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[[1942年]]3月、バルクマンは本国で再編中であった[[第2SS装甲師団|第2SS装甲擲弾兵師団「ダス・ライヒ」]]第2装甲連隊第2中隊に異動し、[[III号戦車]]の照準手(砲手)となった。[[1943年]]、再編なったダス・ライヒ師団は、[[パウル・ハウサー]]SS大将の指揮下で再び東部戦線へ配置された。[[エーリヒ・フォン・マンシュタイン|マンシュタイン]]上級大将の指揮する南方軍集団の隷下におかれたダス・ライヒ師団は、[[ハリコフ]]近郊でソ連軍の攻勢を迎え撃った。[[第三次ハリコフ攻防戦]]と呼ばれる一連の戦いの中で、バルクマンは多数の敵戦車を撃破し、照準手として有能であることを証明した。バルクマンは[[SS伍長]](Unterscharführer)に昇進し、戦車長へと抜擢された。
 
[[1943年]][[7月4日]]、[[ツィタデレ作戦]]が発動され、クルスクを中心とするソ連軍突出部に対する攻撃が開始された。ダス・ライヒ師団はSS第2装甲軍団の隷下におかれ、南からソ連軍を包囲するための突破を目指したが、攻勢は頓挫しヒトラーから中止命令が下された。ダス・ライヒ師団は、[[第3SS装甲師団|第3SS装甲師団「トーテンコープフ」]]と共に西方への撤退の中で後衛戦闘を行った。後衛戦闘の最中に多数の敵戦車を撃破したバルクマンに対し、[[8月1日]]付けで[[鉄十字章|一級鉄十字章]]が授与された。同月、バルクマンは第2装甲連隊第14中隊第4小隊の小隊長抜擢され転属、同時に新型戦車[[V号戦車|パンターD型]]を受領した。車体番号は221号車である。
 
=== ノルマンディー ===
[[画像:SdKfz267.jpg|thumb|right|250px|V号戦車パンターA型]]
 
ダス・ライヒ師団は[[1944年]]1月まで東部戦線での戦闘に従事した。この間にバルクマンは[[SS軍曹]](Scharführer)に昇進した。2月、ダス・ライヒ師団は補充再編のために[[フランス]]の[[ボルドー]]へ配置転換された。G軍集団の隷下におかれた師団は、予測されうる連合軍の侵入に対する貴重な装甲戦力として軍集団予備の扱いで再編を進めた。この際に、バルクマンはD型の問題点を改良されたパンターA型を受領した。車体番号は424号車である。
 
[[1944年]][[6月6日]]、連合軍の[[ノルマンディー上陸作戦|オーバーロード作戦]]が発動され、[[ノルマンディー]]海岸への上陸が開始された。ドイツ軍首脳部はこの上陸作戦を陽動と考えていたため、ダス・ライヒ師団は投入されず、ボルドーにとどめおかれた。やがて上陸作戦が陽動ではないことが判明すると、ダス・ライヒ師団にも北上の命令が下った。しかし、[[レジスタンス]]組織「[[マキ (抵抗運動)|マキ]]」の執拗な妨害工作により移動は遅れ、戦線に到着できたのは7月のことだった。なお、この北上の最中、レジスタンスを弾圧するためにダス・ライヒ師団による[[オラドゥール・シュル・グラヌ|オラドゥール村]]の虐殺事件が発生したが、これは装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」によるものでバルクマン及び装甲部隊は関与していない。
 
7月初頭にダス・ライヒ師団は[[サン=ロー]]近郊に到着し、南下を図るアメリカ軍の攻勢を迎え撃った。連合軍は制空権を完全に握り、砲兵等の火力もはるかに優越していた。このためドイツ軍の戦車兵は車体をさらす正面戦闘をできうる限り避け、フランス特有のボカージュ([[生垣]])を利用して戦った。7月中の戦闘を通じて、バルクマンと彼の小第4中隊は多数の[[M4中戦車|シャーマン戦車]]や[[M3軽戦車|スチュアート戦車]]、[[対戦車砲]]を撃破した。しかしながら、バルクマン小隊の損害も大きく、可動戦車は日ごとに減っていった。
 
=== バルクマン・コーナー ===
[[画像:Saint Lo and Vicinity - Operation Cobra.jpg|thumb|right|250px|連合軍の[[コブラ作戦]]。バルクマンが奮戦した7月25日から29日の戦況]]
 
[[7月27日]]、バルクマンの[[V号戦車|パンター]]は、前日からエンジンの不調のために隊から離れて単独だった。この日の早朝に修理は完了し、隊と合流するために移動している途中、友軍の歩兵から、・ロ近郊にアメリカ軍戦車部隊が存在するとの情報を受け取った。<ref>クータンセ攻略を担ったアメリカ軍第3機甲師団の部隊と推測される。</ref>バルクマンはこの戦車部隊の前進を阻止することを決意し、[[サン=ロー]]から[[クータンセ]]へ続く街道の交差点を戦場に選び、そこから100メートルほど離れた道路脇の[[樫]]の木の下にパンターを隠した。<ref>現在の国道174号線、ないし172号線と推測される。また交差点からの距離は200メートルとの説もある。</ref>なお、この時の照準手はポーゲンドルフSS上等兵である。
 
やがてバルクマンから見て左手側から戦車部隊が前進してきた。先頭の[[M4中戦車|シャーマン戦車]]が交差点に入ったところで、バルクマンのパンターは攻撃を開始、2両を立て続けに撃破した。損傷車両によって交差点の出口をふさがれたアメリカ軍は立ち往生した。混乱をついてパンターは砲撃を続行し、輸送車両やジープを次々と撃破した。その中には燃料輸送車も含まれていたため、街道上は炎と黒煙に包まれた。アメリカ軍戦車部隊は、攻撃を避けるために街道から外れて戦闘態勢をとり、一方で上空の[[攻撃機]]に支援を要請した。パンターが接近してきた2両のシャーマン戦車を撃破したところで、アメリカ軍攻撃機の爆撃が始まった。パンターは爆撃に耐えながら、さらに2両のシャーマン戦車を撃破、うち1両は炎上しつつも逃走した。しかし、間もなく敵戦車の砲弾が命中し、パンターの転輪の一部と空調装置が損傷、乗員2名が負傷した。バルクマンはさらに1両のシャーマン戦車を撃破したところでパンターを後退させ、後方の農家のかげに車体を納めると、急いで修理にとりかかった。幸いアメリカ軍がパンターを警戒して突っ込んでこなかったため、転輪を修理することが出来た。パンターは再び前進し、シャーマン戦車2両を撃破した。充分な損害を与えたと判断したバルクマンは後退を決定し、去り際にさらにもう1両のシャーマン戦車を撃破した。アメリカ軍にこれを追う戦力はなくその後、バルクマンとパンターは翌28日にはクータンセに到着して小の2両のパンターと合流しクータンセへ向かった。
 
後に'''バルクマン・コーナー'''と称されるこの戦闘で、バルクマンのパンターは、シャーマン戦車9両を撃破、1両を中破させ、さらに多数の車両を撃破し、アメリカ軍の前進を停止させた。その後7月28日、バルクマン小隊はクータンスのセに突入、市街防衛に加わりを占拠していたアメリカ軍部隊と交戦し、29日から30日にかけて敵戦車14両を撃破した。しかしながら、連合軍の攻勢は強力で、夜までにバルクマンのパンターを除く小隊以外全車2両が失われていた。また、この日に[[グランビル]]が陥落しており、バルクマン小隊は敵中に孤立していた。31日、バルクマンはみずからのパンター424号車を爆破処分し、小隊員と共に敵中7キロメートルを徒歩で突破、[[8月5日]]に[[アヴランシェ]]に到着して友軍中隊と合流した。
 
ドイツ軍はフランスを放棄し東方へ撤退したが、大部分が[[ファレーズ]]で包囲され、ダス・ライヒ師団もこの包囲環のなかに取り残された。ダス・ライヒ師団は、[[第9SS装甲師団|第9SS装甲師団「ホーエンシュタウフェン」]]と共に友軍の突破に貢献した。[[8月27日]]、ノルマンディーでのバルクマンの奮戦に対し[[騎士鉄十字章]]授与が決定された。<ref>実際にバルクマンが騎士鉄十字章を受け取ったのは9月5日。</ref>
 
=== 終局 ===
 
騎士鉄十字章授賞と合わせて[[SS曹長]](Oberscharführer)に二階級昇進したバルクマンは、第2装甲連隊第4中隊の隊長に抜擢された。この時の車体番号は401号車である。[[1944年]][[12月16日]]、ドイツ軍は最後の大規模反攻作戦となるラインの守り作戦(いわゆる[[バルジの戦い]])を発動、バルクマンもこれに従軍した。ダス・ライヒ師団は[[ムーズ川]]まで37キロメートルの地点まで前進したが、[[マンヘイ]]で停止させられた。作戦開始から10日ほどでドイツ軍の攻勢は頓挫し、態勢を整えた連合軍が反撃を開始した。バルクマンは作戦開始から多数の敵戦車を撃破していたが、[[12月25日]]の戦闘で重傷を負い後送された。1月末にはドイツ軍首脳部は作戦停止を決定、ダス・ライヒ師団も撤退した。[[1月25日]]、バルクマンに負傷章(金色)が授与された。
 
本国でわずかながら補充を受け取ったダス・ライヒ師団は[[ハンガリー]]へ派遣され、1945年[[3月6日]]から始められた東部戦線における最後の反攻作戦となる[[春の目覚め作戦]]に従軍した。この作戦においてバルクマンは、[[セーケシュフェヘールヴァール]]近郊で4両の[[T-34]]戦車を撃破し、ダス・ライヒ師団として通算3,000両目の敵戦車撃破を達成した。しかしながら、作戦自体は無残な失敗に終わり、ダス・ライヒ師団も装備弾薬を消耗しきってしまった。作戦開始時点でバルクマンの中隊は師団の中で唯一、定数である9両のパンターを装備していたが、ソ連軍の[[IS-2|スターリン戦車]]によって3両が撃破された。わずか6両とはいえ貴重な装甲戦力であることに変わりはなく、同じ作戦に従軍していた[[第1SS装甲師団|第1SS装甲師団「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」]]の[[ヨアヒム・パイパー]]SS大佐から、バルクマンに第1装甲連隊に合流するよう命令された。
 
第1装甲連隊はソ連軍の攻勢追撃を防ぐ後衛戦闘を行っが、4月初頭[[オーストリア]]の[[ウィーン]]南方へ移動しまで後退させられていた。戦闘の最中[[4月12日]]、バルクマンのパンターは移動中に友軍の誤射を浴びた。<ref>歩兵の[[パンツァーファウスト]]によるという。</ref>バルクマンと乗員は負傷し、パンターも損傷がひどした。さらにこの日の夜、パンターは爆撃跡にはまり込み、牽引する余裕もなかったために処分された。以降、バルクマンと乗員は部隊歩兵別れ西へ向かい、途上で第4中隊と合流して再びパンターを受け取ると、ドイツ降伏まで後衛戦闘を行った。[[5月8日]]、バルクマン達は[[バイエルン]]でイギリス軍の[[捕虜]]となった。大戦における最終的な戦果は、戦車82両(+α)、各種車両132台、対戦車砲43門であった。
 
=== 戦後 ===