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東京府立第四中学(現・[[東京都立戸山高等学校]])などを経て、[[1929年]]に[[東京帝國大学]]の数学科を卒業。ドイツとフランスに留学した。[[1942年]] - [[1967年]]まで東大理学部教授。[[1977年]]まで[[学習院大学]]教授。[[1978年]]、学士院会員に選出。
 
専門は[[整数]]論。後進の育成に定評があり、主な挙げられる弟子に、義弟でもある[[フィールズ賞]]受賞者の[[小平邦彦]]、第一回[[ガウス賞]]受賞者である[[伊藤清]]、佐藤の超関数で知られる[[佐藤幹夫]]などがつといる。このよう挙げら、自分の専門外の分野でも優た弟子を数多く育てた
専門外でも[[代数学]]、[[幾何学]]にも関わり、中学の先輩であり数学者である[[吉田洋一]]と同様、数学史を著しもした。ベトナム平和運動や核廃棄廃絶運動など平和運動にもかかわるなど、数学界を代表する重鎮としてその専門内外での政治的行動が活発でもあったといえる。また、11ヶ国語前後の言語をマスターしていた。
[[老衰]]のため[[2006年]][[6月1日]]に100歳で死去した。最晩年にいたるまで、著書や論文を著した。
 
長男はセールの「数論講義」等を翻訳した[[彌永健一]]。