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同じ郷里の医師、[[建部清庵]]に師事し、早くから[[医学]]・[[語学]]に才能を示した。後に、建部清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の[[私塾]]・[[天真楼]]に学ぶ。[[1788年]]([[天明]]8年)、蘭学の入門書『[[蘭学階梯]]』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。後年には、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、『[[重訂解体新書]]』を記している。江戸に、[[私塾]]・[[芝蘭堂]]をひらき、多くの人材育成に当たった。玄沢の弟子としては、[[宇田川玄真]]、[[稲村三伯]]、[[橋本宗吉]]、[[山村才助]]の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた。また、毎年芝蘭堂で「[[オランダ正月]]」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いており、[[ロシア]]へ漂流した[[大黒屋光太夫]]なども招待された。
 
玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出され、「西の頼家、東の大槻家」(ちなみに、頼家は[[頼山陽]]で有名)ともいわれた。玄沢の息子に漢学者の[[大槻磐渓]]、孫に国語学者の[[大槻文彦]]がいる。[[養賢堂]]学頭の[[大槻平泉]]も同じ一族の出身。
 
[[仙台藩]]の依頼で[[ロシア]]船で送り返された同藩の漂流民に事情聴取した際の記録『[[環海異聞]]』なども残されている。