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『[[吾妻鏡]]』によれば、[[北条政子]]が御家人を説得するために鎌倉で行った演説で秀康は胤義とともに[[上皇]]に讒言した逆臣として名を挙げられており、[[鎌倉幕府|幕府]]からは京方の中心人物と目されていたことがうかがえる。
京方の大将軍として弟の秀澄とともに[[美濃国]]と[[宇治川]]で幕府軍と戦うが敗北。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて、乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出した。秀康は[[奈良]]に潜伏するが、10月に河内国で捕らえられ、秀澄とともに京で斬られた。
優れた[[歌人]]であった弟の秀能は[[出家]]して許され、後に[[遠島]]された後鳥羽法皇を慕い[[隠岐島]]へ渡っている。
==関連項目==
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