦(映画作家) | 日本精神衛生学会大会]<!---[https://web.archive.org/web/20130201045102/http://www.jti.co.jp/knowledge/forum/2012/0525oobayashi/index.html 講演内容[大林 宣彦さん] | JT ウェブサイト](Internet Archive)--->、[http://www.news-postseven.com/archives/20120410_100642.html NEWSポストセブン|大林宣彦氏 医学部入試会場出て「イシャヤメタ」]、[http://www.sankei.com/west/news/140518/wst1405180039-n1.html 野のなななのか - 産経ニュース]、[http://toyokeizai.net/articles/-/1080 (第20回)<大林宣彦さん・前編>落とし穴に落ち続ける校長先生から学ぶ(1)]、[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/800/130567.html ロケ地の小学校全焼 大林宣彦監督の話 | NHK「かぶん」ブログ]、[http://www.sptvjsat.com/wp-content/uploads/110421_oobayashikantokutokushujouei.pdf 大林宣彦のいつか見た映画館と - スカパーJSAT]、[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/509439.html 「BDビデオは'13年にDVDを逆転する」。DEGが拡大宣言 -AV Watch]、[http://www.cinematopics.com/cinema/c_report/index3.php?number=273 “映画と、古里と、日本の幸福”『なごり雪』シンポジウム&特別上映試写会開催!!]、[http://samidare.jp/fc/note.php?p=lavo&c=&off=54&kw= 【ジャパンフィルムコミッション】総会とロケ地ツアーに参加 山形おきたまフィルムコミッション]、[http://www.nasuno-hinata.com/jinbutsu13.html 五十嵐順一/那須フィルムコミッション]</ref>
<ref name="ng151217">[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/171799 上戸彩がCM女王に返り咲き 周到な結婚&妊娠が奏功か]</ref>
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<ref name="特撮・幻想映画">{{Cite book|和書|author = 石井博士ほか |year = 1997 |title = 日本特撮・幻想映画全集 |publisher = 勁文社 |page = 359 |isbn = 4766927060}}</ref>
<ref name="戦後メディア">[[山中正剛]]・[[石川弘義]]共著『戦後メディアの読み方』勁草書房、2001年、P188-189</ref>
<!---<ref name="馬場">馬場啓一『大人の男の作法』([[PHP研究所]]、2006年)P104-106</ref>--->
<ref name="日本の映画人">[[#日本の映画人]]P114-115</ref>
<ref name="田山198">[[#田山]]P198-213</ref>
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<ref name="シネアルバム120_64">{{Harvnb|シネアルバム120|1986|loc=「大林宣彦のロングトーキング・ワールド」 インタビュアー・野村正昭 ※インタビュー日、1984年5月3–4日、大林宅、1986年9月10日、9月27日、観音崎京急ホテル([[ラビスタ観音崎テラス]])|pp=64–129}}</ref>
<ref name="シネアルバム120_202">{{Harvnb|シネアルバム120|1986|loc=大林宣彦「もうひとつの〈A MOVIE〉物語」 執筆 成城自宅、1986年11月18日|pp=202–208 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集20">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=〔対談〕いまでもどこかで 大林千茱萸×大林恭子 司会・安藤紘平 対談日 成城自宅、2020年6月23日|pp=20–34 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集39">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=一九七七年『HOUSE』直後の大林宣彦インタビュー 聞き手・構成=樋口尚文|pp=39–43 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集58">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=平田オリザ「叔父のこと」|pp=58–61 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集78">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[山田奨治]]「テレビCMが育てた大林宣彦」|pp=78–84 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集85">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[樋口尚文]]「『HOUSE』、映画史を変えた異形の詩篇」|pp=85–92 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集93">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[長谷正人]]「『幼少期』の映画、あるいは記号化する日常と『身体』極私的大林宣彦論」|pp=93–103 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集182">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[阪本善尚]]「大林宣彦監督を偲んで」|pp=182–187 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集231">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[石岡良治]]「大林宣彦『HOUSE』と悪夢のDiscover Nowhere」|pp=234–242 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集298">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=大林宣彦×[[高畑勲]]「対談
映画は境界を越えて」|pp=298–306 }}</ref>
<ref name="ユリイカ総特集307">{{Harvnb|ユリイカ総特集|2020|loc=[[山本昭宏]]「幽霊と一輪車 映画による歴史叙述と反戦平和をめぐって」|pp=307–315 }}</ref>
<ref name="映画は歴史ジャーナリズム11">{{Harvnb|映画は歴史ジャーナリズム|2017|loc=作家の戦争体験を知ると、映画のフィロソフィが見えます。川本三郎・大林宣彦|pp=11–51 }}</ref>
<ref name="映画は歴史ジャーナリズム55">{{Harvnb|映画は歴史ジャーナリズム|2017|loc=映画は、風化しないジャーナリズムです。常盤貴子・大林宣彦|pp=55–83 }}</ref>
<ref name="映画は歴史ジャーナリズム85">{{Harvnb|映画は歴史ジャーナリズム|2017|loc=平和の時代の映画作家を始めました。「HOUSE/ハウス」、「吸血鬼ゴケミドロ」上映のあとに。犬童一心・樋口尚文・大林宣彦|pp=85–135 }}</ref>
<ref name="映画は歴史ジャーナリズム141">{{Harvnb|映画は歴史ジャーナリズム|2017|loc=映画は、時代を映す鏡なのです。「瞳の中の訪問者」「無法松の一生」上映のあとに──犬童一心・手塚眞・小中和哉・大林宣彦|pp=141–201 }}</ref>
<!---<ref name="jinsei">関口宏の人生の詩([[BS-TBS]]、2014年9月24日放送){{出典無効|title=TVWATCH|date=2022年1月}}</ref>--->
}}
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*{{Cite book|和書|author=大林宣彦・中川右介|year=2015|month=|title=大林宣彦の体験的仕事論 人生を豊かに生き抜くための哲学と技術|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569825939|ref=体験的仕事論}}
*{{Cite book|和書|author=|year=2016|month=|title=キネ旬ムック 1980年代の映画には僕たちの青春がある|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4-83736-838-0|ref=1980年代の映画}}
* {{Cite book|和書|url=https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309979298/|title=総特集 大林宣彦|year=2017|series=[[KAWADE夢ムック]] 文藝別冊|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4-309-97929-8|ref={{SfnRef|総特集|2017}}}}
* {{Cite book|和書|title=大林宣彦の映画は歴史、映画はジャーナリズム。|year=2017|publisher=[[七つ森書館]]|isbn=978-4-8228-1788-6|ref={{SfnRef|映画は歴史ジャーナリズム|2017}}}}
* {{Cite book|和書|url=http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3459&status=published|title=総特集 大林宣彦 1938-2020|issue=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]2020年9月臨時増刊号|publisher=[[青土社]]|isbn=9784791703890|ref={{SfnRef|ユリイカ総特集|2020}}}}
* {{Cite journal|和書|author=片岡俊郎 |date=2003-09 |title=尾道と文化 : 大林宣彦の映画と地域開発 |journal=福山大学経済学論集 |ISSN=02884542 |publisher=[[福山大学]] |volume=28 |issue=1 |pages=71-89 |id={{CRID|1050845763171569792}} |naid=120005498848 |url=http://id.nii.ac.jp/1064/00006219/ |ref=片岡}}
* {{Cite journal|和書|author=沼尻正之 |date=2021-03 |url=https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON_601210302 |title=大林映画にとって「地域」とは何か? -尾道三部作とそれ以後- |journal=追手門学院大学地域創造学部紀要 |ISSN=2423-8449 |publisher=追手門学院大学地域創造学部 |volume=6 |pages=23-61 |CRID=1050006275886113152 |accessdate=2023-09-13 |ref=outemon }}
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* [https://www.locanavi.jp/konosora/director/top.html この空の花「長岡映画」製作委員会 大林宣彦からの手紙]
* [https://www.locanavi.jp/konosora/director/profile.html この空の花「長岡映画」製作委員会 大林宣彦監督プロフィール]
* [https://cinema-rank.net/list/50168 大林宣彦監督が制作した映画ランキング]
* [https://www.ycam.jp/archive/profile/nobuhiko-obayashi.html?ua=desktop 山口情報芸術センター]
* [https://www.ycam.jp/archive/profile/nobuhiko-obayashi.html?ua=desktop 第2回 2018 尾道映画祭「車座シンポジウム」大林監督を囲んで映画を使って僕たちは何ができるのか]