「祖心尼」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
9行目:
浪人となった一家は[[江戸]]に身を寄せ、おなあは暇に任せて多くの書物に触れ、この時期に多くの知識と教養を得た。その後、この教養を見込まれ、おなあの叔母で、当時の[[大奥]]を取り仕切っていた[[春日局]]から、自分の補佐役を依頼され、大奥に出仕するようになった。
 
大奥に入ったおなあは、やがて、雑華院で得た経験を生かし、大奥の女たちに[[禅]]の心を説いて聞かせるなど、女中の意識向上に尽力した。また、家光春日局に乞われて(渋々であったという)自身[[側室]]となり、孫娘である[[自証院|お振の方]]、を春日局の養女として大奥に入れ、家光の[[側室]]とした。
 
このような日々を送るうち、おなあは[[将軍]][[徳川家光]]の勧めもあって、[[1643年]]に[[出家]]し「祖心尼(そしんに)」と名乗った。