「マシュー・ロック」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[エグゼター]]大聖堂の少年聖歌隊員として音楽活動に入り、[[オルガン]]教育もそこで受けた。[[オーランド・ギボンズ]]の兄エドワードに師事。オーランド・ギボンズの息子[[クリストファー・ギボンズ|クリストファー]]とも知り合いとなり、その後も2人はしばしば協力関係を結んだ。エグゼター大聖堂のオルガニストの称号を得る。
 
[[イングランド内戦]]の時期に、皇太子時代の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]と知り合ったが、チャールズ2世の[[ネーデルラン]]における亡命宮廷に仕え、その地で声楽曲を作曲していたかどうかは疑わしい。[[王政復古]]後はチャールズ2世の寵臣となる。
 
[[1653年]]に、[[ポルトガル]]大使の歓迎式典のために、マスク《キューピッドと死神》をクリストファー・ギボンズと共作する。ジェームズ・シャーリーの台本によるこの作品は現存しているものの、最初の英語オペラと見なされている《ロードス島の攻囲 The Siege of Rhodes》([[1656年]]~)は、あらかた散逸していて現存しない。《ロードス島の攻囲》は、ヘンリー・クックら他の数人の作曲家との共作であり、台本作家はウィリアム・デイヴナント卿であった。
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一方、トマス・シャドウェルの台本による《テンペスト The Tempest》([[1674年]]~)は現存している。この作品もまた共作で、[[アリア]]のいくつかはジョン・バニスターが、マスクのいくつかは[[ペラム・ハンフリー]]が担当している。しかしながら部分ごとの首尾一貫性があり、全体像はいわゆる「[[劇付随音楽]]」として、ロックの手でまとめられている。この作品で記憶に残りやすいのは、「序幕の音楽(カーテン・テューン)」であり、ロックは[[クレシェンド]]を(音楽史上で)初めて使って、嵐の模倣を表した。
 
[[オリヴァー・クロムウェル]]が[[護国卿]]だった時期は、世俗音楽の作曲家にとってまことに怪しからぬ時期であった。ロックにとっては、そのうえ危険な時期でもあった。[[カトリック教会|カトリック]]に[[改宗]]していたからである。ロックは、[[ヘンリー・パーセル]]の父親やおじと親交があり、パーセル少年がロックを身近に知っていたことは間違いない。重要な出版人ジョン・プレイフォードとも親交があった。[[1650年代]]の中ごろに、[[ヘレフォードシャー]]出身の1歳年下の女性と結婚した。
 
ロックの経歴は、[[1660年]]の王政復古とともに盛んになった。チャールズ2世は[[弦楽器]]に熱狂したため、ロックを新設された[[弦楽合奏]]団の作曲家と、私的な宮廷作曲家に任命した。一方のロックは、[[戴冠式]]の音楽を作曲しているが、その器楽パートに、伝統的な王宮吹奏楽団(His Majesty's Sagbutts and Cornetts)を利用している。加えてロックは、[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ドラーギ]]と争って、王妃[[キャサリン・オブ・ブラガンザ|キャサリン]]の専属オルガニストの地位を手に入れた。チャールズ2世のカトリック贔屓から、敬意をもって大幅に好意的な態度をロックに示したということもあり得なくない。しかしながらこれは、非カトリックの作曲家たちの宿怨を買うという弱みにもなった。おそらく反対陣営の肩入れで、ロックは[[博士号]]を取得し損なったと思われる。
 
ロックの初期作品は、[[ジョン・コプラリオ|コプラリオ]]やギボンズ、[[ウィリアム・ローズ]]らが示してきたような、[[ヴィオラ・ダ・ガンバ|ガンバ]]・[[コンソート]]のための[[幻想曲|ファンタジア]]という古い伝統に完全に依拠している。とはいえチャールズ2世は、この古臭い[[ポリフォニー]]様式に決して興味があったわけではなく、ヨーロッパ大陸のリズミカルな[[舞曲]]にすこぶる熱狂した。実際ロックは喜んで国王の需要に応えたが、外国人の宮廷作曲家が増え始めると、決まって次第に怒りっぽくなった。