「南越国」の版間の差分

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やがて[[紀元前179年]]、[[文帝 (漢)|文帝]]は陸賈を再度使者として南越国に派遣し、趙佗に対し帝号の廃止と漢朝への帰順を促したことで再び漢朝に帰属するようになった。2度目の帰属期間は非常に長く、南越王4代、60余念に及んだ。この時期の南越王は、開国の趙佗以外は、比較的平庸な君主が続いたこともあり、漢朝との関係は密接なものとなった。第2代南越王の[[趙胡|趙眜]](趙胡)は閩越が南越に侵攻した際には武帝へ善後策を一任したことで、趙佗の時期に帰順させた閩越が、南越国から離れ、漢朝の直接支配を受けるようになり南越国の中国南方での孤立が生まれた。
 
[[紀元前112年]]、丞相である[[呂嘉]]が反乱を起こし、第4代南越王[[趙興]](哀王)と生母の[[キュウ太后|樛太后]]、漢朝からの使者を殺害する事件が発生すると再び漢朝との対抗の時代へと突入し、結局漢朝により滅亡されるととなった。この時期の漢朝は最盛期を迎えており、北方で[[匈奴]]を駆逐し充実しており、反乱から2年足らずで武帝が派遣した征討軍により滅ぼされてしまった。
 
=== 長沙国との外交 ===