「源頼俊」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
3行目:
[[武士]]のたしなみとされた[[笠懸]]の武芸の初見は[[後冷泉天皇]]期の[[1057年]]([[天喜]]5年)、京都木津河畔の奈良への往還の途次において、[[藤原氏]]の警護を勤めた源頼俊の家来たちによって行われたという記録が残っている。
[[1067年]]
1067年以来、[[清原氏]]の助力を以って衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)”と“閉伊七村山徒を平定し日本の東端(北端)を[[津軽海峡]]まで到達させた、この大規模な一大事業は[[1074年]](延久6年)まで行われ、後に[[延久蝦夷合戦]]といわれた。この戦では頼俊はさしたる恩賞を受けなかったが、その軍事力のほとんどを頼んでいた清原貞衡(真衡)は[[鎮守府将軍]]従五位下に叙せられ、父[[清原武則|武則]]以来、二代に続く鎮守府将軍職への就任を果たしている。その後、帰京した頼俊は[[1081年]]([[永保]]元年)9月24日に御所への直訴により濫妨しようとした[[園城寺]]の僧徒らを朝廷の命により、捕らえるという武功も上げている。その後、[[1086年]]([[応徳]]3年)に頼俊が延久蝦夷合戦での恩賞を求めて記したとされる前陸奥守源頼俊申文写には「前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言、 …依 綸旨召進武蔵国住人平常家、伊豆国●●●散位惟房朝臣、 条条之勤不恥先蹤者也…」と記してあり、
|