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== 来歴・人物 ==
[[東京]]生まれ。[[東京大学]]独文科在学当時より[[シナリオ]]や独映画の評論を書いている。後の[[東宝]]社長である[[森岩雄]]は、この早熟の青年を気に入り[[日活]]の企画会議「金曜会」の助手として傍においていた。<br>1927年に大学を卒業すると洋画の輸入会社に勤めるが、そこで独の大手製作会社[[ウーファ]]の代理人であった[[川喜多長政]]と邂逅する。戦後、映画文化最大の保護者となる川喜多一家との交流は著作「映画が若かったとき」に詳しい
 
1927年に大学を卒業すると洋画の輸入会社に勤めるが、そこで独の大手製作会社[[ウーファ]]の代理人であった[[川喜多長政]]と邂逅する。戦後、映画文化最大の保護者となる川喜多一家との交流は著作「映画が若かったとき」に詳しい。

1929年、[[日本プロレタリア映画協会]](プロキノ)に参加する。1934年に当局の圧力により解散させられた時に委員長であった岩崎は翌年[[上海]]に渡る。岩崎の映画批評を[[魯迅]]が激賞した事が契機とするがこの大陸行きについては幾つかの謎は残っている。([[村上もとか]]の「RON 龍」での主人公が魯迅の行方を探す場面はこれからインスパイアされていると推察される)
 
1939年、[[唯物論研究会]]事件で[[治安維持法]]による逮捕、入獄するが翌年保釈。この際に転向したととされるが、この事件は国家統制を目的とした[[映画法]]に岩崎がただ一人だけ反対したことにより懲罰的に拘禁したという事実が隠されている。かつての左翼陣営の英雄児に映画界が背を向けた中で[[満州映画協会]]の[[根岸寛一]]は[[甘粕正彦]]の許可を得た上で東京支社の嘱託として迎えている。岩崎は生涯の恩人として甘粕・根岸への敬意を持ち続けたという。
 
1946年に[[日本映画社]]の製作部長に就任したが「日本の悲劇」、「Effects of the Atomic Bombs」の製作にたずさわった事が今度は[[GHQGHQ]]の実質的なパージにかかる。1950年、独立プロの[[新星映画社]]を[[今井正]]、[[山本薩夫]]、[[山形雄策]]らと作り「どっこい生きている」「真空地帯」「ここに泉あり」などで日本映画の良心を守り続けた。
 
◆大映画人である根岸寛一を敬愛した事は尋常でなく没後に伝記を書いているが、満映で同じ釜の飯を食った[[マキノ満男]]については肌合いがあわなかったのか大著「映画史」(東洋経済新聞社)ではそっけない。根岸を「生涯において肩書きを持たなかった男」としているが岩崎自身もこの評に当てはまる面がある。
 
 
== 関連項目 ==