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== 略要・人物 ==
=== 概要 ===
[[幽州]]涿郡([[河北省]][[張家口市]])の人。[[劉備]]とは旧知[[故郷|同郷]]で、その[[幼馴染|竹馬]]の友人だった。『三国志集解』によると、簡雍の[[姓|姓]]は“'''耿'''”だったが、幽州では“簡”と発音されてたので、そのために改姓したという。また、地元の富豪の子息で、劉備の母方の[[いとこ]]に当たるともいわれている。一説では、上谷郡(現在の[[北京]]郊外)の[[太守]]・'''耿況'''([[後漢]]の功臣・[[寇恂]]が最初に仕えた上司)の甥である[[耿純]]([[耿ヒョウ|耿弇]]の従弟で、耿弇・寇恂と共に[[雲台二十八将]]の一人)の末裔といわれる
 
=== 生涯 ===
[[黄巾の乱]]対して劉備が起こに随伴た[[義勇軍]]て、話し相手加わて、たり使者や参謀として活躍を務めたりした。[[曹操]]や[[呂布]]との戦いなどにも参加して、常に劉備に随伴している。しかし、傲慢で無頓着な性格だったため、他人からの反発を買うことも少なくなかった。[[諸葛亮]]に対しても遠慮をしなかったという。しかし、劉備と共に早くから苦楽を共にしていたため、劉備からは重用された。劉備が厳しすぎる禁酒令を出した時は、これを諌めている。『[[三国志演義]]』同様に、『[[三国志 (歴史書)|正史]]』においても劉備が蜀を奪おうとした時の[[成都]]攻めで、[[劉璋]]に降伏を勧める使者として成都に入城した。結果、劉璋を降伏させることには成功したが、ここでも傲慢な態度を出したため、劉璋の家臣団から恨まれたという
 
劉璋を降伏させた功績により、劉備から昭徳将軍に任命されている。
 
=== 禁酒令での逸話 ===
劉備が禁酒令を出した際、簡雍も禁酒令に触れてしまった。これは酒造の器具所有も禁じしているとして告発され者がいめであるある時、簡雍劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、これを真に受けて禁酒令を緩和して、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。