「ヴィエンヌ公会議」の版間の差分

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ここにおいて大勅書「レグナンス・イン・チェリス」でヴィエンヌへの公会議の召集が発表された。会議はそれからしばらくたった1311年10月に開会した。参加者は[[枢機卿]]、[[司教]]団、さまざまな代表者を合わせて180名あまりであったが、参加者の選定にはフランス王の強い意向が働いていた。
 
フィリップはかねてから悪化していた国家財政を立て直すため、[[テンプル騎士団]]の財産に目をつけていた。[[1307年]][[10月13日]]にフランス全土でテンプル騎士団の修道院を襲撃して会員を逮捕した。その口実はテンプル騎士団が異端であり、さまざまな不道徳な行為を行っているというものであった。
 
教皇クレメンス5世はこの教会に対する権利の侵害行為に抗議するどころか、フランス王に迎合する姿勢を見せた。フィリップ王が形式的に騎士団の裁判を教会にゆだねたため、ヴィエンヌ公会議は騎士団についての審問を行った。初めから結果は決まっていたようなものであるが、騎士団は有罪と判断され、解散が命令された。修道会の資産は聖ヨハネ騎士団に受け継がれることが決定した。