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{{武士/父母|父:[[内藤政恒]]、母:[[内藤政民]]の娘<br>養父:''[[内藤政敏]]''}}
{{武士/妻|正室:[[阿部正備]]の娘}}
{{武士/子|娘([[内藤政潔]]正室)、娘(堀内宗平室)<br>養嗣子:'''''[[内藤政憲]]'''''}}
{{武士/終了}}
== 略歴 ==
安政4年(1857年)7月、第11代藩主・政恒の
[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では、[[譜代大名]]の立場から[[奥羽越列藩同盟]]に参加して、旧幕府軍の一員としてわずか12歳であるにも関わらず、自ら戦場に立って奮戦するほどの勇猛さを見せつけて、一時は新政府軍を大いに打ち破った。だが、やがて新政府軍の物量、そして小藩さながらの実力の浅さから敗れてしまい、降伏を余儀なくされる。戦後の明治元年(1868年)12月、政養は新政府に抵抗したとして養子の政憲に[[家督]]を強制的に譲らされた上で隠居することとなり、所領も1000石削減の1万4000石に減らされた。
明治44年(1911年)7月に死去。享年55。墓所は[[神奈川県]][[鎌倉市]]の光明寺。
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