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その後は播磨に戻って、一女が嫁いでいた加西の下道山の磯崎神社神宮寺秀経に身を寄せて、名も右衛門と改めて[[新田開発]]に尽力した。また晩年には播磨国多可郡中町の延明寺に移り隠棲したといわれ、その地の糀屋村に将監のものといわれる墓が存在する。この墓によれば、法号玄徳院節厳禅義居士。この法号は磯崎神社に残る神宮寺過去帳と一致し、これによると[[1727年]](享保12年)5月22日に死去したとある。享年82。
 
[[司馬遼太郎]]の短編小説「池田屋異聞」(『[[新選組血風録]]』収録)では[[新選組]]隊士[[山崎烝]]を奥野将監の子孫として描いているが、これはフィクションである。
 
なお奥野の組に属していた藩士のうちからは潮田又之丞高教・木村岡右衛門貞行が吉良邸討ち入りに加わった。