「水谷勝隆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m +年号等
1行目:
'''水谷 勝隆'''('''みずのや かつたか'''、[[慶長]]2年([[1597年]]) - [[寛文]]4年[[5月3日 (旧暦)|閏5月3日]]([[1664年]][[6月26日]]))は、[[常陸国|常陸]][[下館藩]]の第2代藩主。[[備中国|備中]][[成羽藩]]主。[[備中松山藩]]の初代藩主。父は[[水谷勝俊]](勝隆は長男)。母は[[堀田正吉]]の娘。正室は[[酒井家次]]の娘[[寺沢広高]]の娘。官位は従五位下[[伊勢国|伊勢]]守。
 
幼名は弥太郎。慶長11年([[1606年]]、父の死去により後を継いだ。[[寛永]]16年([[1639年]]6)6月に備中成羽藩5万石へ移封され、寛永19年([[1642年]]7)7月に備中松山5万石へ移封された。有能な人物で、藩政においては交通路や水路の整備、[[玉島新田]]などの新田開発や検地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、寺社仏閣の造営などに務めて藩政の基礎を固めた。また、[[池田輝興]][[改易]]時の[[播磨国|播磨]][[赤穂城]]在番や[[寺沢堅高]]改易時の[[唐津城]]在番を務めた。1664寛文4(1664年)閏5月3日、松山にて死去し、後を子の[[水谷勝宗]]が継いだ。享年68。法号:大竜寺殿鉄山全性居士。墓所:[[岡山県]][[高梁市]]和田町の定林寺。