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'''徳大寺 公純'''('''とくだいじ  きんいと'''、[[文政]]4年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]([[1821年]][[12月22日]]) - [[明治]]16年([[1883年]])[[11月5日]])は、[[幕末]]期の[[公卿]]([[権大納言]]後に[[内大臣]]・[[右大臣]])。[[従一位]]。[[鷹司政通]]の子。母は[[徳川治紀]]の娘・鄰姫。[[徳大寺実堅]]の養子。子には[[徳大寺実則]]([[宮内大臣]])、[[西園寺公望]](第12・14代[[内閣総理大臣]])・[[末弘威麿]]([[財団法人立命館]][[理事]])[[住友友純]](15代住友吉左衛門)らがいる。なお、公純はなぜか生前には正式な[[婚姻]]を行わなかったために、これらの子供達はいずれも[[庶子]]扱いとされている。
 
[[幼名]]は祐君。[[1850年]]、権大納言となる。[[1857年]]に[[議奏]]となった。
 
[[1858年]]、通商条約勅許問題が起こると、条約勅許に反対したため、[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]で「悪謀企策の者」として逮捕され、謹慎50日間を命じられた。しかし1ヶ月間で罪を許されている。
 
その後は[[公武合体]]運動を推進して[[二条斉敬]]らと共に活躍したが、[[和宮]]の[[徳川家茂]]降嫁に関しては反対の立場を取ったため、幕府から圧力を受けて失脚している。その後、復帰して[[執政]]となった。こうした政治的変動の中で公純も命を狙われており、[[1863年]]には家臣・滋賀右馬允が公武合体に反対する[[浪士]]達に殺害されている。
 
明治以後も[[攘夷論|攘夷派]][[公家]]としての矜持を保ち、[[京都]]に留まった。例え身内の者であっても洋装の客に対しては決して会おうとはしなかった。ただし、それはあくまでも自分自身の信念の問題であると考えていたらしく、息子・西園寺公望の[[フランス]][[留学]]実現にで奔走したのは公純であったと言われている。
 
1883年、63歳で死去。