「本因坊元丈」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
八段昇段
4行目:
[[清水徳川家]]物頭役宮重八郎左衛門の四男として[[江戸]]で生まれる。元の名は'''宮重楽山'''。知得との初対局は、[[天明]]8年(1788年)で、この時元丈14歳、知得13歳で、知得先で楽山12目勝ちであった。[[寛政]]2年(1790年)に知得と十番碁を打ち、知得[[囲碁の手合割|先相先]]で5勝4敗1ジゴ、寛政4年(1792年)以後はほぼ[[互先]]となる。寛政6年(1794年)には四段となり、この時の楽山と知得の棋譜を後の[[関山仙太夫]]は「両雄は珍物」と褒めた。
 
[[本因坊烈元]]は河野元虎を跡目候補に目していたが、寛政7年(1795年)に元虎は没し、寛政10年(1798年)五段で楽山が跡目となり、元丈と改名。この年の[[御城碁]]に初出仕し、七世[[安井仙角仙知|安井仙知]]に先番5目勝ちを収める。寛政12年(1800年)六段。[[文化 (年号)|文化]]元年(1804年)七段上手。文化5年(1808年)に烈元病気のために隠居願いを出すが受けられず、12月に死去するが一門はこれを秘し、翌年に家督相続を許されて十一11世本因坊元丈となる。この後に烈元の死を公表した。その後文化11年(1814年)知得と同時に八段準名人に昇る。[[文政]]2年(1812年)の御城碁での、初出仕の井上安節([[井上幻庵因碩]])五段との二子局黒1目勝ちの碁は、元丈一生のできばえと呼ばれている。
 
知得との御城碁では、寛政12年(1800年)の知得初出仕から、文化12年(1815年)まで、2勝2敗1ジゴ。ジゴは元丈白番であった。
10行目:
元丈の跡目候補には奥貫智策が候補と考えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝したため、戸谷丈和([[本因坊丈和]])を候補と目すようになる。文政2年(1819年)に丈和を跡目とし、文政10年(1827年)に隠居して、丈和に家督を譲る。その後、丈和の名人就位運動にも特に関わらず、酒を楽しみに余生を送った。墓所は[[本妙寺]]で、現在は[[本因坊秀甫]]と同じ墓に葬られている。
 
十三13世[[本因坊丈策]]は、元丈の実子。
 
===著作===
20行目:
==参考文献==
*[[武宮正樹]]『元丈 日本囲碁大系(10)』[[筑摩書房]] (1976年)
*矢田直己『秘譜発掘』[[誠文堂新光社]] 2004年(「元丈・知得八十四番碁研究」を収録)
*囲碁データハウス『本因坊元丈』(PCソフト、元丈の全棋譜226局を収録)
 
25 ⟶ 26行目:
[http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_kisi/meikan_genjo.html 木石庵「本因坊元丈」]
 
[[Category:日本の囲碁棋士|ほんいんほう けんしよう]]
{{生没年[[Category:囲碁棋士|ほんいんほう けんしよう|1775年|1832年}}]]
[[Category:江戸時代の人物|ほんいんほう けんしよう]]
{{生没年|ほんいんほう けんしよう|1775年|1832年}}
 
[[en:Honinbo Genjo]]