'''小早川 正平'''('''こばやかわ まさひら [[大永]]3年([[1523年]]''') - は、[[天文 (元号)|天文安芸]]12年の[[4月3日 (旧暦)|4月3日国人]]([[1543年]][[5月9日]]))は領主。沼田小早川氏の当主。[[小早川興平]]の嫡男。弟に[[平賀隆保]]、子に[[小早川繁平]]がいる。初名は詮平。官位は掃部頭、備後守、美作守。
{{武士/開始|小早川正平}}
[[1526年]]、父・興平が21歳の若さで没すると、沼田小早川氏の家督をわずか4歳にて相続。当時の芸備地方では[[尼子氏]]と[[大内氏]]の争いが頻繁に繰り返され、それに巻き込まれた小早川氏は当主の早世と相まって徐々に疲弊し衰退していくこととなる。
{{武士/時代|戦国時代}}
{{武士/生誕|[[大永]]3年([[1523年]])}}
{{武士/死没|[[天文 (元号)|天文]]12年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]([[1543年]][[5月9日]])}}
{{武士/別名|詮平(初名)}}
{{武士/戒名|成就寺天秀祖佑}}
{{武士/官位|掃部頭。[[備後]]守。[[美作]]守}}
{{武士/氏族|[[小早川氏]]}}
{{武士/父母|父:[[小早川興平]]}}
{{武士/父母|父:[[小早川興平]]}}
{{武士/子|[[小早川繁平]]、娘([[小早川隆景]]室)}}
{{武士/終了}}
大永3年(1523年)、小早川興平の長男として生まれる。大永6年([[15401526年]])、父の死去により[[尼子詮久]家督]が[[毛利元就]]の征伐を目的に継いで当主となる。はじめ[[吉田郡山城大内氏]]へ侵攻に従属していたが、天文8年([[吉田郡山城の戦い1539年]])、小早川正平はに大内氏を寝返り裏切って[[尼子氏]]に通じ従属しようとした。しかし家中の事前に[[大内派義隆]]に事が露見したため、義隆によって派遣された大内軍によって居城の[[高山城]]を占拠領され、[[さらに大内義隆]]から氏の城番が高山城にを派遣され当主である正平は大内氏のて監視下に置かれることという異常事態になったのである。
[[1542天文11年(1542年]])、[[大内義隆]]が[[出雲]]遠征を開始すると、尼子氏を一気それに殲滅しようと従軍した([[月山富田城の戦い|第一次月山富田城の戦い]])。小早川正平は毛利元就らとともにしかし大内方に従軍したが、翌[[1543年]]、大内氏は敗北を喫して全軍撤退却を開始。毛利元就となったともにき、義隆より殿軍を務めた正平は命じられ、天文12年(1543年)5月9日に尼子方軍の追攻撃によっを受けて[[出雲国]]内にて鳶巣川で戦死した。享年21年の短い生涯を終えることとなる。
後を長男の小早川繁平が継いだ。
{{先代次代|[[小早川氏|沼田小早川氏歴代当主]]|1526~1543|[[小早川興平]]|[[小早川繁平]]}}
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