「サンディエゴ計画」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
13行目:
===襲撃===
====1915年====
*予告された2月20日には武装蜂起は起こらなかったが、 "Manifest to the Oppressed Peoples of AmericaAmerica(抑圧されしアメリカ人民への宣言)" と題する声明文(マニフェスト)が発表された。内容的には「サンディエゴ計画」の繰り返しに、社会主義的イデオロギー色の濃い主張を追加したものであったが、この時期すでにウェルタは力を失っており(スペインに亡命中)、計画の発覚によりアメリカ側が警戒措置をとったこともあり、声明文を出すのが精一杯だったと考えられている。
*しばらくの間なんの動きもみられず、警戒心が緩んできた7月、[[リオグランデ川]]両岸地域においてメキシコ革命軍の[[ベヌスティアーノ・カランサ]]将軍を支持する二人の南テキサス住民、アニセト・ピサーニャとルイ・デラロザによる連続襲撃事件が発生した。国境地帯の輸送や通信を分断しながら白人を殺害するゲリラ戦法がとられた。
*これに呼応して米陸軍はこの地域に[[ジョン・J・パーシング]] (John J. Pershing) 将軍率いる増援部隊を派遣したが、神出鬼没のゲリラ戦法に有効な手立てを持ち得なかった。。
*既にカランサはウェルタに対抗する勢力の支持を得て[[ソノラ州]]で1913年には臨時政府樹立宣言を行っており、さらに1914年7月にはウェルタ本人は退陣してスペインに[[亡命]]し、同時にカランサが大統領に就任(米国政府は未承認)していた。これを機に勢力を拡大することを狙ってこのサンディエゴ計画に便乗したとされる。
*果たしてこの1915年の襲撃は、10月に米国がカランサをメキシコの大統領として事実上承認することでぴたりと停止した。
 
====1916年====
*1916年1月になり、ウェルタ派に対抗していたもう一つの勢力の旗頭である[[パンチョ・ビリャ|フランシスコ(パンチョ)・ビリャ]]が、カランサを米国がメキシコ大統領として承認したことに不満を持ち、メキシコ領内[[チワワ州]]で米国人15人を殺害。3月には米領内へ侵入しニューメキシコ州コロンバス (Columbus) で破壊活動を行った。