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諸星団 (会話 | 投稿記録)
m 「無罪の罪」→「無実の罪」
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1631年2月23日生まれ。幼名は久松丸。[[1666年]]2月、父が死去したために同年4月10日に家督を継いで当主となった。そのとき、弟の[[松平近栄]]に3万石([[松江藩#広瀬藩|広瀬藩]])、同じく弟の[[松平隆政]]に1万石([[松江藩#母里藩|母里藩]])を分与している。
 
しかし父・直政の治世末期からすでに始まっていた社会不安や士風の弛緩、さらには財政悪化の兆しなどから藩内で混乱が始まる。その始まりが重臣・[[香西隆清]]の追放事件、次いで大水害による大被害である。これらにより藩内では混乱と財政悪化が隠し切れないものとなり、綱隆は藩札を発行することでこれを切り抜けようとしたが、逆に財政が悪化した。しかも[[1673年]]には綱隆が[[小野隆俊]]の美貌の妻に横恋慕するあまり、彼に無の罪を着せて流罪とするという事件も起こった。後に隆俊は死んだため、松平氏はその怨霊を恐れて推恵社に彼を祀ったが、綱隆は1675年閏4月1日に突如として急死した。[[享年]]45。法号は宝山院。後を四男の[[松平綱近]]が継いだ。墓所は[[松江市]]外中原町の[[月照寺 (松江市)|月照寺]]。
 
あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されたと言われている。