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'''中川 イセ'''(なかがわ イセ、[[1901年]]〈[[明治]]34年〉[[8月26日]]{{R|オホーツク凄春記_p35}} - [[2007年]]〈[[平成]]19年〉[[1月1日]])は、[[日本]]の[[政治家]]([[日本の地方議会議員|地方議会議員]])、[[北海道]][[網走市]]の[[博物館網走監獄]]を運営する財団法人網走監獄保存財団の元理事長。
網走市議会の初の女性議員。[[昭和]]中期の網走市において、[[上水道]]敷設による水質改善、人権擁護活動、女性の地位向上などの活動で地域発展に貢献し、「網走開拓の母」と呼ばれた{{R|山形新聞20070119e_p7|中日新聞19970402e_p1}}。政界以前の波乱に富んだ人生でも知られ、網走市民には「中川のばっちゃん」の呼び名で親しまれた。[[1968年]](昭和43年)に[[TBSテレビ]]で放映されたテレビドラマ『[[流氷の女]]』のモデル。本名は中川 いせよ(なかがわ いせよ){{
== 経歴 ==
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中川は鉄工会社である[[JFEエンジニアリング|日本鋼管(後のJFEエンジニアリング]])との交渉のため、市議会の助役と議員1人とともに東京へ向かった。中川が飛行機に乗ったのはこれが初めてであり、離陸に驚く様子を周囲は笑っていたという{{R|道新19931026e_p2}}。
東京で日本鋼管に毎日通った末、ようやく社長と会うことができた{{R|AERA19920331_p58}}。しかし、交渉はやはり費用の問題で難航した。中川は5年払いを申し出たが、それには2億円の担保が必要であり、その担保すら網走にはなかった{{R|AERA19920331_p58}}。そこで中川は、自分の牧場の持ち馬150頭に加えて、同席していた議員の私有地を担保に入れると言い出した。私財を担保にすると聞いて驚く日本鋼管側に対し、中川はさらに「網走の子どもたちの命が、将来がかかっているんだ。こっちも命がけだっ!
この中川の必死の熱意に日本鋼管側が感動し、交渉が成立した。[[1952年]](昭和27年)から着工され、[[1954年]](昭和29年)に給水が開始された。こうして網走市の上水道が実現した{{R|道新19931026e_p2}}。
この功績により中川は、私財を担保にして網走の水道を作った人物として、後々まで語り草になった{{R|AERA19920331_p58|毎日新聞19930614e_p5}}。もっとも後年の中川本人の弁によれば、実際には牧場の馬は私物ではなく預かり物、土地もほとんどはすでに担保に入っていたものであり、それらを担保にすると言ったのは、どうせ交渉が駄目ならとの思いで吹いたホラだったという{{R|道新19931026e_p2}}。
==== 人権擁護活動 ====
[[ファイル:130713 Abashiri Prison Museum Abashiri Hokkaido Japan79s3.jpg|thumb|right
[[1950年]](昭和25年)、初代網走市長である吉田栄吉の依頼により[[人権擁護委員]]に就任し、女性解放運動に携わった{{R|道新19931027e_p2|人権通信19881001_p39}}。自身の遊郭の経験で、[[人身売買]]の悲惨さを身をもって知っていたため、この仕事を通して、人身売買を徹底的に撤廃するための運動に尽くした{{R|道新19921020e_p2}}。女の体を無理やり売らせて利益を取ること、女性をみじめにさせることは、中川にとって許しがたいことであった{{R|道新19931027e_p2}}。
領域外の[[美幌町]]、[[斜里町]]、[[津別町]]にまで出向き、遊郭まがいの営業を行なう業者を廃業に追い込み、あるいは商売替えをさせた。「あいつにかかったら店を潰される」と業者たちに噂され、後をつけられることもあった{{R|道新19931027e_p2}}。女性を巡って刃物を振り回す者{{R|人権通信19881001_p39}}、畳に刃物を突き刺して迫って来る暴力団の者{{R|人権通信19831201_p98}}、中川の喉元に出刃包丁を突きつける者と渡り合うこともあった{{R|人権通信19881001_p39}}。
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日本全国から選りすぐられた17名の女性人権擁護委員による婦人問題委員会(初代会長は評論家の[[大浜英子]])の委員にも選出されて、全国規模の様々な問題にも取り組み、後には同会の副会長も務めた{{R|人権通信19881001_p41}}。
人権擁護委員だった関係で、[[網走刑務所]]の教誨堂での講演も多かった。内容はいつも実話であり、宗教などの高尚な話を聞き飽きた受刑者たちに好評を得た{{R|道新19931027e_p2}}。受刑者たちはしばしば中川を取り囲み、議員
[[1963年]](昭和38年)まで人権擁護委員を務めた後、[[1966年]](昭和41年)にはこの人権擁護活動により、[[褒章#藍綬褒章|藍綬褒章]]を受章した{{R|主婦と生活19660901_p220}}。同年の藍綬褒章受章者の内、女性は中川1人であった{{R|女性自身196606_p248}}。[[1971年]](昭和46年)には[[宝冠章|勲五等宝冠章]]を受章し{{R|網走市歴史年表}}、2度の[[法務大臣]]表彰を受けた{{R|ニッポン女傑伝_p86}}。全国的に人権擁護委員に女性を登用するようになったのは中川がきっかけだったとの声もある{{R|オフィス夢実子20150211_p14}}。
多くの公職を務めた中川にとって、この人権擁護活動は最も精神的な負担が大きかったが、それだけにやりがいを感じる仕事でもあった{{R|人権通信19881001_p39}}。他の公職を辞職するときもさほど感傷を感じなかったものの、人権擁護運動の辞表を書くときには、「涙を堪えることができなかった」と後年に語った{{R|人権通信19881001_p42}}。
==== 向陽ケ丘病院の誘致 ====
網走市立向陽ケ丘病院(後の[[北海道立向陽ケ丘病院]])の誘致の際には、中川は当時の[[北海道知事]]である[[田中敏文]]のもとへ請願に訪れていた。その際にはまだ、ほかの市からの請願はなかった。しかし中川の請願を知るや、ほかの市も猛烈な誘致運動を始め、やがて中川より後に請願した市に許可が下りた。これに憤慨した中川は再び田中を訪ね、「私が一番先に願い出たのに、あっちの運動が激しいからそっちにするっていうのはどうしてか、女だからってバカにするのか
==== 自民党道連婦人部長 ====
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=== 引退 ===
[[ファイル:130713 Abashiri Prison Museum Abashiri Hokkaido Japan04n.jpg|thumb|right
[[1975年]](昭和50年)、数えで75歳を迎えたことを機に市議会を引退。周囲からは引き止められたが、自身は「引き際が大事」と語った{{R|道新19931025e_p2}}。
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同2007年[[1月20日]]に網走市内で市民葬が行われ、前述の武部勤、[[新党大地]]代表の[[鈴木宗男]]、当時の天童市長の[[遠藤登]]らが列席した{{R|観光物産交流都市_山形県天童市|道新20070121m_p33}}。天童市出身ではあるが、「天童は私を産んでくれた場所、網走は私を育ててくれた場所」と生前に語っており{{R|オフィス夢実子20150211_p19}}、遺志に基いて、墓碑は網走市桂町の弘道寺にある{{R|北の墓20140615_p271}}。同2007年、30年以上勤めた人権擁護活動に対し、[[従五位]]の特旨叙位が贈られた{{R|道新20070302m_p29}}。
天童市の市制施行50周年にあたる翌[[2008年]](平成20年)、天童市荒谷小学校に、中川の功労を称えるための顕彰碑が建立された{{R|荒谷小_中川イセ_p2}}。碑には「自分の苦労を荒谷の子供たちにはさせたくない
== 人物 ==
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学歴は尋常小学校4年のみで、[[高等小学校]]へは進学していないが、生家を出た後に小学校教師の家で奉公した際に、この教師に勉強を教わっており、中川はこの教師を後々まで恩師と仰いだ{{R|ニッポン女傑伝_p87}}。自民党道連婦人部長に就任して秘書がついた際、秘書は中川が文盲のために自分が必要だと思っていたところ、実際は英語以外は難なくこなしていたので驚いたという{{R|オホーツク凄春記_p206|オホーツク凄春記_p208}}。ただし字が下手だったため、書類は秘書がこなしていた{{R|オホーツク凄春記_p208}}。
性格は豪放磊落{{R|読売新聞20070103m_p29}}、間違ったことを嫌うが、それでいて「どんなことにも理由があるから」といって、相手を許し寛容に対処した{{R|山形新聞20070119e_p7}}。辛酸をなめて逆境と戦い続けただけに、弱者へは常に温かく接した{{R|女性情報199808_p67}}。講演や網走監獄保存財団で長く関った網走刑務所の囚人たちについては「ほんとうに悪い奴は塀の外にいる。塀の中にいる人たちで、真のワルと思ったのに会ったことがない
気さくで面倒見の良い性格から、網走市では「中川のばっちゃん」と呼ばれて親しまれた{{R|道新20070103m_p39}}。網走市議会の席でさえ議員たちに「ばばあ」と呼ばれ{{R|婦人倶楽部195907_p142}}、議事録にも中川のことが「ばっちゃん」と書かれた{{R|人権通信19831201_p90}}。趣味道楽は持たず、強いて言えば人の世話が趣味であった{{R|ニッポン女傑伝_p91}}。晩年に十分な財産を築いた後も、決して贅沢をすることはなかった{{R|ハローワーク通信1992_p2}}。
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こうした武術の腕前により、牧場で馬喰を務めていたときも、荒くれ男の多いほかの馬喰たち、あくどい商売をするも馬喰たちも、中川に手出しをしようとはしなかった{{R|オホーツク凄春記_p187}}。人権擁護活動で遊技たちを救い、遊郭の手の者に睨まれた際にも、直接手を出されることはなかった{{R|道新19931027e_p2}}。
後々まで凄腕の武術家として名を馳せ、90歳を過ぎた頃でも「1対1なら男でもぶっ飛ばせる」と豪語していた{{R|道新19921022e_p5}}。1992年に網走市名誉市民の称号を受けた頃にも、黒帯で道場に立っていた{{R|北の墓20140615_p271}}。網走市内には「中川記念武道館」として名前が残されている{{R|至誠館_資料館}}。
=== 家族 ===
夫の中川卓治(父の死後、父の名を継いで中川茂市と改名{{R|オホーツク凄春記_p181}})は柔道道場仲間でもあり、道場が縁で知り合った。酒ばかりでろくに働かない人物であり{{R|主婦と生活19660901_p220|週刊文春19660711_p126}}、そのような夫を妻が懸命に支える夫婦生活であった{{R|オホーツク凄春記_p223}}。晩年は脳卒中で倒れた後{{R|雪と風と青い天_p208}}、[[1962年]](昭和37年)に妻に看取られつつ死去した{{R|ニッポン女傑伝_p91}}。離婚歴があったために結婚当時は連れ子である息子がすでにおり、この息子は父の牧場を継いだ後{{R|オホーツク凄春記_p219}}、2002年に死去した{{R|道新20021207m_p35}}。
実子である娘は、[[1932年]](昭和7年)に夫の同意のもと、里親先から引き取られた{{R|道新19931023e_p2}}。[[1943年]](昭和18年)、中川夫妻が牧場の競馬師にするために引き取っていた養子と結婚して息子を身ごもるが{{R|道新19931023e_p2}}、息子の誕生前に戦争により夫と死別。終戦後に美容師の修行を経て、網走で美容院を開業した。息子が15歳で結核で死去という不幸に見舞われたものの、そのときの主治医の父親と再婚した。[[1985年]](昭和60年)にその後夫が死去した後は、中川のもとに通って朝晩の食事を共にし、母娘2人で山形などを旅行して回る生活を送っていた{{R|白鳩19900815_p27}}。中川の死去の頃にも存命であり、葬儀では喪主を務めた{{R|道新20070103m_p39|読売新聞20070103m_p29}}。
== 評価 ==
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{{Quotation|七十年前に郷里山形から遠い網走の苦界に身をしずめ、その泥沼から自力で這い上がった中川さん。弱い者、虐げられる者のために体を張った男も及ばぬ活躍ぶりは、眼を見張るものがあります。彼女こそは、日本中に声を大にして誇り得る、すばらしい女性だと信じます。|安藤哲郎|{{Harvnb|山谷|1986|loc=カバー}}より引用}}
元網走市議会議長の田村直美<!-- [[田村直美]]は歌手、内部リンク注意 -->は中川の議員活動について「男勝りの気っぷで、時の首相や幹事長にズケズケものを言った。陳情ごとなどで歴代の市長をずいぶん助けました。代議士にも勝る市議会議員でした
北海道を代表する女傑ともいわれ{{R|ニッポン女傑伝_p86}}、元北海道知事の[[横路孝弘]]は、中川を「北海道を開拓した北の女性の代表」と評した{{R|AERA19920331_p57}}。雑誌『北海道味と旅』の編集長を務めた網走出身の[[山本祥子]]は中川を世に紹介し続け、「覚者としての人の味が、一種迫力となって伝わってくる
後述するラジオ番組『涙 流す間もなし 〜流氷の町に生きる女〜』で中川が取り上げられた際、当時の制作担当者は、中川の起用の理由を以下のように語った{{R|月刊民放19871101_p15}}。
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|稲恒明良|「製作者の声」|{{Harvnb|稲恒|1987|p=15}}より引用}}
網走市民にとっては偉人というより「頼りになる隣人」であり、「ばっちゃんを知らない人は網走市民ではない{{R|道新19921022e_p5}}」「北海道で知らない人はいない{{R|浅草200204_p18}}」ともいわれた。藍綬褒章受章時には、「中川を最後に日本の女侠は消えるかもしれない」と言われた{{R|女性自身196606_p248}}。没後には「ばっちゃんは、ただ居るだけで何かを教えてくださる方だった
== メディア ==
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[[1987年]](昭和62年)には、[[北海道放送]]のラジオ教養番組『涙 流す間もなし 〜流氷の町に生きる女〜』で、中川の七転八倒の人生遍歴が紹介され、同年の[[日本民間放送連盟#日本民間放送連盟賞|日本民間放送連盟賞]]の教養部門で最優秀番組に選ばれた{{R|北海道放送四十年_p377|日本民間放送年鑑1988_p585}}。
[[1990年]](平成2年)には網走市民会館で、中川をモデルとした演劇『岬を駈ける女』が上演された。中川も娘とともに観劇した。1500人収容可能な会場が満員となり、通路に座って観劇する客もいた{{R|白鳩19900815_p27}}。
没後の[[2015年]](平成27年)には、天童市在住の女優である[[夢実子]](ゆみこ)主演による朗読劇『激動の一世紀を生きた人生 零(ゼロ)に立つ 中川イセ物語』が網走市で上演され、満席の客席から喝采を浴びた{{R|毎日新聞20150902}}。同2015年12月には第2回公演として、中川の故郷である天童市で{{R|道新20151207}}、[[2016年]](平成28年)9月には[[山形市]]で上演された{{R|山形新聞20160929m_p13}}。
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{
=== 出典 ===
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<ref name="浅草200204_p18">{{Cite journal|和書|author=熊澤南水|date=2002-4|title=心と表現 北の女|journal=浅草|issue=376|page=18|publisher=東京宣商出版部|id={{NCID|AA11673789}}}}</ref>
<ref name="銀嶺水20170601_p4">{{Cite journal|和書|date=2017-6-1|title=ナチュラルウォーター「あばしりの天然水」製造終了について|journal=銀嶺水|issue=35|page=4|publisher=網走市水道部営業経営課|url=https://www.city.abashiri.hokkaido.jp/
<ref name="クロワッサン20170610_p67">{{Cite journal|和書|date=2017-6-10|title=「凜」蛭田亜紗子さん|journal=[[クロワッサン (雑誌)|クロワッサン]]|volume=41|issue=11|page=67|publisher=[[マガジンハウス]]|id={{NCID|AN10260275}}}}</ref>
<ref name="ハローワーク通信1992_p2">{{Cite journal|和書|author=松井治|date=1992|title=中川イセさんに訊く|journal=笑顔で…ね! ハローワーク通信|volume=4|pages=2-3|publisher=北海道商工労働観光部
<ref name="日本馬事会雑誌19430401_p83">{{Cite journal|和書|date=1943-4-1|title=婦人と愛馬|journal=日本馬事会雑誌|volume=2|issue=4|page=83|publisher=日本馬事会|id={{NCID|AN10106843}}}}</ref>
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<ref name="網走市
<ref name="オフィス夢実子20150211_p14">{{Cite web|和書|url=http://katari-geki.up.seesaa.net/image/201412E5A4A2E5AE9FE5AD90E29885E7B6B2E8B5B0E58F96E69D90E69785E8A18CE8A898E29885E5AE8CE68890E78988.pdf |title=イセばっちゃんをたずねて 〜網走脚本取材旅行記〜|accessdate=2016-1-28|author=今田由美子|date=2015-2-11|format=PDF|publisher=オフィス夢実子|page=14|ref={{SfnRef|今田|2015}}}}</ref>
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