「バルダッサーレ・ガルッピ」の版間の差分

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[[1740年]]に救貧院(Ospedale dei Mendicanti)の音楽監督に任命され、[[1748年]]からは[[聖マルコ大寺院]]の楽団員として働き、1762年には同寺院の楽長に就任した。生涯のほとんどをヴェネツィアで過ごしたが、[[1741年]]から[[1743年]]まで[[ロンドン]]で、[[1765年]]から[[1768年]]までサンクトペテルブルクのエカチェリーナ大帝の宮廷にも勤めた。
 
ガルッピの最初の[[オペラ・ブッファ]]《ブレンタの桃源郷''L'Arcadia in Brenta'' 》([[1749年]])は、[[劇作家]][[カルロ・ゴルドーニ]]との最初の共同制作であり、これ以後ゴルドーニとガルッピは、数多くのオペラを創り出している。それらのオペラは非常に人気があり、1754年の《田舎哲学者''Il filosofo di campagna'' 》はとりわけ成功を収めた。ゴルドーニの戯曲『月世界''Il mondo della luna'' 』は、後に[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]を筆頭に多くの作曲家が曲付けしたが、最初にこれに作曲したのはガルッピである。
 
ガルッピは後年、オペラ作曲の筆がいささか衰えた。オペラ作品以外では、たくさんの[[チェンバロ]]曲と、いくつかの[[オラトリオ]]が目立っている。ガルッピは当時の[[ヴェネツィア]]楽壇では最も有名で、最も尊敬された人物であった。詩人の[[ロバート・ブラウニング]]には、「ガルッピのトッカータ」と題する詩作品がある。[[ヴィヴァルディ]]の少なくとも二つの宗教曲(《主を怖れるものは幸いなり''Beatus Vir'' 》と《主は言われた''Dixit Dominus'' 》)は、誤ってガルッピ作曲と伝えられてきた。ほかにもそのような作品があるに違いないとする音楽学者もいる(Janice Stockigt)。