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2024年1月10日 (水)

2023年10月25日 (水)

  • 23:552023年10月25日 (水) 23:55 差分 履歴 +95 荒幡狭山丘陵は、地理的には武蔵野台地を古多摩川が武蔵野台地を削り取った田のあった地域(武蔵野国悲田所)で、東山道経由で朝鮮系も渡来した地です。鎌倉幕府成立以前は、村山七党の支配地域、荒幡氏は山口氏分家とされます。鎌倉幕府滅亡期には、小手指ヶ原古戦場の所在から攻められた地、後の戦国期も攻められた地のようです。江戸期、山口氏は、中氷川神社神主家系で命脈を保ったようです。荒幡にも姓は残っています。分家の分家としての伝承では礒田は荒幡村の村長のであった時代もありました。祖父のいとこは多摩湖(都内)湖底に在所、成田(三里塚)に移転し村長となったと聞いています。江戸期狭山丘陵は、久米、荒幡、山口、勝楽寺(母方の在所:狭山湖により山口村に吸収)、金子?(現入間市)などに千人同心が配置されました。千人同心ですので旗本知行地とは異なります。金子村は埼玉所管を不服とし、戦後まで、東京都への移管運動もありました。両親の時代まで東京側に親類多数でしたので無理もありません。狭山茶は狭山丘陵に発するお茶名で都側も作っており、狭山という地名が残るのは都側、狭山市は地名と関係なく統合時に借名したものです タグ: ビジュアルエディター