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[[カンバーランド|カンバーランド州]]イーグルスフィールドで、[[クェーカー]]教徒の一家に生まれる。機織りの息子であり、地元の小学校で初等教育を受けたが、そこの教師が[[1778年]]に引退すると12歳にして教師となった。15歳のとき兄と共に近くの[[ケンダル]]でクェーカー教徒の学校を運営。[[1790年]]ごろ法律家か医師になることを志したが、当時のイングランドでは[[非国教徒 (イギリス)|非国教徒]]は大学に入学できなかったため親族に反対され、[[1793年]]までケンダルに留まり、その後[[マンチェスター]]に引っ越した。盲目の哲学者で[[博物学]]者のジョン・ゴフ ([[:en:John Gough (natural philosopher)|en]]) に師事して科学知識を身につけ、新たに創設されたマンチェスター・アカデミー(後の[[ハリス・マンチェスター・カレッジ (オックスフォード大学)|ハリス・マンチェスター・カレッジ]])で数学と[[自然哲学]]の教師になった。[[1800年]]までそこで教師を続けたが、大学の財政が悪化したため職を辞し、数学と自然哲学の家庭教師として働くことにした。
 
若いころのドルトンはイーグルスフィールドのクェーカー教徒エリヒュー・ロビンソンに強く影響を受けている。ロビンソンは有能な気象学者で機器製作者であり、ドルトンに数学と[[気象学]]への興味を植えつけた。ケンダルにいたころ、ドルトンは ''Gentlemen's and Ladies' Diaries'' 紙に寄せられた様々な問題や疑問に答えており、[[1787年]]から[[気象学]]に関する[[日記]]をつけ始めた。その後の57年間で日記には20万以上の気象観測記録が記された<ref>{{harvnb|Smith|1856|p=279}}</ref>。同じころ[[ジョージ・ハドー]]の大気循環理論([[ハドレー循環|ハドリー循環]])を独自に再発見している<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/251166/George-Hadley George Hadley] ''[[ブリタニカ百科事典|Encyclopedia Britannica]]''. Accessed 2009-04-30.</ref>。ドルトンの最初の出版物は ''Meteorological Observations and Essays'' (1793) で、後の発見の萌芽がいくつか見られる。しかしその独創的論文に他の学者が注目することはほとんどなかった。2作目の ''Elements of English Grammar'' は[[1801年]]に出版。
 
=== 色覚異常 ===
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{{commons|John Dalton}}
* [[統一原子質量単位]]
* [[太陽変動]] - [[ダルトン極小期|ドルトン極小期]]はドルトンに因んで命名された。
* [[色覚異常]]
* [[デモクリトス]]