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死没日が年末なので太陽暦だと翌年にあたる。
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'''結城  成朝'''('''ゆうき しげとも'''[[1439年]]([[永享]]11年)-[[14621439年]])-[[寛正]]3年[[12月29日_(旧暦)|12月29日]]([[1463年]][[1月18日]]))は、[[室町時代]]中期の[[武将]]。[[結城氏]]の第13代当主。第11代当主・[[結城氏朝 (下総結城氏)|結城氏朝]]の4。初名は'''重朝'''。官[[中務大輔]]
 
初名は結城重朝。[[1441年]]、[[結城合戦]]で父と兄[[結城持朝]]ら一族の多くが戦死したとき、幼児であった成朝は乳母の手によって[[室町幕府]]の追跡から逃れて[[常陸国|常陸]]の[[佐竹氏]]のもとへ落ち延びた。その後、[[足利成氏]]が[[鎌倉公方]]となって[[鎌倉府]]が復活すると、成氏の計らいによって結城氏の再興も許されることとなる。この際、兄の[[結城長朝]]も家督継承に名乗を上げたが、重朝の名からはこれを打ち破って家督を継ぎ、成氏の一字を賜って成朝と改名した。[[1454年]]には成氏の命を受けて[[関東管領]]・[[上杉憲忠]]討伐殺害尽力し加担、[[多賀谷高経]](後の[[多賀谷朝経|朝経]])兄弟が憲忠を討ち取った。これをきっかけに[[1455年享徳の乱]]が始まり、成氏が幕府から追討を受けて鎌倉を追われたとき、これを庇護している。
 
だが、[[1460年]]頃から次第に幕府と内通するようになる。これによって憲忠の仇討ちを願う[[上杉氏]]一族に引き渡される事を恐れた多賀谷朝経によって1462年に24歳の若さで[[暗殺]]された。朝経は[[山川景貞]]の子・[[結城基景|基景]]を擁立しようとしたが、基景が急死したために長朝の子である[[結城氏広]]が継いだ。法号は天江永城。
1462年に24歳の若さで死去し、後を[[結城氏広]]が継いだ。法号は天江永城。
 
{{先代次代|[[結城氏|下総結城氏当主]]|?~1462~1463|[[結城持朝]]|[[結城氏広]]}}
 
[[category:結城氏|しけとも]]
[[Category:室町時代の人物|ゆうきしけとも]]
[[Category:1439年生|ゆうきしけとも]]
[[Category:14621463年没|ゆうきしけとも]]