「吸血鬼ドラキュラ」の版間の差分

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| name = ドラキュラ
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| caption = 第1オリジナル版のカバー初版の表紙
| author = [[ブラム・ストーカー]]
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『'''吸血鬼ドラキュラ'''』(きゅうけつきドラキュラ、原題:''Dracula'')は、1897年に出版された[[アイルランド]]([[イギリス]]の小説家[[ブラム・ストーカー]]による[[怪奇小説]]([[ゴシック小説|ゴシックホラー]])。複数の語り手による手紙や日記、新聞記事という形で展開される[[書簡体小説]]であり、[[トランシルヴァニア]]の貴族で[[吸血鬼]]である[[ドラキュラ伯爵]]がイギリスへと渡り災いを招くこと、また、それを[[ヴァン・ヘルシング|エイブラハム・ヴァン・ヘルシング]]教授含むグループが討伐する物語が展開される。
 
本作の執筆は1890年代に行われた。ストーカーはトランシルヴァニアの民間伝承や歴史を広く参照し、執筆にあたっては100ページを超えるメモを残した。現代において研究者は、ドラキュラ伯爵のモデルとして、15世紀の[[ワラキア公国]]の君主である[[ヴラド・ツェペシュ]](ヴラド3世)や、17世紀のトランシルヴァニアの貴族の未亡人[[バートリ・エルジェーベト]]といった史実の人物を挙げているが、これには異論もある。特にストーカーの執筆メモには彼らについて言及した形跡がない。ストーカーは休暇中にウィットビーの公共図書館で、「ドラキュラ」という名前を見つけ、これを[[ルーマニア語]]で[[悪魔]]を意味すると勘違いしたと思われる。
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== 登場人物 ==
{{multiple image
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| width = 260
| footer = ドラキュラ伯爵を演じたことで有名な[[ベラ・ルゴシ]](上段)と[[クリストファー・リー]](下段)。
| image1 = Bela Lugosi as Dracula.jpg
| image2 = Dracula 1958 c.jpg
| image3 =
}}
; [[ドラキュラ伯爵]]
: [[トランシルヴァニア]]の古城に住む貴族。[[吸血鬼]]。
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== 執筆背景 ==
[[File:Bram Stoker 1906.jpg|thumb|upright|作者[[ブラム・ストーカー]]]]
 
作者の[[ブラム・ストーカー]]は、ロンドンの{{仮リンク|ライシアム劇場 (ロンドン)|label=ライシアム劇場|en|Lyceum Theatre, London}}の支配人代理として当時知られた人物であった。夜公演の司会や舞台俳優[[ヘンリー・アーヴィング]]の秘書などをしていた。ストーカーはウォルト・ホイットマンに宛てた手紙の中で、自身のことを「世間に対して秘密主義者」と表現していたが、実際にはその生活ぶりは比較的知られたものであった{{Sfn|Hopkins|2007|p=4}}。
ストーカーは本業からの収入を補うためにロマンス小説やセンセーション小説{{efn|センセーション小説(Sensation fiction)とは、家庭内での殺人や窃盗、成りすまし、不倫といったスキャンダラスな内容を扱ったジャンルのこと{{sfn|Rubery|2011}}。}}を執筆しており{{sfn|Eighteen-Bisang|Miller|2008|p=301|ps=: "Most of his novels are sentimental romances in which the hero tries to win the love of a woman."}}{{sfn|Belford|2002|p=269}}、1912年に亡くなるまでに18冊の本を出版した{{Sfn|Hopkins|2007|p=1}}。その内、本作は『シャスタの肩』(1895年)、『ミス・ベティ』(1898年)に続く、生涯7冊目の刊行作品であった{{Sfn|Belford||2002|p=363}}{{efn|『ミス・ベティ』の出版年は1898年であるが、執筆は1890年である{{Sfn|Belford|2002|p=277}}。}}。
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本作の執筆にあたってストーカーは広範囲な取材を行い、各章の要約やプロットのアウトラインを含めた100ページを超えるメモを作成していた{{sfn|Bierman|1998|p=152}}。
このメモはストーカーの死後の1913年に、妻フローレンスによってニューヨークの書籍商に2ポンド2セントで売却された。その後、1970年にフィラデルフィアのローゼンバック博物館・図書館が購入するまで行方不明の状態にあった(実際、この間はチャールズ・スクリブナーズ・サンズという個人が所有していた){{Sfn|Barsanti|2008|p=1}}。
ストーカーについての最初の伝記を書いたハリー・ラドラムは1962年に、本作の執筆は1895年か1896年頃に開始されたとしていた{{Sfn|Ludlam|1962|pp=99–100}}。1972年にメモを発見した{{Sfn|Eighteen-Bisang|Miller|2008|p=3}}レイモンド・T・マクナリーとラドゥ・フロレスコは執筆時期を1895年から1897年の間と特定した{{Sfn|McNally|Florescu|1973|p=160}}。
しかし、その後の研究ではこの時期にも疑念が呈された{{Sfn|Eighteen-Bisang|Miller|2008|p=4}}。ジョセフ・S・ビアマンは、メモに対する最初の大きな分析研究の中で、メモの最も古い日付が1890年3月8日であり、それは完成稿とわずかに細部が異なる章のアウトラインであったとしている{{Sfn|Bierman|1977|p=40}}。
彼によればストーカーはもともと[[書簡体小説]]を書くつもりがあり、当初はトランシルヴァニアではなく、[[オーストリア]]の[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]が舞台であった。また、初期のメモには吸血鬼という言葉は明示的には出てこなかった{{Sfn|Bierman|1977|p=40}}。
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アイルランドの伝承も、作品のモデルとして指摘されることがある。アルスター大学コールレーン校でケルトの歴史と民俗学を教えるボブ・カランは、ストーカーがアイルランドの吸血鬼 Abhartach からドラキュラのインスピレーションを得た可能性を指摘している{{sfn|Curran|2005|p=64}}{{sfn|Curran|2000}}。
 
== 出版 ==
[[File:Dracamer99.jpg|thumb|upright|1899年にダブルデイ&マクルーア社から出版されたアメリカ版の表紙]]
 
『吸血鬼ドラキュラ』は1897年5月にロンドンでアーチボルド・コンステーブル社から出版された。値段は6シリングであり、黄色地に赤文字という装丁であった{{sfn|Davison, 'Introduction'|1997|p=19}}。
2002年、伝記作家のバーバラ・ベルフォードは、おそらくタイトルの決定が出版間際であったために、「みすぼらしく」見える装丁になったと書いている{{Sfn|Belford|2002|p=272}}。
通常であれば出版契約は、刊行日の6ヶ月以上前に取り交わすものであったが、本作は異例なことに出版の6日前であった。また、最初の1000部の売上分の印税を、ストーカーは受け取らなかった{{Sfn|Belford|2002|p=269}}。
アメリカでは同国の新聞で連載された後、1899年にダブルデイ&マクルーア社から出版された{{Sfn|Belford|2002|p=272}}。
1930年代にユニバーサル・スタジオが映画化権を購入した際、ストーカーがアメリカの著作権法を完全に遵守していなかったことが判明し、本作は[[パブリックドメイン]]となった{{Sfn|Stoker|Holt|2009|pp=312–313}}。
これは著作者は、権利を購入して2部登記する必要があったが、ストーカーは1部のみであった{{Sfn|Belford|2002|p=272}}。
例えばストーカーの母シャーロットは本作が息子に莫大な利益をもたらすと信じていたが、実際のところ、高い評価に対して、本作で大金を得ることはなかった{{Sfn|Belford|2002|p=274}}。
本作は最初の出版以来、絶版になったことが1度もない{{Sfn|Davison, 'Introduction'|1997|p=21}}。
 
1901年、ヴァルディマール・アスムンドソン(Valdimar Ásmundsson)によって、アイスランド語版が出版された。これは『{{仮リンク|闇の力|en|Powers of Darkness}}』(Makt Myrkranna)と改題され、序文はストーカーが書いている。この序文においてストーカーは、この物語は事実であり、「当然の理由で」地名や人名は変更していると述べている{{Sfn|Davison, "Blood Brothers"|1997|pp=147–148}}。
研究者たちはこの序文の存在から1980年代には、このアイスランド語版の存在を認識していたものの、英語に訳し直そうとする者はいなかった。後にわかったこととして、この『闇の力』は、単なる現地語翻訳ではなく、原作から大きく改変されていた。登場人物の名前の変更、物語は短くなり、あからさまな性的描写が加えられていた。オランダの研究者ハンス・コルニール・デ・ルースは、この翻訳版を好意的に評価し、例えばドラキュラが這う場面などは、簡潔でパンチが効いていると述べている{{Sfn|Escher|2017}}。
 
== テーマ分析 ==
=== 性的描写 ===
『吸血鬼ドラキュラ』を分析する上で、性的なテーマに着目することは学術的にもよく行われ、発展してきたものであり、誰もが簡単に手を付けられるものである{{Sfn|Spencer|1992|p=197}}。
特にセクシュアリティと誘惑という2つのテーマは、最も頻繁になされる議題であり、イギリス女性の堕落に関連付けられる{{Sfn|Kuzmanovic|2009|p=411}}。
吸血鬼に関する現代の解説書でも、セックスやセクシュアリティとの関連性を広く認めている{{Sfn|Craft|1984|p=107}}。
ブラム・ストーカーが同性愛者であったとする言説もある。例えばタリア・シェーファーは、ストーカーがアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンに送った手紙の内容が同性愛的であったと指摘している{{Sfn|Schaffer|1994|p=382}}。
また、ストーカーが本作の執筆を始めたのは、友人のオスカー・ワイルドが同性愛罪で投獄された1ヶ月後のことであった{{Sfn|Schaffer|1994|p=381}}。
 
本作の登場人物たちは、性的役割を演じることで侵犯的なセクシュアリティを表現しているとしばしば指摘されている。クリストファー・クラフトは、ドラキュラ伯爵がもたらす主な性的脅威は、彼が「他の男性を誘惑し、侵食し、消耗させる」ことにあり{{Sfn|Craft|1984|p=110}}、作中でジョナサン・ハーカーが3人の吸血鬼の女たちに侵されそう<!--「犯されそう」の誤字ではない-->になって興奮する場面は、彼が密かに持つ同性愛的欲望への代償行為を示していると指摘する{{Sfn|Craft|1984|p=110}}。
すなわち、吸血鬼の女たちに屈するということは、彼が性的受動性という伝統的に女性の役割を引き受けたということであり、同時に女たちは男性の側の役割を演じているといえる。これは標準的なビクトリア朝の性別役割を逆転させたものであった{{Sfn|Craft|1984|p=109}}。
性的堕落や攻撃性はヴィクトリア朝には男性の専売特許として理解され、女性は夫の性的欲求に服従することが期待されていた。ハーカーが服従したいと願ったことと、このシーンがストーカーが見た夢に由来することは、社会的な期待と性生活における自由への欲求という男たちが持つ現実との溝を浮き彫りにしている{{Sfn|Demetrakopoulos|1977|p=106}}。
オリジナル版では、ハーカーが女吸血鬼たちがドアの前で囁き合うのを聞き、ドラキュラ伯爵が彼女たちに明日の晩に(ハーカーを)餌にしても良いと告げるシーンがある。一方、アメリカ版での同じ場面ではドラキュラが当夜は自分がハーカーを食すが、明日はお前ら(女吸血鬼たち)が食しても良いと告げる形に変更されている。この差異についてニーナ・アウエルバッハとデヴィッド・J・スカルは、本来はアメリカ版のセリフであったが、1897年のイギリスでは出版が難しいと考えてストーカーは変更し、一方でストーカー自身が信奉する[[ウォルト・ホイットマン]]を生み出したアメリカなら、男が男を餌食にする描写も受け入れられるであろうと考えたのではないかと推察している{{Sfn|Auerbach|Skal|1997|p=52}}。
 
本作における女性描写は批評家の意見を二分し続けている。
エレイン・ショウォルターは、ルーシー・ウェステンラとミナ・ハーカーを「[[新しい女]](ニューウーマン)」の様々な側面を表していると指摘している{{Efn|「[[新しい女]]」(ニュー・ウーマン、New Woman)は、19世紀に登場した用語で、社会的・経済的に自立していた新興の知的女性階級を指す{{Sfn|Bordin|1993|p=2}}。}}。
彼女は、ルーシーは新しい女の「性的大胆さ」を象徴しているとし、作中で3人の男性たちから求婚されていることに対して、なぜ女性は3人の男性と結婚できないのかと疑問を抱くシーンによく現れているとする{{Sfn|Showalter|1991|p=180}}。
一方でミナは、教師という職業、鋭い頭脳、速記の知識といった、新しい女の「知的野心」を象徴しているとする{{Sfn|Showalter|1991|p=180}}。
キャロル・A・センフは、ストーカーにとって新しい女現象は曖昧なものであったと指摘している。本作に登場する5人の吸血鬼のうち、4人が女性であり、全員が攻撃的かつ「荒々しくエロティック」であり、血液の渇望だけが原動力になっている。一方でミナは他の女性登場人物たちのアンチテーゼとして機能しており、彼の敗北に至るドラキュラとの戦いにおいて、唯一的な非常に重要な役割を果たす{{Sfn|Senf|1982|p=34}}。
他方でジュディス・ワッサーマンは、ドラキュラの討伐は、本質的に女性の身体を支配するための戦いであったと主張している{{Sfn|Wasserman|1977|p=405}}。
彼女はルーシーの性的な目覚めと、ジェンダーに基づく性的役割の逆転こそ、ヴァン・ヘルシングが脅威とみなしていたものと指摘している{{Sfn|Senf|1982|p=44}}。
 
=== 人種描写 ===
ドラキュラ伯爵がヴィクトリア朝のイギリスへの移住を試みることは、しばしば{{仮リンク|侵略文学|en|Invasion literature}}の典型例として{{Sfn|Kane|1997|p=8}}、また人種汚染に対する恐怖の投影として読まれることが多い{{Sfn|Arnds|2015|p=89}}。
『ドラキュラ』における吸血鬼神話が反ユダヤ的ステレオタイプに関係していると指摘する研究者も多い。ジュール・ザンガー(Jules Zanger)は、この小説の吸血鬼描写を、20世紀末のイギリスへの東欧系ユダヤ人の移民と結びつけている{{Sfn|Zanger|1991|p=33}}{{Efn|他にザンガーが、当時のイギリス人に不安感を与えたユダヤ系移住者の例として挙げたのは、当時にユダヤ人の肉屋が犯人という噂が立った[[切り裂きジャック]]と、『{{仮リンク|トリルビー|en|Trilby (novel)}}』(1895年)に登場する[[スヴェンガーリ]]である{{Sfn|Zanger|1991|p=41}}。}}。
1881年から1900年の間にかけて、[[ポグロム]]や故郷での反ユダヤ法から逃れてきたために、イギリスに住むユダヤ人の数は6倍に増えた{{Sfn|Zanger|1991|p=34}}。
{{仮リンク|ジャック・ハルバースタム|en|Jack Halberstam}}は、外見や富、寄生的な血液の渇望、国家への忠誠心の欠如といったドラキュラ伯爵の描写は、反ユダヤ主義的概念から連想されるユダヤ人描写だと挙げている{{Sfn|Halberstam|1993|p=337}}。
また彼は、他の作品におけるユダヤ人描写とも類似点があると指摘している。例えば、長く鋭い爪は、[[チャールズ・ディケンズ]]の『[[オリバー・ツイスト]]』(1838年)に登場する{{仮リンク|フェイギン|en|Fagin}}や、[[ジョージ・デュ・モーリア]]の『{{仮リンク|トリルビー|en|Trilby (novel)}}』(1895年)に登場する[[スヴェンガーリ]]の、動物的かつ痩せた描写と比較される{{Sfn|Halberstam|1993|p=338}}。
 
また、限定的だが、本作の[[スロバキア人]]と[[ロマ人]]([[ジプシー]])の描写も学術的な関心を集めている{{Sfn|Tchaprazov|2015|p=524}}{{Efn|小説の中ではハーカーは、スロバキア人をジプシーの一種だと述べている{{Sfn|Tchaprazov2015|p=527}}。}}。
ピーター・アーンズは、伯爵がロマ人を支配し、幼子を誘拐させるのは、ロマ人が子供を誘拐するという実在の民間伝承・迷信を想起させるものであり、またオオカミに変身する能力もロマ人が動物的だという外国人嫌悪症と関連付けられると指摘している{{Sfn|Arnds|2015|p=95}}。
当時、浮浪者全般が動物に比喩されていたが、ロマ人の場合には「汚れた肉」を好み、動物に囲まれて暮らしているという生活慣習のために、ヨーロッパでは迫害対象となっていた{{Sfn|Croley|1995|p=107}}。
ストーカーのスロバキア人に関する記述は、イギリスのある少佐の旅行記から多く引用されている。ただ、その旅行記とは異なり、ハーカーの視点で語られる本作の描写は、露骨に帝国主義的で、人々を「野蛮人」、彼らの船を「原始的」と表現するなど、文化的に劣る存在であることを強調している{{Sfn|Tchaprazov|2015|p=525}}。
 
スティーヴン・アラタは、本作を、非白人がイギリスを侵略し、人種の純度を弱めることへの恐怖を描写した「逆植民地化」の事例として説明している{{Sfn|Croley|1995|p=89}}。
彼は本作の文化的背景について、大英帝国の衰退、他の列強国の台頭、帝国植民地化の道徳性に対する「国内の不安の高まり」を挙げている{{Sfn|Arata|1990|p=622}}。
ストーカーの作品に限らず、逆植民地化系の物語は、「文明」化された世界が「未開」の世界に侵食されることへの恐怖を示している{{Sfn|Arata|1990|p=623}}{{Efn|アラタの主張について、ローラ・サゴラ・クロリーは次のように述べている。「アラタはドラキュラの人種的侵略が階級に与える影響を見誤っている。社会改革者やジャーナリストは世紀を通じて、貧困者について語る時に人種という言葉を用いてきた{{Sfn|Croley|1995|p=89}}」}}。
ドラキュラの恐ろしさは単に人を殺すことにあるのではなく、別人種に変容させてしまうことにある{{Sfn|Arata|1990|p=630}}。
モニカ・トマシェフスカは、ドラキュラという存在が人種的他者と堕落した犯罪者を紐づけたものだと指摘している。彼女は出版当時の時代背景として「脅威をもたらす堕落者は、一般に他人種の者とみなされた。つまり、国内秩序を乱し、母国の人種を弱体化させるために国に入ってくる異質な侵入者」と認識されていたと説明している{{Sfn|Tomaszweska|2004|p=3}}。
 
=== 疫病の比喩 ===
本作における吸血鬼の描写は、病気へのヴィクトリア朝時代の不安を象徴していると論じられてきた。ただ、この観点は他の論述と合わせて語られてきたサブテーマ的なものであり、他のテーマよりも扱われる頻度はかなり低い{{Sfn|Willis|2007|pp=302–304}}。
この論点の1つに病気の描写を人種と紐づけていると指摘するものがある。例えばジャック・ハルバースタムは、作中でドラキュラ伯爵のロンドンの邸宅に対して、あるイギリス人労働者が、その忌まわしき臭いを[[エルサレム]]のようだと言い、「[[ユダヤ人]]の臭い」と語る場面を挙げている{{Sfn|Halberstam|1993|p=341}}。
ハルバースタムは、ヴィクトリア朝文学においてはユダヤ人を寄生虫のように描写することは多かったとし、ユダヤ人が血液の病気を広めているのではないかという特別な恐怖が存在したことや、あるジャーナリストがユダヤ人を「イディッシュの吸血者(Yiddish bloodsuckers)」と表現したことを取り上げている{{Sfn|Halberstam|1993|p=350}}。
対照的に、マティアス・クラセンは吸血鬼を[[性感染症]]、特に[[梅毒]]と類似していることを指摘している{{Sfn|Clasen|2012|p=389}}{{Efn|一説によればブラム・ストーカーの死因は梅毒とされており、ダニエル・ファーソンは『ドラキュラ』の執筆中に彼は梅毒に罹患したと指摘している{{Sfn|Stevenson|1988|p=148}}。}}。
文学と病気の接点を論じているマーティン・ウィリスは、最初の感染とそれに伴う病気の双方に吸血鬼が特徴付けられていると指摘している{{Sfn|Willis|2007|p=302}}。
 
== スタイル ==
=== 物語 ===
本作は[[書簡体小説]]であり、様々な文書を通して物語が展開されていく<ref>''Dracula'' is also said to be a "folio novel — which is ... a sibling to the epistolary novel, posed as letters collected and found by the reader or an editor." Alexander Chee, [https://www.guernicamag.com/when-horror-is-the-truth-teller/ "When Horror Is the Truth-teller", ''Guernica'', October 2, 2023]</ref>。
最初の4章は、ジョナサン・ハーカーの日記として記述されている。学者デイヴィッド・シードは、ハーカーがドラキュラ城を訪れて体験する「奇妙な」出来事を、19世紀の紀行文の伝統に置き換える試みとして機能していると指摘する{{Sfn|Seed|1985|p=64}}。
ジョン・セワード、ミナ、ジョナサン・ハーカーは皆、自己保存の行為として当時の鮮明な記録を残していく。シードはハーカーの語りは、ドラキュラ伯爵によって破壊されそうになっている自身のアイデンティティを守るために、伯爵にバレないよう速記されていると指摘している{{Sfn|Seed|1985|p=65}}{{Sfn|Moretti|1982|p=77}}。
例えばハーカーの日記は、伯爵の想像以上に、ハーカーが城のことを把握しているという、城に滞在中の彼が唯一持つアドバンテージを示すことに繋がっている{{Sfn|Case|1993|p=226}}。
物語の進展によって、本作のバラバラな記述は、ある種の物語の統一へと向かっていく。小説の前半部ではそれぞれの語り手の語り口が強調され、ルーシーは饒舌さを、セワードはビジネス調の形式を、そしてハーカーは過剰なまでの礼儀正しさが示されている{{Sfn|Seed|1985|p=70}}。
こうした物語スタイルは、吸血鬼とそのハンターの間の権力闘争も強調している。ドラキュラが地盤を固めていくのに対して、ヴァン・ヘルシングの拙い英語がますます目立つようになるのは、ヴィクトリア朝社会への外国人の参入を象徴している{{Sfn|Moretti|1982|p=77}}。
 
=== ジャンル ===
『吸血鬼ドラキュラ』は[[ゴシック小説]]についての議論においてよく引き合いに出される。
ジェロルド・E・ホーグルは、ゴシック小説には境界を曖昧にする傾向があると指摘し、これには性的指向、人種、階級、さらに生物の種としての境界すらあるとしている。
『ドラキュラ』においては伯爵が歯の特徴だけではなく、胸から血を吐き出すこと、ジョナサンとミナの両方に惹かれること、西方と東方の両方の人種に見えること、ホームレスの浮浪者と交われる貴族であることなどを強調している{{Sfn|Hogle, 'Introduction'|2002|p=12}}。
ストーカーはドラキュラ伯爵の創造にあたって広範な民間伝承を参照したが、伯爵の身体的特徴の多くは、ストーカーの時代のゴシック小説に登場する典型的な悪役のそれであった。特に、鉤鼻、青白い顔色、大きな口ひげ、太い眉がそれにあたり、影響を受けたものと考えられる{{Sfn|Miller|2001|p=150}}。
同様に、トランシルヴァニアという舞台設定もゴシックにルーツがある。当時、旅行記は東欧を未発展の迷信の地と紹介していたがため、同時代の作家たちは作品舞台としての東欧に惹かれていた{{Sfn|Miller|2001|p=137}}。
ただ、『吸血鬼ドラキュラ』は時代設定を出版当時(つまり現代)にすることで、それまでのゴシック作品と一線を画していた{{Sfn|Arata|1990|p=621}}。
本作はアーバン・ゴシック(都会的ゴシック)と呼ばれるサブジャンルの一例と見なされる{{Sfn|Spencer|1992|p=219}}。
 
本作は1990年代前半に、アイルランド小説とみなすかの議論が高まったことがある{{Sfn|Keogh|2014|p=194}}。
『ドラキュラ』の舞台の大半は[[イングランド]]であるが、ストーカーは大英帝国時代の[[アイルランド]]の出身であり、また生まれてから約30年を過ごした土地であった{{Sfn|Glover|1996|p=26}}。
そのため、本作を、アイルランドとイギリス、あるいは植民地主義に結びつける多くの論説がある。カルヴィン・W・キョウは、ハーカーの東ヨーロッパへの航海は「西のケルト周縁部と比較に値する」と書き、両者を(イングランドから見て)「別の」空間と強調している。キョウは、象徴的にも歴史的にも東方問題とアイルランド問題は紐づいていたとし、すなわち、トランシルヴァニアはアイルランドの代用であったと主張している{{Sfn|Keogh|2014|pp=195–196}}。
論説家の中には、ドラキュラ伯爵をアングロ・アイルランドの地主と評する者もいる{{Sfnm|1a1=Ingelbien|1y=2003|1p=1089|2a1=Stewart|2y=1999|2pp=239–240}}。
 
== 評価 ==
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== 影響 ==
{{multiple image
=== 翻案と改変 ===
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[[File:Bela Lugosi as Dracula, anonymous photograph from 1931, Universal Studios.jpg|right|thumb|upright|[[ベラ・ルゴシ]]が演じる[[ドラキュラ伯爵]](『[[魔人ドラキュラ]]』、1931年)]]
| width = 260
[[File:Dracula 1958 c.jpg|thumb|right|[[クリストファー・リー]]が演じるドラキュラ伯爵(『[[吸血鬼ドラキュラ (1958年の映画)|吸血鬼ドラキュラ]]』、1958年)]]
| footer = 『[[魔人ドラキュラ]]』(1931年)においてドラキュラ伯爵([[ベラ・ルゴシ]])と[[ヴァン・ヘルシング]]([[エドワード・ヴァン・スローン]])が対峙するシーン。
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| image2 = Dracula1931BelaLugosiColor.png
| image3 =
}}
 
=== 翻案と改変 ===
本作は数多くの映画や演劇の原作ないし原案となった。最初の舞台化はストーカー自身が台本を書き、小説が出版される直前の1897年5月18日にて、ライシアム劇場で『ドラキュラ、或いは不死者』(Dracula, or The Undead)の題で上演された。これは自身の著作権(翻案権)を示すための1回だけの上演であった{{efn|これは1897年に制定された舞台使用許諾法(Stage Licensing Act)に基づくものである{{Sfn|Buzwell|2014}}。}}。
この時の台本は紛失したと考えられているが{{Sfn|Stuart|1994|p=193}}、大英図書館にはその複製本が所蔵されている。この台本はゲラ刷りから抜粋した形で構成されており、ストーカー自身の手書きで、ト書きやセリフの発話者が記されている{{Sfn|Buzwell|2014}}。
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小説自体や、また登場人物が翻案や脚色されてきたことは、その不朽の人気に貢献してきた。学術的議論でさえ、原作と翻案作品の境界は事実上曖昧になっている{{Sfn|Hughes|2012|p=198}}。
ストーカーの曾孫にあたる{{仮リンク|ダクレデイカー・ストーカー|en|Dacre Stoker}}は、ストーカーがアメリカの著作権法を遵守しなかったことで、作家やプロデューサーはドラキュラを使ってもライセンス料を支払う必要がなく、結果として今日の地位を築いたと指摘している{{Sfn|Stoker|2011|p=2}}。
 
== 日本語訳 ==
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| [[偕成社]]
| 世界の怪奇名作
| [[中尾明 (翻訳家)|中尾明]]
| 230
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