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{{武士/藩|[[越後国]][[越後長岡藩|長岡藩]]主}}
{{武士/氏族|[[牧野氏]]}}
{{武士/父母|父:[[牧野貞通]]、母:本庄氏<br>養父:''[[牧野忠敬]]''}}
{{武士/兄弟|牧野忠敬、[[牧野貞長]]、'''牧野忠利'''、<br>[[牧野忠寛]]}}
{{武士/妻|正室:逸君}}
{{武士/兄弟|正室牧野忠敬、[[牧野貞長本多康桓]]の娘・逸君}}
{{武士/子|養子:''[[牧野忠寛]]''}}
{{武士/終了}}
 
1734享保199(1734年)9月21日、[[日向国|日向]][[延岡藩]]主・牧野貞通の子として生まれる。[[延享]]5年([[1748年]]、第6代藩主で長兄の牧野忠敬が死去したため、後を継いで藩主となり、12月に従五位下、駿河守に叙任する。学問や絵画など教養に優れた名君として将来を嘱望されていたが、生来から病弱だったため、兄同様に1755宝暦5年(17557)7月24日に22歳の若さで他界した。
 
後を養子の忠寛が継いだ。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の済海寺。のち[[新潟県]][[長岡市]]の悠久山。