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[[1187年]](文治3)、鎌倉の承認なしに官職を得たため失脚し、全国に指名手配されていた[[源義経]]が奥州藤原氏の本拠地・[[平泉]]に潜伏していたことが発覚した。その引渡しを拒んだ秀衝は、子息の[[藤原泰衡|泰衡]]・[[藤原国衡|国衡]]・[[藤原忠衡|忠衡]]の三人へ、義経を擁護し、鎌倉と対決するよう遺言して、その年の10月に没した。[[1188年]]、頼朝は、義経追討の[[院宣]]を二回に渡って獲得し、奥州政権へ圧力をかけるが、優柔不断の泰衡は応じず、業を煮やした頼朝は、今度は泰衡追討の宣旨を朝廷に奏上した。
 
すると泰衡は、[[1189年]]4月30日、平泉高館の義経を襲撃し、義経主従を全員殺害した。同時に泰衡と反目する忠衝も討たれた。泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく義経を討伐したことを口実として奥州征伐を奏上した。これに対し[[後白河天皇|後白河法皇]]は院宣の発給を拒否する。これに対し、[[大庭景]]は奥州藤原氏は源氏の家人であるので、家人の誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が絶対であるのだから朝廷の意向は無視しても良いと主張する。頼朝はこれを受けて全国に動員令を発し、同年7月18日公称28万の大軍を率いて出陣した。[[畠山重忠]]を先陣とした頼朝の大手軍は白河方面へ、[[比企能員]]・宇佐美実政が率いる[[北陸道]]軍は[[越後]]方面へ、[[千葉常胤]]・[[八田知家]]が率いる[[東海道]]軍は[[常陸国|常陸]]方面へそれぞれ進軍した。
 
奥州側は国衝が2万の兵を率いて、阿津賀志山の全面に二重の堀を設け迎撃体制をとり、泰衡自身は[[多賀城]]の国府にて全軍の総覧に当たった。8月7日から同月10日にかけての'''[[阿津賀志山の戦い]]'''において国衝の奥州軍は大敗し、泰衡は平泉方面へ退却した。同月13日に頼朝は多賀城に到着し、常陸方面から来た東海道軍と合流した。