「太田氏資」の版間の差分

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だが[[1564年]]、父が[[第2次国府台合戦]]で氏康と戦って敗退すると、秘かに[[還俗]]して父と弟を居城の[[岩付城]]から追放して家督を継ぎ、以後は北条氏の家臣として仕えた。この際に氏康から「氏」の一字を与えられて「氏資」と改名した。
 
1567年、[[三船山の戦い]]で北条軍が[[里見氏]]に大敗したとき、[[殿軍]]を務めて戦死した。一説には父親を裏切って北条方についた事から北条家中の一部から冷たい目で見られており、それを晴らすために殿軍を申し出たのだという。また、別の異説として戦闘中、氏資に「度」(=落度・作戦上の失敗)があったために殿軍を引き受けたとする説があるが、当時の言葉で命がけの振舞いの事を「度」(命を落とすかと思われるほどの活躍)と表現する場合もあり、氏資に作戦上の失敗があったわけではない。息子がいなかったために[[北条氏房]]が娘婿(ただし、先に実兄である源五郎(実名不詳)が相続しその早世に伴ったものとも)となって[[太田氏]]を継いだ。
 
[[Category:太田氏|うしすけ]]