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'''巫臣'''(ふしん、生没年不詳)は[[中国]][[春秋時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の[[政治家]]。[[荘王 (楚)|荘王]]に仕えた。申公。[[
==略歴==
===夏姫との出会い===
[[紀元前598年]]、[[楚 (春秋)|楚]]の[[荘王 (楚)|荘王]]は、[[夏徴舒]]の乱に乗じて[[陳]]を攻め滅ぼした。その際に、絶世の美女である[[夏姫]]を手に入れ、これを妾にしようとしたが、巫臣が「君は夏徴舒の罪を討たれたのに、夏姫を迎え入れれば色を貪り美人を得るための戦いであったことになります」と諌めたので荘王も思いとどまった。すると将軍の[[子反]](公子側)が夏姫を娶ろうとしたが、巫臣は「夏姫は不吉です。叔父を死なせ、霊公を弑し、その子である夏徴舒を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。」と諫めたので子反も思いとどまった
楚の名家屈氏のうまれ。若くして[[楚 (春秋)|楚]]の[[荘王 (楚)|荘王]]に目をかけられ、国防の要である申県の長官や外交官を歴任した。後、[[楚]]から亡命して[[晋 (春秋)|晋]]に仕えた。当時の楚の重臣である子反、子重は[[晋 (春秋)|晋]]へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにするように、[[共王 (楚)|共王]]に献策したが、無能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられず、有能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられる。無用である、と退けられた。そのとき楚に残った屈氏一族が子反、子重によって殺されている。巫臣は子反、子重へ復讐すると書簡を送った。晋公に呉と国交を結ぶ事を進め、中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯で始めて呉と国交を結んだ。用兵や戦車を御する技術を伝え、巫臣の子を外交官として呉に仕えさせた。この事が後に呉国が強国になった一因となった。呉が強国となることで楚にとっての脅威となり、当時楚と覇権を争っていた晋にとって見事に当たった策だったと言える。▼
===夏姫を妻に===▼
その後荘王は、夏姫を連尹の[[襄老]]に与えたものの、[[紀元前597年]]の[[邲の戦い]]にて、[[襄老]]は戦死してしまう。
巫臣は夏姫のもとへ人をつかわして、「故郷の[[鄭]]に帰りなさい。あらためて私が妻に迎えましょう」と言った。
▲==夏姫を妻に==
▲[[紀元前598年]]、[[楚 (春秋)|楚]]の[[荘王 (楚)|荘王]]は、[[夏徴舒]]の乱に乗じて[[陳]]を攻め滅ぼした。その際に、絶世の美女である[[夏姫]]を手に入れ、これを妾にしようとしたが、巫臣が「君は夏徴舒の罪を討たれたのに、夏姫を迎え入れれば色を貪り美人を得るための戦いであったことになります」と諌めたので荘王も思いとどまった。すると将軍の子反が夏姫を娶ろうとしたが、巫臣は「夏姫は不吉です。叔父を死なせ、霊公を弑し、その子である夏徴舒を殺させ、孔寧と儀行父を出奔させ、陳を滅ぼしました。」と諫めたので子反も思いとどまった。荘王は夏姫を連尹の[[襄老]]に与えたものの[[紀元前597年]]、[[邲の戦い]]がおこり、[[襄老]]は死んだ。
荘王の死後の[[紀元前589年]]、[[斉 (春秋)|斉]]が晋と対立する様になったのを受けて、巫臣は、楚が斉と同盟する為の使者に任じられる。これを捉えて巫臣は全財産や大半の族人と共に楚を出国し、鄭へと入った。
▲巫臣は夏姫のもとへ人をつかわして、「故郷の[[鄭]]に帰りなさい。あらためて私が妻に迎えましょう」と言った。巫臣は鄭の[[襄公 (鄭)|襄公]]に夏姫を迎え入れたいと申し出、襄公はこれを許した。
巫臣は鄭の[[襄公 (鄭)|襄公]]に夏姫を迎え入れたいと申し出、襄公はこれを許した。
そして、ここで使者の役目を放棄し、夏姫や族人達と共に一度は斉に入ったが、斉が[[鞍の戦い]]で晋に敗退したのを受けて、亡命先を晋へと変更した。そこで[[郤至]]を頼り、邢の大夫として[[郤克]]や晋の重臣達に重用された。
===歴史を変えた復讐===
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その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い[[叔向]]の妻になった。
==巫臣を題材にした小説==
*[[宮城谷昌光]]『夏姫春秋』海越出版社,1991年
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