「マーカス・ガーベイ」の版間の差分

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1887年ジャマイカのセント・アンに生まれる。キングストンで印刷工として働いた後、1912年にロンドン(イギリス)に向けて発つ。
そこで[[デュセ・モハメド・アリ]]の発行する新聞社に勤務しながら、[[ブッカー・T・ワシントン]]の著作を読みふけり、時には[[ハイド・パーク]]のスピーカーズコーナーに立ち、演説をした。
1914年にジャマイカに帰国。[[世界黒人開発協会アフリカ社会連合]](UNIA-ACL)を設立する。
 
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[[1916年]][[5月9日]]、ガーベイは[[ニューヨーク]]市で最初の講演を行い、その後、38州で講演ツアーを行う。これと同時に、黒人の地位を向上させるプログラムを開発するビジネスに着手し、[[世界黒人開発協会アフリカ社会連合]](UNIA-ACL)の本部をニューヨークに移転させる。貿易会社[[ブラック・スター・ライン]](Black Star Line)社を設立し、事業を拡げ、企業家としての活動を開始する。
 
1920年8月には、UNIAの会員は400万人に達していた。8月1日、UNIAの国際大会がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、ガーベイの演説を聞くために、25,000人以上の人々が詰めかけた。

1920年、黒人はアフリカに故国を持つべきという信念で、ガーベイは[[リベリア]]に大学、工場、鉄道を建設して発展させようと意図したが、1920年代半ばにはヨーロッパ列強のリベリアへの関心から中止させられる。1922年にはKKK([[クー・クラックス・クラン]])と会談し、アメリカは白人の社会で、アフリカが黒人の社会であると論じたことで、アメリカ衆国の一部の黒人知識層からはペテン師扱いされることになる。
 
この後、ブラック・スター・ライン社の不正会計の疑いで、郵便詐欺罪で告発される。これにはアメリカ合衆国の政治的な意図があったとも言われる。1925年にガーベイは投獄されたが、1927年11月には釈放され、そのままジャマイカへ強制送還される。
 
1921年頃、ガーベイは、「民族純化」への信念に傾き、[[ウオレン・G・ハーディング]]が自らを混血であることを否定した演説を賞賛した。彼は[[W・E・B・デュボイス]]に対して強い敵意を持っていなかったが、以前にブラック・スター・ラインを批判されたことで仲は悪く、1920年代後半には、デュボイスはガーベイのことを、「精神異常者か反逆者」と呼ぶほどに敵意をむき出しにするようになった。後にガーベイはデュボイスを起訴するのだが、このことは、ガーベイと[[全米黒人地位向上協会]]との相容れない関係に通じた。それでもなお、デュボイは[[汎アフリカ主義]]の有力な支持者であった。
 
その後ガーベイは、1929年、ジャマイカで政党PPPを設立。労働者のためのジャマイカでの初の政党となる。1935年にはロンドンへ行き、死ぬまでの5年間を過ごす。晩年のガーベイはさらに右傾化し、[[ファシズム]]への共感を言い表し、アフリカでの積極的に取り入れるよう推奨したが、死ぬ直前には、ナチよりもイギリスとの連帯を表明した。
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1964年11月、ジャマイカ政府は、ガーベイをジャマイカの国民的英雄に選出した。
 
==異なる視点==
 
1921年頃、ガーベイは、「民族純化」への信念に傾き、[[ウオレン・G・ハーディング]]が自らを混血であることを否定した演説を賞賛した。彼は[[W・E・B・デュボイス]]に対して強い敵意を持っていなかったが、以前にブラック・スター・ラインを批判されたことで仲は悪く、かった。1920年代後半には、デュボイスはガーベイのことを、「精神異常者か反逆者」と呼ぶほどに敵意をむき出しにするようになった。後にガーベイはデュボイスを起訴するのだが、このことは、ガーベイと[[全米黒人地位向上協会]]との相容れない関係に通じた。それでもなお、デュボイは[[汎アフリカ主義]]の有力な支持者であった。
 
== ラスタファリズムとの関係 ==