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'''吉岡 直綱'''(よしおか なおつな、生没年不詳 没年は1604年という説がある)は剣客。通称清十郎。号は憲法(拳法、憲房とも)。[[吉岡直重]]は弟、[[吉岡重賢]]は末弟(従弟の説もある)に当たる。
 
[[吉岡直元]]を祖とする[[足利氏|足利将軍家]]の剣術師範を務める[[剣術]][[吉岡流]](京八流)の三代目[[吉岡直賢憲法]](吉岡直賢)の嫡男として生まれ、[[祇園藤次]]に兵法を学んだ。後年、吉岡家の四代目当主となったが、[[慶長]]9年([[1604年]])に[[宮本武蔵]]と試合をして重傷を負ったとも打ち殺されたとも伝えられる。しかし、吉岡側の資料である「[[吉岡家伝]]」によれば武蔵との試合は[[京都所司代]]の屋敷で行われて引き分けたとあり、また慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣]]では豊臣方について奮戦。落城後は家伝の一つである[[染色|染物]]業に専念したという。なお、黒褐色の染物を「'''憲法染'''」と呼ぶのは、吉岡憲法が発明したからだと伝えられている。
 
== 関連項目 ==