「リリ・デ・アルバレス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hhst (会話 | 投稿記録)
m +fr:
Hhst (会話 | 投稿記録)
m 外部リンク追加
3行目:
リリ・デ・アルバレスは[[1926年]]に[[ウィンブルドン選手権]]の女子シングルス決勝に初進出したが、最初の時は[[キャスリーン・マッケイン・ゴッドフリー|キティ・ゴッドフリー]]に 2-6, 6-4, 3-6 で敗れた。[[1927年]]と[[1928年]]のウィンブルドン決勝では[[ヘレン・ウィルス・ムーディ|ヘレン・ウィルス]]に2年連続で敗れ、結局ウィンブルドンの女子シングルスでは3年連続準優勝に終わってしまう。ウィンブルドンで2度目の準優勝になった[[1927年]]、デ・アルバレスは[[全仏オープン|全仏選手権]]の混合ダブルス部門で[[ビル・チルデン]]とペアを組んだ準優勝があり、[[ジャン・ボロトラ]]&[[マルグリット・ブロクディス]](ともに[[フランス]])組に敗れている。[[1929年]]の[[全仏オープン|全仏選手権]]で、デ・アルバレスは[[オランダ]]の[[コルネリア・ボウマン]]とペアを組み、ようやく[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]のタイトルを獲得した。これは[[スペイン]]のテニス選手が獲得した最初のグランドスラム・タイトルである。その後のアルバレスは、[[全仏オープン|全仏選手権]]の女子シングルスで[[1930年]]・[[1931年]]と2年連続ベスト4進出があった。[[1930年]]の準決勝では[[ヘレン・ジェイコブス]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])、[[1931年]]の準決勝では[[シリー・オーセム]]([[ドイツ]])に敗れ、彼女はとうとう女子シングルスで優勝できなかった。
 
その後、アルバレスは[[フランス]]のヴァルデーヌ伯爵と結婚して「ヴァルデーヌ伯爵夫人」(''Comtesse de la Valdéne'')になり、しばらくフランスに住んだ。しかし1939年にひとりっ子を失い、夫婦はすぐに離別してしまう。アルバレスは離婚後すぐに[[スペイン]]に帰り、以後はスペインの首都[[マドリード]]で暮らした。帰国後はスペインで[[フェミニズム]]の運動に参加したこ、著名なジャーナリストしてある。<!--英語版ウィキに書いてあったが、どの本を参考文献に活動したのか?-->
 
リリ・デ・アルバレスの生涯の最晩年に、[[アランチャ・サンチェス]]と[[コンチタ・マルチネス]]の2人が“スペイン女子2強豪”として活躍を始める。サンチェスは[[1989年]]の[[1989年全仏オープンテニス|全仏オープン]]に17歳5ヶ月で初優勝を飾り、4大大会女子シングルスに4勝を挙げて、スペイン最大の女子テニス選手に成長した。[[コンチタ・マルチネス]]は[[1994年]]の[[1994年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子シングルス優勝者となり、66年前に(3年連続で)アルバレスが届かなかった夢を実現させた。彼女たちの先駆者となったリリ・デ・アルバレスは、[[1998年]][[7月8日]]に[[マドリード]]で93歳の長寿を全うした。
15行目:
* マーティン・ヘッジズ著『コンサイス・テニス辞書』(英語、1978年刊、ISBN 0831717653、メイフラワー・ブックス)
== 外部リンク ==
* [http://www.elmundo.es/1998/07/09/opinion/09N0017.html エル・ムンド紙] (スペイン語) 1998年7月9日付、アルバレスの訃報。
* [http://tennis.quickfound.net/history/helen_wills.html テニス] (英語) ウィンブルドン決勝の対戦相手、[[ヘレン・ウィルス・ムーディ|ヘレン・ウィルス]]が[[1928年]]に著した自伝。抜粋をオンラインで読める。
[[Category:スペインのテニス選手|あるはれす りり]]