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'''教部省'''(きょうぶしょう)は明治初期の[[太政官]]制度のもと、[[宗教]]統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織である。
 
[[1872年]]([[明治]]5年)[[3月14日]]に[[神祇省]]を改組し、[[民部省]]社寺掛を併合する形で設置。[[キリスト教]]の公認、社寺に於ける[[女人結界]]の解除など近代宗教政策を実施する一方で、[[神祇官]]が為し得なかった国民教化を実現する為に[[教導職]]制度を設け、[[三条教則]]による国民教化・[[大教宣布運動]]を行った。国民教化をより具体的に行う為、教導職の全国統括機関である大教院、各県レベルの統括を行なう中教院が設置され、全国の寺社仏閣は全て小教院として組み込まが置かれた。神祇官内に設置された[[宣教使]]の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを受け、当時最大の宗教勢力であった[[仏教]]、特に[[浄土真宗]]勢力の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれたが足並みが揃わず、また当時新進であった神道勢力と旧来よりの勢力を保っていた浄土真宗の深刻な意見対立によって実績が揚がらず、[[浄土真宗]]の大教院離脱を経て、[[1877年]]([[明治]]10年)[[1月11日]]に廃止、機能は[[内務省]]社寺局へ移され、更に[[天理教]]や[[黒住教]]などの新宗教は一般宗教政策として[[文部省]]宗教局に引き継がれることとなった。
 
== 教部省を巡る問題 ==
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== 大教院神殿問題 ==
教導職の全国統括機関であった大教院は東京芝にある[[増上寺]]内に設置された。大教院の設置は仏教主導で行われた事もあり、増上寺の施設献納も自発的なものだったが、神道勢力が主導権を握りはじめると、献納を拒否する動きをみせた。しかし、増上寺の献納は予定通り進められ、なかば強引に増上寺本堂は大教院として召し上げられ、大教院神殿の拝殿として用いられた。更には神殿で行なわれる祭祀に教導職である僧侶の参列と拝礼を義務付けた為に仏教勢力の一部を激しく怒らせる結果となった(又、その反面に幟を掲げるなどして熱烈な祝福を示した僧侶もいた)。その後、仏堂の中に神社が設けられた事に反発した廃仏主義者の旧薩摩藩士によって放火され、旧増上寺本堂は全焼したが神体はかろうじて助け出された。この神体は[[芝東照宮]]に一時奉遷され、神道勢力が新たに設置した[[神道事務局]]の神殿に遷された。
 
== 教部卿など ==