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'''平岡 瑤子'''('''ひらおか ようこ''' [[1937年]][[2月13日]] - [[1995年]][[7月31日]])は[[三島由紀夫]]の未亡人。
 
画家[[杉山寧]]・元子夫妻の長女。幼時より[[能]]に親しんで育つ。[[日本女子大学]][[英文科]]在学中、[[1958年]][[6月1日]]に三島由紀夫と[[見合い]][[結婚]](媒酌人は[[川端康成]])。[[ジョン・ネイスン]]「三島由紀夫―ある評伝」によると、[[同性愛者]]の三島はもともと結婚を考えていなかったが、[[癌]]と診断された母倭文重を安心させるために取り急ぎ瑤子と結婚したという(癌については、のち誤診であることが判明)。瑤子を選んだ理由について、芸術家の娘であり、芸術家に対して何ら幻想を持っていないからだと三島は語った。又父親が高名な画家ではあっても杉山家は取り立てて誇るほどの家柄でなく平岡家が[[コンプレックス]]を抱く必要がなかった点や、小柄な三島よりも瑤子がさらに小柄だった点も挙げられる。
 
表向き瑤子は三島と仲睦まじく、数度にわたる三島の世界一周旅行に随行し、自宅で[[パーティ]]を開くのが好きな三島に調子を合わせて西洋風の女主人の役を務めるなど、家庭面で三島を支え、[[1959年]][[6月2日]]に長女紀子を、[[1962年]]1月に長男威一郎を出産したが、蔭では結婚後も頻繁に続行する三島の[[同性愛]]関係に厳しく警戒の目を光らせていた。[[野坂昭如]]「赫奕たる逆光 私説三島由紀夫」によると、瑤子は三島と[[レストラン]]で食事中、衆人環視の中で三島をヒステリックに面罵したこともあったという。この間、[[1960年]]には[[スポーツカーレース]]への参加を希望したものの、三島の許可が得られず断念したこともある。