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'''浅野 綱長''' (あさの つななが、[[万治]]2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1659年]][[7月18日]]) - [[宝永]]5年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1708年]][[4月1日]]))は、[[江戸時代]]前期の国主[[外様大名]]。[[安芸国]][[広島藩]]主(42(42万石)。[[浅野長政]]嫡流の浅野家第5代目の当主。幼名は岩松 (いわまつ)。官位は従四位下・安芸守(あきのかみ)。
 
万治2年(1659年)、広島藩主の[[浅野綱晟|浅野弾正大弼綱晟]]の嫡子として生まれた。母は[[左大臣]][[九条道房]]の娘逸姫。[[延宝]]元年([[1673年]])1月2日に父綱晟が死去したため、2月25日に浅野家の家督を相続。9月18日、将軍[[徳川家綱]]の前で[[元服]]し、将軍家綱の「綱」の字と浅野家の通し字の「長」の字をあわせて「綱長」と改名した。この時、綱長は、まだ朝廷から正式な四位・安芸守の下賜を受けていない無位無官であったのだが、将軍の許可を受けて特別に先んじて安芸守を通称にすることが認められた。9月23日にはじめて領地広島へ入る。延宝2年([[1674年]])12月27日に正式に従四位下侍従・安芸守に叙任。藩政は祖父[[浅野光晟]]が長く後見していたが、元禄6年([[1693年]])4月23日に光晟は死去した。[[元禄]]12年([[1699年]])[[寛永寺]]本坊の造営に功績があった。宝永5年(1708年)2月11日に広島で病死。[[享年]]50。
 
室は[[尾張藩]]主[[徳川綱誠]]([[権中納言]])の養女(実父は尾張藩主の[[徳川光友]])。なお弟の[[浅野長澄|浅野土佐守長澄]]は[[広島藩#三次藩|三次藩]]主である。子に[[浅野吉長|吉長]]、[[浅野長賢|長賢]]、[[中川久慶]]、梅([[小笠原忠基]]室)、娘([[九条師孝]]室)、娘([[一条兼香]]室)、娘([[本庄資訓]]室)、娘([[河鰭輝季]]室)、娘([[森長生]]室)。娘([[松平義方]]室)、娘([[水野忠幹 (松本藩主)|水野忠幹]]室)。
 
== 元禄赤穂事件 ==
元禄14年([[1701年]])3月14日には分家の[[赤穂藩]]主[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]が[[吉良義央|吉良上野介義央]]に刃傷に及んで改易切腹となった。この後、綱長は広島浅野家への連座を恐れて用人[[井上正信|井上団右衛門正信]]らを赤穂藩に派遣して赤穂浅野家筆頭[[家老]][[大石良雄|大石内蔵助良雄]]に「穏便に開城を」と迫った。開城後も赤穂浅野家遺臣らによる吉良家への討ち入りを止めさせるべく、足軽頭の[[進藤俊重|進藤八郎右衛門俊重]]などを派遣して[[進藤俊式|進藤源四郎俊式]]や[[小山良師|小山源五右衛門良師]]らを説得して同志の盟約から抜けさせるなど、一党の切り崩しを図ったが、結局、翌年12月15日に[[吉良上野介邸討ち入り]]が発生。その後[[大石内蔵助]]をはじめとする吉良邸に討ちいった[[赤穂義士]]47士が英雄化するに及んで、浅野本家は手のひらを返し、浅野家の宣伝のためにも大石内蔵助の遺児[[大石良武|大石大三郎良武]]を15001,500石で召抱えるに至った。
 
== 関連項目 ==
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{{先代次代|[[広島藩|浅野氏(広島藩4代)藩主]]|1673 - 1708|[[浅野綱晟]]|[[浅野吉長]]}}
 
[[categoryCategory:浅野氏|つななか]]
[[categoryCategory:外様大名|あさの つななか]]
[[categoryCategory:江戸の大名|あさの つななか]]
[[categoryCategory:元禄赤穂事件|あさの つななか]]
[[Category:1659年生|あさの つななか]]
[[Category:1708年没|あさの つななか]]