「松平輝高」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
官位の日付
松浸史 (会話 | 投稿記録)
追加
3行目:
[[寺社奉行]]・[[大坂城代]]・[[京都所司代]]・[[老中]]を歴任。先代[[上州]][[高崎藩]]主・[[松平輝規]]の長男。官位は佐渡守、因幡守、右京亮、最終官位は従四位下侍従・右京大夫。輝高死後、子の[[松平輝和]]が家督を相続した。
 
==生涯==
所司代在任中、竹内式部を逮捕した([[明和事件|宝暦事件]])。同年[[老中]]にのぼり、[[安永]]8年、[[松平武元]]死去に伴い老中首座となり勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城[[高崎城]]を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍[[徳川家治|家治]]に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる
 
14 ⟶ 15行目:
*宝暦8年([[1758年]]) [[7月24日 (旧暦)|7月24日]](明和事件)、[[10月18日]]、老中
*[[安永]]8年([[1779年]]) 8月、老中首座・勝手掛。[[12月15日]]、1万石加増。都合8万2千石。
*天明元年([[1781年]]) 7月、国元高崎で一揆発生、[[9月25日]]、現職のまま死去。享年57
 
{{先代次代|[[高崎藩|大河内松平氏(高崎藩3代)藩主]]|1749~1781|[[松平輝規]]|[[松平輝和]]}}
 
[[Category:江戸の大名|まつたいらてるたか]]