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'''谷川 士清'''(たにがわ ことすが、[[1709年]][[4月5日]]([[宝永]]6年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[1776年]][[11月20日]]([[安永]]5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]))は、[[江戸時代]]の[[国学]]者である。通称は'''養順'''。字は'''公介'''。号は'''淡斎'''。
 
[[伊勢国]]の[[津市|津]](現、[[三重県]][[津市]])の医者の家に生まれたので、[[京都]]に出て医学を学ぶ傍ら、[[玉木葦斎]]から[[垂加神道]]を学ぶ。
津に帰った後、医業の傍ら、[[有栖川宮職仁親王]]から[[和歌]]を学び、独学で[[国学]]を研究した。
 
士清が[[国語学]]に残した功績は大きく、その著作『日本書紀通証』第1巻に収録した「和語通音」は日本初の[[動詞]]活用表であり、また、『和訓栞』は'''日本初の五十音順に配列された[[国語辞典]]'''であった。『和訓栞』ただこの辞典は士清の生存中に全巻を刊行できず、士清後、遺族の手によって引き継がれ[[1887年]]([[明治]]20年)に全巻刊行された。
 
反面、士清の古典研究は、在来の学説を集成したもので、独創性に乏しいという評価がある。また、[[本居宣長]]からは、垂加神道に基づく古典の解釈がこじつけが多く非学問的だと批判されている。