「神戸市交通局200形電車」の版間の差分

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== あだ花 ==
100形は[[1964年]]春から夏にかけて順次登場し、[[須磨車庫]]に配属されて300,400形単車の置き換えに充当された。しかし、流線型で一世を風靡した200形といえども、700形譲りの流麗な曲線基調の神戸市電スタイルの各車両の前では遜色があったようで、「曲線の処理が未消化」、「側面の流線型と前面の平面がアンバランス」、「(200形の特徴である)くの字に折れ曲がった車体はビア樽のようで不恰好」など、乗務員、乗客、ファンの誰からも「かっこ悪い市電」などと陰口をたたかれ、運転上の不具合や神戸市電式のフェンダーストライカーを取り付けられなかったことによる安全面の不備もあいまって、神戸市電ではすっかり嫌われてしまい、一時は[[休車]]状態となってしまった。それでも200形は100形同様背に腹は変え休車状態かれずに再度起用され、須磨車庫所属各系統に充当された。中でも、9系統(鷹取町~東尻池2丁目~五番町7丁目~湊川公園西口~新開地~三宮阪神前~脇浜町)によく投入されたため、100形がよく投入された和田車庫所属の12,13系統(脇浜町~三宮阪神前~神戸駅前~吉田町1丁目~東尻池2丁目~五番町7丁目~湊川公園西口~新開地~三宮阪神前~脇浜町。13系統はこの逆回り)では、200,100形の両形式よく投入されたため、並走する東部国道線(三宮阪神前~脇浜町)では両形式が並走れ違う場面がよく見られるようになり、沿線の雰囲気から[[大阪市電阪堺線|大阪市電三宝線]]をほうふつさせる風景が出現した。その後は100形同様、1968年4月21日の第一次路線縮小(須磨駅前~衣掛町、三宮阪神前~脇浜町、楠公前~兵庫駅前、湊川公園西口~新開地、有馬道~平野)に伴い、同年5月1日付で全車廃車された。廃車後、須磨沖で漁礁として沈められた車両もあったが、学校や民間施設に払い下げられた車両もあった。
 
== 極端に割れる評価 ==
神戸市電100,200形の種車となった大阪市電801,901の両形式は、戦前の大阪市電を代表する車両だけでなく、斬新な前中式のドア配置や流線型の採用などで、日本の路面電車の歴史に残る車両のひとつでもある。しかしひとたび神戸市電に移籍するや「かっこ悪い」に始まって「欠陥車(フェンダーストライカーが取り付けられないため)」、「パワー不足」、「神戸市電の伝統をイメージダウンさせた車両」、「(300,400形)単車のほうが上等」などといった悪評を投げつけられて、置き換える予定にしていた300形より先に全車廃車されてしまった。
 
前述のように、大阪市交通局では、戦前からつながりの深い神戸市交通局へ車両を譲渡するため、801,901の両形式の経歴を精査して、事故歴もなく戦災復旧車でもない、最良の状態の車両を選んで譲渡している。大阪市電の同世代の車両で、デザイン的に神戸市電の各形式と拮抗できる車両には[[大阪市交通局861形電車|861形]]、[[大阪市交通局868形電車|868形]]があるが、両形式とも大半が戦災復旧車で、当時は[[大阪市交通局2601形電車|2601形]]への更新工事を進めているところであった。たとえフェンダーストライカーの取り付けが容易であったにしても、関係の深い神戸市電にこれらの車両を譲渡するわけにもいかない。また、[[大阪市交通局1601形電車|1601形]]以降の大型ボギー車や[[大阪市交通局2001形電車|2001形]]、[[大阪市交通局2101形電車|2101形]]などの戦後生まれの中型車は、大阪市電もスクラップ&ビルドの最中であったことからしばらく主力車として使用することが見込まれていたため、当然譲渡対象車とはなりえなかった。そこで801,901の両形式が選ばれたのだが、必要最小限の改造で済ませて、台車取り付け位置の変更などの大改造を要するフェンダーストライカーの取り付け工事は実施されなかったことが、予期せぬ事態を招いたともいえる。こうしたことの蓄積が、結果的には大阪側の厚意が裏目に出てしまう結果につながり、悪評のもととなってしまった。
 
== 関連項目 ==
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[[Category:神戸市交通局|車200]]
[[Category:かつて存在した路面電車車両|こうへしこうつうきよく200]]
 
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